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2010年4月12日 (月)

テンピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)と「新生事件」

花野吉平は著書「歴史の証言」の中で、影佐禎昭に触れているが、その中で「閑話皇帝事件」いわゆる「新生事件」とからめて彼を語っている部分がある。影佐禎昭が、暴漢に資金を出して不穏な行動を策させ、上海で暴動を強行しようとした、と記述されているのだ。


私はここの意味がよくわからなかった。しかし中国側の史料にあたることでようやくその意味がわかった。また、鄭蘋如(テンピンルー)の父、鄭鉞(ていえつ テンユエ)が、ピンルーの命を犠牲にしてまでかたくなに親日側に転向しなかった理由が見えてきた。

以下、この裏面史を、「新生事件」を理解することから紐解いていきたい。


まず、花野吉平の「歴史の証言」から該当部分を引用する。

引用開始

1935年5月、上海で発刊されていた週刊誌「新生」に、易水という変名であるが日本に留学した者が、「閑話皇帝」の一文を記述したのである。その訳文は次の如きものである。これは、抗日と日本天皇制が綾をなし、中国民衆に批判される事件となる。

「・・・日本の天皇は一人の生物学者である。世襲的関係のために、天皇になっている。天皇の名の下に一切の行事に名義を貸しているようなものである。ただ外賓接見のとき天皇を用い、閲兵のとき天皇を用い、なにかの大典礼のとき天皇を用いる。その他の場合の天皇は、人民からまったく忘却されている。

日本軍部、資本階級が真正な統治者であることは上述の通りである。現状の日本の天皇は、一人の生物学研究の愛好者である。もし彼が皇帝とならず、幾多の雑事にわずらわされないならば、その生物学上の成果は、現在よりももっと多いであろう。彼が生物学上発見したものは、相当多数あるということだ。彼が帝位にあるということは、学術上莫大な損失である。

しかるに目下の日本が、天皇という1個の骨董を捨て去ることができないのは、天皇が現段階の統治上、あまりにも大きな幇助を行っているからである。つまり天皇を用い来たって、いさい内部各層の衝突を緩和し、一部の人間の罪悪を粉飾しようとしているのである。・・・

日本は天皇は神聖にして侵すべからずと称しているが、事実上において、真正統治者の傀儡(かいらい)にすぎない」

まことに他愛ない三文記事である。天皇は傀儡の刻印を受けた。英国、イタリア、ユーゴスラビア、タイ、満州国(皇帝は傀儡の傀儡と評されている)については、なにも問題はおこっていない。

それが大きな火の手となったのは、日本軍部の華北進出が開始され、日本軍部上海出先の海軍、陸軍影佐等が民衆の抵抗を逆用して、上海に暴動を強行しようとしたからである。

上海共同租界内の江蘇省高等法院第二分院で、日本側の圧力によって、「新生」社主、杜重遠は、刑法誣告(ふこく)罪、国交妨害罪により起訴され、懲役一年二ヶ月の判決が申し渡された。弁護人からの最高法院への上訴提起、上訴中の身柄保釈の願い出もいっさい却下された。

杜重遠は傍聴席にむかい、「余は中国の法律を認めず」と絶叫し、満員の傍聴人からはこれに呼応して、「反帝国抗日新生万歳」「打倒日本帝国主義」「反対売国裁判」が合唱された。

上海のインテリゲンチャーに忘れることのできない、日本天皇制への憎悪の歴史を作った「新生」不敬記事事件、河北事件などにより、対日親善派は媚日(びにち)売国弾劾案を監察院に提出されており、汪兆銘行政院長は辞表を提出した。それが尾を引いて、六中全会で汪は狙撃され重傷をうける。

私はこの事実を鄭蘋如の父鄭鉞から直接聞くことができた(彼は当時法院に関係していた)。影佐は資金を出して暴漢に不穏な行動を策させ、妻が(注:鄭鉞の妻木村はなが)日本人なので日本官権の通弁(注:通訳)の日本人から脅迫されたことがあり、影佐は中国将校に日本婦人を情婦にして情報をとっていた低級な男だと誹謗した。リストに東京帝国大学に聴講生となる(注:影佐が)ということが、記されているので驚いたのであるが、こんな悪党が汪兆銘工作の責任者になるのだから中国の民衆、とくに知識層は知っているので相手にはしないのである。こういう悪党軍人が功績を掠奪して将官になるのである。この連中が日本軍閥のエリート官僚であるから、その人間的品性を計ることができる。

引用終わり

表現が激しいが、著者花野吉平はのちに影佐機関側から牢獄に約一年つながれ、また一緒に活動した鄭蘋如が銃殺されるなどしたため、恨みもこもっているのだろう。

この「新生事件」、簡単に言うと、匿名で一人の中国人評論家が、雑誌「新生」に、天皇は傀儡にすぎないという記事を書き、それに日本側がかみつき、圧力をかけて有罪判決を引き出した。その圧力には影佐らの暴動画策や海軍の威嚇がからんでいた、ということだ。

次に、何揚鳴の論文「閑話皇帝騒動の一部始終」を、若干の補足と共に日本語に訳したので下記掲載する。

 

事の発端は、1935年5月4日発行の雑誌「新生」の「閑話皇帝」という投稿記事に、日本外務省天津総領事の川越茂がかみついたことである。

翌月の6月24日、「新生」の出版社がある上海の総領事、石射猪太郎は、なるべく穏便に済ませたかったが、マスコミが騒ぎ出したため、上海市長、呉鉄城に覚書を渡し、「新生」の「間話皇帝」が天皇を馬鹿にして日本人が怒り、事態が深刻で中国政府が迅速に事態を処理すべきと申し入れた。

上海市長呉鉄城はばつが悪く、すぐさま詫びをいれた。この「閑話皇帝」の原稿は、上海市の図書雑誌審査委員会の審査基準を満たしており、事前審査を通っていたのだ。

石射総領事は詫びを受けた後、なぜ審査を通したのか詰問した。呉市長は、一貫して日本との親善を主張し、偶発的な事件で、反日宣伝ではないと理解を求めた。

石射総領事は、すぐさま以下の要求を出した。

1.直ちにこの雑誌の発行を禁じ、転載も禁じる。

2.「新生」責任者と作者の処罰

3.事前審査員の処罰

4.上海市政府の書面での陳謝

5.再発防止策

呉市長は受け入れを表明したが、雑誌「新生」は共同租界にある出版社だったため、担当裁判所は租界を担当する江蘇高等法院第二分院となった。

石射猪太郎総領事の強硬な動きに同調して、日本側は極力緊迫した情勢を作った。日本海軍の軍艦が呉淞の河口まで入ってきて威圧し、海軍陸戦隊は配備に付いた。日本人地区虹口の3つの日本語新聞は中国側を脅迫する宣伝記事を書いた。「新生」の杜重遠は有名な反日活動家で、「新生」は抗日雑誌であり、張学良から資金援助を受けている、などと書いた。

石射総領事が上海市庁舎を出るとすぐに呉市長は市公安局に命令して、「新生」の社屋を差し押さえ、今後の発刊を禁じた。そして裁判を受けるかどうかを問うた。また、電話をかけ審査を通した審査員を厳しく責め、中日の外交問題に影響している責任を明らかにすると表明した。

上海市関係者は話し合いの末、杜重遠が個人的に勝手に記事を掲載した、ということとし、市政府は責任を逃れる案を作った。しかし、杜重遠は承認しなかった。杜重遠の承諾を得るために、市関係者は最初は脅しすかしの方法を採るが、最後は恐怖の手段を取ることで一致した。

24日の晩、国民党上海市党部の委員は福州路384号の「新生」編集部を訪れ、責任者を探しだし、法廷では「新生」は「間話皇帝」が審査を通っていたと認めてはならないと申し入れた。「新生」責任者はこれに反発し、審査を通っている証拠となる印鑑付きの清刷り原稿を金庫に隠した。

杜重遠は作者、易水に上海を離れるように勧めた。易水は中国共産党の助けを得てフランスに渡った(1949年彼は中国共産党の理論宣伝活動に従事したが、文革の中で迫害され死に至った)。

上海市関係者と杜重遠は2度交渉した。杜は、原稿は審査を経ておりその証拠もある。市政府は日本側の要求を受けるべきではなく、法律上の裁きを受けると主張した。作者易水は匿名であり住所は分からず探し出すことはできない。杜は一人で刑罰を受けると望んだ。

上海市関係者は、杜の強硬姿勢に対し、最後の方法を採るかどうか悩んだ。上海のマスコミはこの事件に対して不満で、杜重遠に対して最後の方法を採ると大衆の怒りを買うのを怖れた。

日本総領事はさらに厳しく催促してきた。中国側の陳謝を要求し、日本の暴漢を使って挑発した。市当局は杜重遠に説得を行うほかなかった。呉鉄城市長は自ら杜重遠を説得した。

「政府を巻き添えにしないでほしい。裁判所の判決が出るとしてもそれは日本側を懐柔するためだけで、執行猶予がついて、今後も仕事ができる」

と表明した。

杜はやっと法廷に出ることを承認した。双方は嘘の裁判をやることを相談した。開廷前、呉開先は、せいぜい罰金刑だろう、費用は市党部が負担すると言った。

国民党上海市政府は、1935年7月初旬、江蘇高等法院第二分院に提訴した。第一回は、杜重遠と易水に対する捜査で、傍聴席は20、30名だった。呉市長が個人の車で杜重遠を送迎し、保証人を立てる500元も市党部の予算から出た。

日本側は、この事件が罰金刑で済まされそうだと知って、市政府に圧力をかけた。上海の日本語新聞は中国当局の努力が足りないと書き、国民党に全責任があると主張した。日本の武官(注:1935年当時は影佐禎昭が武官として領事館に詰めていた)は、日本の記者に対し談話を発表、「新生」事件は、「外交以外の手段」でも解決できると言った。

やむをえず上海市政府は二回目の裁判を行うこととなった。かれらはまた杜重遠に会って、「間話皇帝」が審査を経ていないと声明し、作者易水に嘘をついて責任を負わすように懇願した。

1935年7月9日、第二回が開廷する。その日、完全武装の日本海軍陸戦隊が上海に上陸、示威活動を開始。日本の私服武装兵と暴漢もあちらこちらに展開した。イギリスの工部局警察は、虹口の日本軍司令部から浙江路の江蘇高等法院第二分院まで治安維持に出動した。偶発事故を防ぐため、司法警察が裁判所の周りを警備した。上海市公安局の工作員も治安維持に出動した。

開廷の数時間前、裁判所の周りは至る所人の群れとなった。内外の新聞記者や総領事がやってきた。裁判長は郁華だ。杜の弁護人は呉凱音で、彼は法廷で天皇に関連する発言をしないわけにいかず、うっかり天皇を侮辱するかもしれないため、発言に気を使うことが必要だった。日本側の暴漢は天皇を侮辱した場合、弁護人を撃ち殺すと言いふらしていた。

弁護人呉凱音は、事前に主席検察官の鄭鉞(注:ていえつ。テンピンルーの父)と打ち合わせをしていた。彼らは今回の事件は、「法律より外交が重い」と判断した。日本側はこの機会を狙って挑発し、暴動騒乱を誘発しようとしていると考えた。人民の生き地獄の苦しみを免れるため、慎重に処理する。しかし日本側の理不尽な要求、中国の司法への干渉を拒絶すべきとした。

午前10時、開廷した。主席検察官の鄭鉞が言った。

「間話皇帝」の一文は、各友好国の元首のことを話題にしているが、日本の天皇については特に多くを述べ、しかも侮辱している部分がある。作者の易水を呼び出す目処が立たないため、発行人兼編集長が全責任を負うべきである。新刑法第310条第2項、旧刑法第325条第2款の誹謗罪、及び新刑法第116条の規定により本刑三分の一を加重し、法廷上で法にもとづき厳しく処置されることを請求する」

裁判長、郁華は被告人杜重遠に問うた。

「なぜ友好国の元首を侮辱しましたか」

杜は答える。

「元首が生物学者であると言っただけで、攻撃したり侮辱するものではありません」

郁華は言う。

「天皇がもし研究に専念するならもっと業績が大きかったろう、などと言うことは、友好国を風刺し、嘲笑し、礼儀を知らず、罪に当たるとは思いませんか」

杜は答える。

「私は東北(注、満州)で仕事をしていて東北事件(注:満州事変か)の後すぐに上海の生活を対象とした出版社に来て「新生」を発行した。4月初旬、江西で仕事をしており、事務編集は代行を人に頼んでいた。「閑話皇帝」の原稿は、代理人が植字に回し、印刷に回した。事後に内容を見た。作者は日本留学生だが、天皇のことを学んでおらず、影響も考慮していないと言える。私が上海にいたならこの原稿は決して発表されることはなかった。しかし監督不行届の責任があり、私は応分の負担をするつもりだ。申し訳なかった」

杜は続ける。

「投稿記事だったため、作者易水の住所が分からず、今となっては原稿も探し当てることができない。しかし、文章は決して天皇を侮辱していない。日本は中国の内政に干渉しようとしている。日本軍人は横暴で、東北(注:満州)を横取りした。天皇は軍人に命令できるならなぜこうなるのか。これは風刺ではない。忠告だ。天皇の叡知によって日本軍は東北を撤退し私たちの山河を返すべきだ」

郁華は、

「それは政治問題であり、刊行物で気の向くままに発表することは許されない。この文章は、風刺、嘲笑によって外交を損ない、法律を犯した」

と言う。

(続く)一旦引用終わり

さて、後に影佐機関を作る影佐禎昭は、1934年8月1日から1年間、上海駐在武官であった。上の何楊鳴の引用文には影佐の人名はなかったが、「日本の武官は、日本の記者に対し談話を発表、「新生」事件は、「外交以外の手段」でも解決できると言った」とある。この武官が影佐であろう。

花野吉平の「影佐は資金を出して暴漢に暴動を策させた」というくだりや、1935年7月3日発行の東京朝日新聞夕刊の「日本海軍第三艦隊が上海に待機」という記事からして、「外交以外の手段で解決できる」という意味は、裁判に対する武力による威圧、つまり「砲艦外交」以外の何物でもないだろう。

被告を守る側の弁護人と、訴える側の主席検察官の鄭鉞が公判前に打ち合わせしている。どのような判決に持って行くか、すり合わせをしている。「法律より外交が重いと」と言って・・・・。私は司法の専門的なことはよくわからない。しかしこれはやはりあってはならないことだろう。彼らの脳裏には、1932年の第一次上海事変の地獄絵が思い浮かんだのだろう。特に、日本に10年も住んでいた鄭鉞は、日本人、中でも日本軍部がどれだけ天皇の神格性を重視しているかがわかっていた。

裁判長の郁華と鄭鉞は、古くからの友人である。彼らは一心同体と見ていいだろう。「新生事件」は最初から出来レースの裁判だった。被告人に実刑判決を下すという犠牲をもって、日本の軍隊に引いてもらおうという、司法に政治判断が介入した悪しき事例となったわけだ。

このことが、鄭鉞と郁華をその後ずっと悩ますことになった。鄭鉞が「新生事件」の裁判に関わっていたことは、中国側が書くピンルー関連情報からは全く欠落している。書きにくいことだと思う。これができるのは日本側の研究者だけなのかもしれない。歴史を知り、知らしめることは、将来の幸福の為にある、という思いのもとで書かさせていただく。


当記事の続編でこの裁判が、間接的にせよもたらした結果を述べる。

続 テンピンルーの父 鄭鉞と「新生事件」に続きます  ←クリック

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