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2010年4月13日 (火)

「鄭蘋如」を読んで 

柳沢隆行著の「鄭蘋如」を読了した。内容は、以前放送された読売テレビの番組の書籍版であった。この番組は映像を使った史料集の体裁だったが、そのときの詰め込み的な編集に、私は時間内におさまらないなら書籍で出すべきと感じた。また、この番組の主題は「鄭蘋如の悲劇」ではなく「木村はなの悲劇」だと述べた。今回まさにこの番組の書籍版が出たのだと言える。この本は当初から番組製作と同時進行だったのだろう。

著者が、数多くの取材を長い時間かけてこなした跡が見て取れる。関係者に実際に会って、話しを聞けるならばできる限りそうしている。そこはまさに脱帽で、説得力がある。非常な情熱をもって調査を行い、この本を執筆されたことが伝わってくる。

私は最初に読んだ西木氏の「夢顔さんによろしく」の影響を受けていたので、当ブログでは彼女をテンピンルーと表記した。これは日本では既に彼女のスタンダードな表記となっている。柳沢氏はあくまで「ていひんにょ」である。それはほかの中国人の名前も日本語読みで統一するという整合性からは正しい。私も当初より悩んだところだが、私の中ではやはりテンピンルーはテンピンルーとさせてもらった。他の家族がたとえ、鄭鉞(ていえつ)、鄭海澄(ていかいちょう)となろうともだ。「北京」を「ほっきょう」とは読まず、またピンイン表記のBeijingに近い「ベイジン」とも読まず、「ペキン」とカナを振るのと一緒で、現実のスタンダードに合わせさせてもらっった。

この本の発行をもって、影佐機関出身者が戦後も日本で行ってきたピンルーをおとしめる世論誘導の影響もようやく終わりをつげることだろう。戦後出されてきたピンルーを登場させる小説は、ほとんどが晴氣本「謀略の上海」を参考としているためか、ピンルーはあくまで妖艶な色気を漂わすハニートラップの名手、毒蛇のような女として描かれてきた。また、これも影佐機関員だった議員、犬養健の「揚子江は今も流れている」を参考にした小説は、ピンルーを援助交際を求める少女のような浮ついた女として描くのだ。しかし、この本の発行をもって彼女の名誉は回復することだろう。

実はこのブログの目的の一つがそこであった。歴史についてアマチュアな私が、2年半にわたって情熱を持って調査を続けられた原動力は、ピンルーの名誉回復であった。なぜ私がそれを、というのは実は自分でもわからない。私がやらねばと勝手に思ってやってきた。その部分においては、肩の荷が降りた感じであり、柳沢氏には感謝である。

しかし、私の目から見て、僭越ながら掘り下げが足りないと思われる部分があった。そこは非常に肝心な部分だと私は判断している。それは歴史に対する見方の違い、歴史への見たての違いとも言える部分かもしれない。主に、丁黙邨暗殺未遂事件への李士群のかかわりと、父鄭鉞が娘の命を犠牲にしてまでかたくなに親日政権側へ転向しなかった理由の部分である。

前者については、過去の記事、「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇 後編」←クリック を参照頂きたい。この記事は当初書いたのが2008年1月なので既に2年以上経ったが、書き換えるに足る「これは」という情報を得るたびに加筆修正している(書籍と違いブログのいいところだと思っている。どこをどう変えたかは自分でも既にわからない、という無責任さはご容赦頂きたい)。

また後者については、タイミングよく「テンピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)と新生事件」←クリック を書きあげたので参照いただきたい。

さらに、近衛文隆との交際についてだが、中国側は一貫して、文隆とピンルーの交際を、文隆がまんまと騙されたものとして扱っている。地下工作員として目的を持って近づいたピンルーに、青春真っ盛りの文隆がメロメロになったというスタンスだ。柳沢氏もこの中国側のスタンスに立っている。私はそうじゃないと思っている。

柳沢氏よりも限られた史料を使って、私なりに見たてているので、大いなる勘違いの可能性もあるが、私は自分の説に自信を持っている。

さて、本書を読ませていただき、いくつか疑問、というよりも質問、そして意見があるので、以下挙げてみたい。

P109  ピンルーの生まれは、読売の番組だと法政大学の名簿、法学志林の住所記載により、東京牛込区早稲田鶴巻となっていたが、本書では東京小石川の音羽となっている。この不一致の理由は何だろうか。

P167 「鄭家とも親交のあった、阪義雄がこの話しを聞きつけ、鄭蘋如を彼らに紹介・・・」とある。この阪氏は、本書の他の部分にも度々登場する。ネット上では、妹天如さんも阪氏に言及し、日中の和平の集会にピンルーが出るようになったのは、阪氏が誘ったのがきっかけで、母方の親族である、と語っているサイトがあるが、本書ではどのような人物か説明がなかった。

P174  松崎啓次の「上海人文記」に触れ、「松崎は、このことがきっかけになり、特務部の金子少佐らの手で、鄭蘋如は日本軍のスパイとして働くことになったと書いた」と、柳沢氏は松崎の書を紹介する。しかし、「上海人文記」のどこを読んでも「ピンルー(注:同書では戴志華の仮名で登場する)が日本軍のスパイとして働くことになった」とは書かれていない。「上海人文記」のP10には、「スパイとして銃殺される第一項の日記が、ここに書き込まれたのだ。」と記載されている。ここのスパイとは、文脈からは中国側スパイ、という意味で使われている。柳沢氏の解釈は逆であるがどうだろうか。

P175 「かわいそうなのは華君(注:母木村はな)である。娘に利用されたあげく、お国の役にも立てなかったのだ。松崎の書にもあるように、蘋茹は母親に対しては、日本軍傀儡の維新政府で働いていると言いくるめていたフシがある」とある。

ここは、歴史の解釈の違いと言える。私は、母親とピンルーは一体だったと信じている。娘というものは人生のぎりぎりの判断の時に母親に相談せずに逆にだます、ということができるだろうか。これでは家族関係が崩壊している。ピンルーが母親を「だまし、利用した」証拠を挙げていただきたい。ここは読売のテレビ番組でも同じ作りだった。歴史、historyは「ハイ ストーリー」とも揶揄され、著者の作り出す「高度な物語」である。しかし、本書はノンフィクション小説ではなく史料の体裁を取っている。できれば証拠を挙げてほしい。

P250 「小野寺機関が近衛文麿による近衛家防衛のためにつぶされた・・・云々」は、とても新しい見方で興味深い。目から鱗が落ちる部分だ。しかし、小野寺機関の主要メンバーであった早水親重は、1944年には近衛文麿の和平工作の代理人として恐らく三度目となる上海を訪れている。早水親重が「近衛文隆追悼集」に寄せた文章にはこう書いてある。

「昭和19年、東条内閣総辞職後、土井章、栗本両君らと、中国を介して連合軍との和平交渉の道をあけ、近衛公に取り次ぎ、公の代理として、水谷川氏らと共にこれ努めたが、ついに軍の反対で成らず、その間文隆君がいてくれたならば、と思わぬ日はなかった」

自分がまさに命がけで活動した組織、小野寺機関ををつぶした近衛文麿の代理人として、再び活動するだろうか。私は文麿は文隆の帰国騒動に関しては受け身に終始したと感じる。宮仕え系でもし文隆帰国の策略をしたとするなら、国体護持に異常な執念を持ち続けた木戸幸一あたりのような気がする。この辺は改めて調査したい。

P253 「ふたりの交際(注:ピンルーと王漢勲)は、八年前の1931年にはじまった」とある。これは大同大学付属中の二人の友人がピンルーと王漢勲をパーティーで紹介しあって知り合ったと妹天如氏が言っていることからである。天如氏はこのパーティーを「同学会」と中国語で表現している。「同学会」は「学友会」」と訳し、英語だとAlumni Party(アルムナイパーティ)となる。つまり、同じ学校の卒業生なら誰でも出られるパーティーであり、現在でも特に欧米系大学では盛んである。参加者は学年は違えど同じ学校の卒業生との人脈を広げることを目的とし、学校側は卒業生からの寄付金が目当てである。柳沢氏は、この同学会を在校中のクラス会のようなニュアンスとして語っている。しかもピンルーが17歳、王漢君が19歳の時の。これだと確かに長いお付き合いである。

私は二人が出会った学友会は、1937年、王漢勲が空軍の出撃準備のため南昌基地へ赴任する直前くらいだと思う。妹天如が以前アメリカのプレス向けに、姉はボーイフレンドとは短いおつきあいだった、とインタビューで答えていたからだ。「テンピンルーの妹、鄭天如さんの記者会見記事」を参照←クリック また、杨莹(ヤンユイン)という中国の女流作家による天如さんへのインタビューでは、「二人が知り合って間もなく王漢勲は重慶に行きました。その後は手紙だけの付き合いとなりました」と言っている。重慶は蒋介石国民党軍の本拠地である。おそらく二人は1937年8月13日の第二次上海事変勃発の影響を受け、短い期間で離ればなれになったのだろう。

P256 近衛文隆は日本に帰国前、ピンルーに「古龍」というブランドものの香水を人づてにプレゼントしたとある。妹天如は、「なにか(注:男女関係が)あれば自分で渡すのでは?」と、「文隆とピンルーの恋愛関係は無かった」と言いたかったようで、柳沢氏もそれに同調し、「近衛文隆と鄭蘋如の関係はこんな風にしてはじまり、残念ながら(?)、こんな風に終わった」と書いている。残念ながらに(?)マークを付けたところなど、文隆とピンルーの交際にロマンを見い出していた人(私もその一人だが)には、小馬鹿にされた感じがするが、それはさておき、文隆とピンルーの交際を引き裂こうとする憲兵隊の策略の中、帰国直前の文隆はピンルーに会いにくい事情があったのではないだろうか。

さらに、林秀澄の談話速記録を引用しているが、原文では「そのころ文隆君は鄭蘋如「と」熱くなってしまいまして・・・」と書かれているところを、「文隆は鄭蘋如「に」熱くなって・・・」と微妙に引用が違っている。「と」であれば二人とも熱くというニュアンスであり、「に」であれば文隆が勝手に一人で熱くなったということだ。この辺は、ピンルーと文隆の男女関係をなかったこととしたい中国側の意図に乗り過ぎていないだろうか。

また、本書ではピンルーが文隆のことを中国語で「あの子」と呼んでいたと妹天如さんのことばを紹介している。こういう見下したような呼び方をする仲だった、と言いたいようである。が、中国は女尊男卑の国である。ピンルーが少なくとも一時期、親愛なるボーイフレンドとしていた王漢勲のことを彼女は「大熊」(ターション。中国語で「大きな意気地無し」という意味)と呼んでいた。「あの子」も「大きな意気地無し」も似たようなものだ。むしろ親しさの表れと見てもいいのではないだろうか。

本書では、王漢勲をピンルーの婚約者と記載しており、これは中国側のサイトがくり返し述べる中国語表現「未婚夫」の日本語訳であろう。しかし婚約していた証拠はどこにあるのだろうか。私は目にしたことがない。

ちなみに、許洪新の著書「一个女間諜」に、1939年春に王漢勲がピンルーに2通の手紙を出し、香港で結婚式を挙げようとプロポーズしたとある。しかしピンルーは「戦争に勝利するまでは・・・」とやんわりと断ったことが書いてある。これはどう解釈すべきだろうか。文字通り取れば、やがては結婚をするつもりの婚約者同士のようにも取れる。

しかし、時期的に、この手紙のやりとりと微妙に関係しそうなのが、松崎啓次著「上海人文記」の「戴志華の銃殺」の章 ←クリックで出てくる次のせりふである。蒋介石側のある中国人男性、おそらくは王漢勲とピンルーの共通の友人、がピンルーにこう言うのだ。

「電話をかけたり、手紙を出したり、使いをやったりするのに、なぜあなたはあの人に会ってやらないのです!」

さらにその男は声を低くしてこう言う。

「あなたは最近、日本人とつき合っているって噂ですが、本当ですか?私のうちへ明日の午後来て下さい。明日ですよ」

もちろんこの通り言ったのではないだろうが、このような意味のことを言ったのだろう。時期はやはり1939年春だ。このあとのシーンではピンルーが男女間の悩みをかかえていたように描写されている。著者松崎が思いつきでこういうエピソードを入れる動機が見つからない。私はこの頃に、ピンルーの男女関係、心境の変化があったと見ている。

P333 事件後、「ひとり残された蘋如は、とっさに、「スリに遭いました。助けて下さい」と、租界の外国人パトロール警官に頼んで、そのまま家に送り届けてもらった」とある。ここも新説である。事件後のピンルーの状況がかいま見れる。こういう新説には出典を付けて頂けたら本書を史料として使う際に助かる。おそらくは妹天如さんの話しからとは思うが。

P340  事件後、ピンルーは、「家を出たあと76号には行かなかった。行動隊のアジトに身を潜めたのである。隊員のすすめに従って、そこからいくつかの探りの電話を入れた」とある。これも新説である。出典がほしい。私は、松崎啓次の「上海人文記」にある通り、日本側知人などの個人宅に身を隠していたでのは、と思っている。

P343〜344  ピンルーが「まさか処刑されるとは夢にも思っていなかったらしい」とあるが、私は彼女は処刑は覚悟の上、と考えていたと判断している。その理由は当ブログの記事「続 テンピンルーの父鄭鉞と新生事件」を参照してもらえばわかる。ピンルーの事件と逮捕監禁の意味を深く掘り下げれば、そこには上海共同租界の刑事事件を牛耳る主席検察官、父鄭鉞の取り込みの目的があったことが導き出される。そして父娘の共通の思いを類推すれば、ピンルーはやはり処刑を覚悟していた、と私は考える。

P352 丁黙邨暗殺の共同実行犯だった嵇希宗が、1941年の段階になると、丁黙邨と手を組んでいるくだりがある。これも驚くべき新説である。ピンルーが命をかけて暗殺の手伝いをし、それを命じた嵇希宗は、数年の後には暗殺対象の人物と手を組んでいるとは。著者を信用しないわけではなく、史料としての出典があるとうれしい。当時の地下工作員の節操の無さ、あるいはまた、地下工作員を取りまく恐怖の状況が分かろうというものである。

著者は、本書で当時の歴史の背景説明にもページをかなり割いている。むしろそちらのページ数の方が多いかもしれない。背景を知った上で、ピンルーを理解してほしい、ということだろう。しかし、背景に上げた歴史はもう少し対象を選りすぐってもよかったと思う。

残念ながら本書が取り上げなかったものの、私が思わずうなってしまった歴史の「連関」を少し挙げてみる。

○父鄭鉞(ていえつ)がピンルーを見殺しにせざるを得なかったのは、1935年の「新生事件」という、影佐禎昭や鄭鉞のかかわった事件と深いつながりがあった。

○王漢勲はパイロットとして上海爆撃に参加、彼ら中国空軍の落とした爆弾により上海市民千名以上が死傷したが、近衛文隆が数日前まで日本案内をしていたプリンストン大学の恩師ライシャワー氏も、キャセイホテル前で爆死。

○その王漢勲らがいる中国空軍基地を叩く日本海軍の台北基地には、のちにピンルーを捕えることになる台湾憲兵隊台北分隊長、林秀澄が勤務していた。

これらのピンルーを取り巻く周辺情報は当ブログにまとめてある。下記リンクから参照頂きたい。

王漢勲や林秀澄の登場する「上海防空戦1〜8」はこちら←クリック

ピンルーの父、鄭鉞が関わった「新生事件」はこちら ←クリック

付け加えるとすると、ピンルーが勤めていた日本側ラジオ局、大上海放送局アナウンサー時代の考証もあると良かったと思う。「ピンルーの勤務したラジオ局 大上海放送局」はこちら←クリック

私としては、本書を大いに参考にさせて頂き、さらに周辺情報を集め、私独自の見立てでテンピンルーにまつわる歴史を解明していきたい。

本書は一般読者向けではない。一言で言うと、ピンルーマニア向けの「史料」だ。私のような者には情報の宝庫である。しかし彼女に興味のない方はページをめくる指が鈍ることだろう。それは読売のテレビ番組がドラマではなく、史料の映像版だったのと同じ事だ。感動を誘う書き方や劇的な書き方はされているわけではなく、また柳沢氏独自の解釈とストーリが幅を利かせているわけでもない。著者自身の調査にもとづき、淡々と事実と思われることが提示されていく。冒頭にも述べたとおり、感動するとしたら著者の徹底的でち密な取材姿勢に対してである。ピンルーとその家族の「史料」を入手したい方にはお薦めの本である。

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コメント

いや びっくりですねー。野口雨情・中山晋平 昭和三年 作詞作曲ですか。
私の幼稚園・國民學校時代は「南京さん良い人、蒋介石悪い人!」を徹底して教へ込まれてゐたので、歌詞の「南京さん」はてっきり汪兆銘のことを謳ってゐるものだとばかり思ってゐました。
懐かしい、あのメロディを耳に出來るとは。
有り難うございました。

投稿: 別府次郎 | 2010年7月24日 (土) 19時51分

別府次郎様

「南京言葉」という曲を初めて知りました。こちらで聴くことができました。http://www.youtube.com/watch?v=IWxXIOFLoQE
のどかで平和な歌詞ですね。上海、南京の裏面は見えないようにということでしょうか。

汪精衛政権樹立後にロケされた映画「上海の月」の主演女優山田五十鈴も、テロの心配の無くなった上海で安心して撮影しているというようにインタビューで答えていました。実際には1940年代に入ってもテロが続きましたが、日本軍によって満州、北支、上海、南京などの統治がうまくいっているということを言うことに意味があったのかもしれませんね。

投稿: bikoran | 2010年7月24日 (土) 13時23分

柳澤隆行著「鄭蘋如」讀了。
膨大な資料・文献の渉猟・精査と 可能な限り廣範な取材を重ねての勞作に深甚の敬意を表します。  惜しむらくは出版社がもすこしマシなところなら世間一般の話題にものぼり 注目と評判を呼んで版を重ねたであろうに。
鄭家の波瀾萬丈の百年史に留まらず、南京國民政府樹立の經緯も詳細を究め壓巻です。
昔 幼稚園で唄った『南京さん、南京さん、南京さんの言葉は南京言葉、ピイチク・パアチク ピイチクパ、(refrain)』と謂う童謡が何度か口を衝いて出て來ました。 今やこの歌詞を知ってゐる人も少なくなった事でしょう。
汪精衛支持世論喚起のプロパガンダの魔手が幼稚園にまで及んでゐた證據です。

無邪氣な童謡の歌詞とは裏腹に 凄惨な血を血で洗うテロの應酬が繰り返されてゐたとは幼稚園児はもとより一般國民も 軍に都合の良い新聞情報以外 その實態を知るよしもなかった事でしょう。 
今でも同じ事がイラクやアフガンで繰り返されてゐることを思うと平和のありがたさが身に滲みます。

ところで 7/17 BS朝日で偶然「リイ・シャンラン」を視ました。
今は正面からカメラを向けさせないそうですから、随分以前の映像でしょう。
二時間番組の半分以上すぎてからでしたのが残念です。
初めて 臺詞ではない通常會話の肉聲を耳にしましたが、滑舌が少し標準から外れてますか? そこがまたなんともエキゾチックな魅力なのかもしれませんが?
(2010/07/23)

投稿: 別府次郎 | 2010年7月23日 (金) 16時20分

別府次郎様

コメントありがとうございます。
川島芳子の番組に関しては、テレビならではの情報提供のやりかただったな、という他ありません。精査しているようでしているわけではありませんでした。しかしとても興味を引く出し方をしていました。

骨格はプロットの点を数ミリずらすだけでがらりと変わりますし、蓄音機に関しても私が少し調査しただけで日本海軍との関連が否定されました。

もし生存していたとして、文革期間を彼女が身許を明かされずに切り抜けたとはとても思えませんので、私としては銃殺されていたと思います。

私がこの番組から学んだのは、中国という国が公式見解以外の個人的歴史見解をかなり自由に表明できる国になっていること。このことが驚きでした。そして、改めて思うことは、「歴史は作られる」ということですね。歴史を学ぶ者は、どこがなんのためにどう作られているか、を見分けることが大きいと認識した次第です。同時に、では自分はどうなのか、ということを自戒をこめて感じました。


投稿: bikoran | 2010年7月14日 (水) 07時55分

昨日 久方ぶりに馴染みの本屋に立ち寄り、「鄭蘋茹」をみつけ、しばし 買うか買はぬか思案しましたが、著者に馴染みなく、かつ 出版社が好みでなかったので、買はずに帰りました。
讀賣番組は視てをりませんが、鄭蘋茹の名前を承知したのは、「ラスト・コーション」です。 貴ブログ讀んで 俄然 興味百倍、明日 買いに走ります。

ところで、貴ブログで「川島芳子」も読ませて貰いました。
私は テレ朝番組を視て すっかり生存説を信じ込み、佐野眞一さんにお書きになるよう懇願したのですが無反應。
http://www.tv-asahi.co.jp/d-sengen/sp/index.html
生存説に対する貴見お聞かせいただければ幸甚。

投稿: 別府次郎 | 2010年7月13日 (火) 20時41分

潤様

コメントありがとうございます。
ピンルーの事件を素材の一つとした映画「支那の夜」を李香蘭が演じております。その時点で李香蘭とピンルーは既に繋がります。それが1958年、李香蘭こと山口淑子氏が大鷹弘氏と結婚することで、義理の弟、正氏の妻節子氏(小野寺信の娘)を通じピンルーとの脈が再びつながるわけです。このあたりは歴史の醍醐味ですね。

アイデンティティの相克に悩んだ二人の不思議なつながりです。

ひとつ、柳沢氏の著書で、偽の戴笠(タイリュウ)をピンルーが小野寺に紹介し、それがもととなり小野寺が失脚したように、林秀澄氏の話を元に書かれていますが、晴氣慶胤の著書「謀略の上海」によれば、ピンルーが蘭衣社系のある人物を紹介し、その男が偽の戴笠を紹介した、となっています。これを読んだだけではピンルーが小野寺に偽の戴笠を合わせようとした意志は確認できません。

私は、ピンルーにとって「同士」の一人であった小野寺が失脚するような元をピンルーが作り出すとは思えず、この件に関しては、晴氣の話が真実に近いと判断しています。


投稿: bikoran | 2010年6月22日 (火) 03時08分

はじめまして

昨日柳沢氏のご著書を立ち読みながら拝読しましたが、
李香蘭と縁戚にあたる小野寺信少将とピンルーの交流を知り、不思議な歴史の縁(えにし)を実感しました。

小野寺少将の在欧時代のエピソードはよく知られていますが、上海時代の対中国工作の内容が詳細で興味深かったです

投稿: 潤 | 2010年6月22日 (火) 02時02分

花椒様のおっしゃる、

「・・・人は彼女の中に自身の様々な思いを投影するのだと思います」

は、まさにそのとおりですね。

彼女は謎を残し、かつ悲劇性があったからこそ、より深い愛情を受けつつあるのかもしれません。

投稿: bikoran | 2010年5月 2日 (日) 11時39分

bikoranさん

私のコメントへの返信ありがとうございます。
「徐小姐のロケット 9」読ませて頂きました。

テンピンルーについて解き明かそうと思うと、そこには何人もの国の要人、文化人などが様々なことを彼女について語っているため、何が真実なのかは、すぐにはわからないことなのだと思います。テンピンルーが抗日烈士だとは私は微塵も思いません。彼女は日本人と中国人の間に立ってとても苦しい思いをしたのだと思います。どちらの国も愛していたからこそ、彼女の周りには彼女の思いに賛同する同士がいたのだと思います。

彼女は自分の理想を実現するにはあまりにも世間知らずで純粋過ぎたのでは、と私は思っています。


テンピンルーの謎は追いかけたくなる魅力になんて溢れているんだろう、と私は感じています。

そう感じ、その魅力に惹きつけられる人が当時も後の世にもたくさんいるからこそテンピンルーについて様々な人物像がその人のフィルターを通して語られるのだと思います。(それは彼女に限ったことではありませんが。)人は彼女の中に自身の様々な思いを投影するのだと思います。

納得のいくまで彼女の思いに迫りたいと思います。
bikoranさんは、現在中国語の新聞を読まれているのですね・・、その熱意には脱帽です。

テンピンルーについての思いを書いていたら、長くなってしまいました。

次の更新も楽しみにしています。

投稿: 花椒 | 2010年5月 2日 (日) 00時27分

花椒様

コメント頂きありがとうございます。当ブログは元々上戸彩「李香蘭」の吹き替え問題からスタートし、いつのまにやらテンピンルーのブログになりました。あえてこの二つの共通性を挙げると名誉回復(私が勝手に使命感を持った)なのですが、それは一応実現できたかなと。

ただ、テンピンルーについてはまだゴールには達していません。名誉回復がゴールではないので。それはまさに花椒さんの書かれた下記、

「彼女が実現しようとしていたことはどのようなことだったのかという仮説や、彼女の愛はどこにあり、どこに向かおうとしていたのか、(家族、国家、自分の名声、丁黙邨など・・)

は、ポイントの一つです。


薄ぼんやりと見えてはいます。しかしまだパズルのピースがはまりきっていません。当時の中国語の新聞を見るしかないところまで来ているので時間がかかりそうです。

中国側の言う「抗日烈士」では終わらないのは確かでしょう。


以前の記事、「徐小姐のロケット 9」http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/9-16be.html
で、徐小姐はこう言いました。


「私、私のからだ、蒋介石のものでも、支那のものでもない、私は、私のものです。分かりますか。スパイではありません」


この言葉は、松崎啓次が聞いて書いたものです。本当にこう言ったかはわかりません。しかし少なくとも松崎は、徐小姐の意志をこう感じ取って書いたことは事実でしょう。


この言葉は大きなヒントになると思っています。

投稿: bikoran | 2010年4月26日 (月) 04時14分

はじめまして。花椒と申します。初めてコメントさせて頂きます。

私も上戸彩さんが主演なさっていた李香蘭、見ました。また、その時期「色、戒」が公開されるとことで、その時代に関連する特集が組まれ、惹きこまれるように見ておりました。

しかし、実際に映画を観たのはごく最近のことでした。それは、現在私が自分の成長と学びのために通っているスクールの宿題に「戦争に関係する映画を観る」ということがあり、重い腰を上げるように映画を観ました。観たいけど、観たくない、そんな気持ちでした。

案の定、映画を観終えた私は本当の鄭蘋如はどのような気持ちだったのかについてどうしてももっと色々な角度から知りたいという衝動に駆られ、ネットで検索しました。そしてこちらのブログを気になっている記事から読ませて頂くようになりました。

とても沢山の資料を読まれていて、それを提供して下さり、ありがとうございます。一度お礼を申し上げたく、コメントさせて頂きました。更新されるのをいつも楽しみにしております。


厚かましいとは存じますが、お願いがあります。

彼女が実現しようとしていたことはどのようなことだったのかという仮説や、彼女の愛はどこにあり、どこに向かおうとしていたのか、(家族、国家、自分の名声、丁黙邨など・・)、また彼女のことを調べるようになってbikouranさんご自身にどのような気づきや学びがあったのかなども記事にして頂きたいと思っています。失礼でしたら、ごめんなさい。

よろしくお願い致します。

投稿: 花椒 | 2010年4月26日 (月) 02時48分

yanagi様

コメントありがとうございます。映画「支那の夜」についてyanagiさんの紡ぎ出す新たな歴史観はすでに映画研究に一石を投じていると思います。

こちらの記事に引用しましたが、http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_2db2.html
佐藤優氏の言葉が好きです。

佐藤氏曰く、「(前略)これはテキストを平たく読んでいるだけでは出て来ないわけですよ。想像力を働かせているわけなんですよ。そうすると文書を読んでも、最終的な、あえて乱暴な言葉を使うと、物語に仕上げるときに、どれだけ研究者に、その辺の想像力があるか、推察力があるか、もっと言うと人間力があるか、そういうことだと思うんですよね。(中略)だからまさに「インテリジェンス」で、まさに「インテル・レゴ」(注:情報を組み立てる)ですから。「間を読む」ということですから、書かれていない部分の」

佐藤氏はりっぱな諜報員でした。情報を読み解くのと歴史研究は似ているのでしょう。私もyanagi様もりっぱな諜報員になれたりして(笑)

投稿: bikoran | 2010年4月17日 (土) 17時16分

こんにちは。
「鄭蘋如」注文をしました。

>私としては、本書を大いに参考にさせて頂き、
>さらに周辺情報を集め、私独自の見立てでテンピンルーにまつわる歴史を解明していきたい

私が偉そうに言うようなことではないと思いますが・・・
複数の研究者がいることにより、テンピンルーの研究はさらに大きな広がりを見せるはずです。
今後もbikouranさんにしかできない、独自の記事を期待しています。

それと個人的なことなのですが、bikouranさんのブログの目的、調査を続けられた原動力、という下りが私の支那の夜に対する想いと共通していてびっくりしました。
私が支那の夜に興味を持つきっかけも上戸彩の李香蘭ですし、不思議なこともあるものだと思います。

投稿: yanagi | 2010年4月17日 (土) 14時36分

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