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2010年4月13日 (火)

続 テンピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)と新生事件

引き続き、何揚鳴の論文「閑話皇帝騒動の一部始終」、その他を日本語に訳しながら、「新生事件」、そしてテンピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)について述べる。間接的にせよ、ピンルーの銃殺の遠因となった事件である。

以下、「閑話皇帝騒動の一部始終」の続きを引用

弁護人の呉凱音が発言した。

一つ目に言いたいのは、「閑話皇帝」は決して天皇を侮辱していないこと、

二つ目には、各国の憲法で規定されているように言論の自由があり、日本は我が国の内政に干渉できないこと、

三つ目に、「閑話皇帝」が発表されたとき、被告は内容を知らなかった。監督不行届の責任はあるが、法廷ですでに遺憾の意をあらわし謝罪している。法廷がもし被告に刑事責任を負わすならば刑法74条と41条によって、執行猶予を与えるか罰金刑とすべきである。

四つ目に、東北(注:満州)の市民の苦難の生活を送っているなかで、日本は撤兵せず市民は帰る家もない、その責任は誰に負わすべきなのか。杜重遠は無罪であり直ちに釈放すべきである。

裁判長の郁華は審議終了を宣言し、退廷、別室に移って協議した。日本人の田中なる人物が奥の部屋まで来て協議している司法官を監視した。数分後、裁判長は出廷し、判決を言い渡した。

「文章による誹謗をした罪により、被告人である杜重遠に懲役1年2ヶ月を命じる。週間「新生」の第2巻15号は没収する」

被告弁護人は、執行猶予あるいは罰金刑が妥当と主張するが、裁判官は許可しなかった。弁護人は控訴を申し出た。法廷は、刑法61条により、控訴を棄却、保釈も認めなかった。

郁華は、最後に被告人に尋ねた。

「何か申し述べることはありますか」

杜重遠は激昂して答えた。

「国を愛することが何の罪になるのだ!中国の法律は日本に征服された。私は中国に法律があるとは信じられない。市民は言論、出版の自由があるはずだ。中国は他国の干渉を受けるべきではない。私に言い渡すべき判決は無罪である!」

傍聴人も一緒になって大声で叫び始めた。彼らは銅貨を取り出して裁判官と日本人記者達に投げつけ抗議した。居合わせた支持者は、「反帝国主義 抗日新生」というビラをまいた。司法警察が出動し大衆を追い払った。追い払われた彼らはすぐさま「新生事件後援会」を組織し、事件の真相究明を求めた。

杜重遠は、司法警察に直ちに護送されて、江蘇第二刑務所へ向かった。杜重遠の妻は、判定に不服で、控訴を主張したが、高等法院第二分院法廷で退けられた。1935年7月22日、妻は再度、最高法院に控訴したが、前回同様の判決だった。

これに先立つ7月7日、国民党中央党部と国民政府は連名で、電報を発した。

「今回の「新生事件」は、外交関係を害した。国民はぜひ皇室の尊厳を尊重しなければならない。同様な記事を厳禁し、違反者は容赦なく厳罰に処す」

7月8日、高等法院第二分院は、「新生」の発行を禁じた。

7月9日、国民党は談話を発表した。

「上海の裁判所は週刊「新生」の責任者に厳しい判決を与えた。国民党が中日関係に対してとった態度は、蒋介石、汪精衛両先生の政策と完全に一致している。中日間のいかなる問題についても、誠意ある平和の態度を皆に望み、首尾良く解決を図ろう」

この「新生事件」は悪い先例となった。その後、新生事件に類似した事件が次々と現れた。上海の「大美晩報」の文芸欄の「文化街」は、「新生事件に思う」を掲載する予定としたところ、検閲により取り消された。四馬路文化図書公司出版の「日本侵略中国漫画鳥瞰図」と、「日本侵略満州蒙古鉄道網計画図」は没収され、責任者は起訴された。舟山路の交差点の小さな露天本屋は、日本軍に抵抗する連続絵物語を売ったため、第一特区法院に、外交妨害罪で起訴され懲役二年の判決が下った。

引用終わり

さて、上海市当局は、出版責任者の杜重遠を執行猶予か罰金刑で済むと言って法廷に引きずり出した。しかし、検察官の鄭鉞と裁判長の郁華は、日本の砲艦外交に屈し、第二次上海事変の挑発であることを危惧した。鄭鉞は、日本側が納得する実刑判決を求刑、裁判長は求刑どおり懲役判決を下したのだ。

その後の中国国内の動きをみるために、上海の代表的な新聞「申報」の報道状況をみてみると、

7月12日  国民政府外交部次長 新生事件が一段落したという談話を発表
7月20日  共同租界工部局警察「新生」の発禁処分を声明
7月21日  杜重遠夫人による上訴棄却
7月23日  杜重遠夫人抗議文
7月24日  弁護士会は討議を終え、新生事件の判決につき司法院に意見書提出へ
7月26日  上海新聞公会 出版法改正に難点あり、立法院で再審議呼びかけ
7月29日  北京新聞学会 出版法再審議要求。全国へ電報、一致主張を呼びかけ

以上の記事がある。このうち7月24日の記事は、こう書いている。

「新生の杜重遠の判決について、上海弁護士公会が行った長時間の討論の結果を司法院へ提出することになった。(中略)杜重遠に対する判決には、違法と考えられる箇所、および市民感情に沿わない箇所があり、判決に対する修正を主張し、その結果を公示するように要求した。また「新生事件」を発端として始まった「出版法」改正をめぐって、上海や北京の新聞界組織は反対意見を表明した」  (参考:論文「新生事件」をめぐる日中両国の報道及その背景に関する分析 差異と原因  楊韜著)

上の記事には、出版法の改正とある。国民党はこの事件をきっかけとして、出版界全体の言論統制を強めようとしたようだ。これは、日本の天皇に対する言論を統制しようという狭いものではなく、蒋介石独裁態勢の維持、特に共産党対策があったものと思われる。このどさくさ紛れとも取れる出版法改正からは、国民党がこの新生事件を利用しようとした可能性が見て取れる。郁華と鄭鉞によって行われた有罪実刑判決への誘導、被告人杜重遠にとってみたら「冤罪」とも取れる判決には、日本の砲艦外交に負けた、と言う面だけでなく、国民党内部、蒋介石からの言論統制強化という政治的圧力もあったと類推される。

さらに関連する中国語文献を見ていくと、1年後の1936年6月7日、興味深い大会が上海で開かれていたことがわかった。上海弁護士会による冤罪(えんざい)賠償運動第二回大会である。(参考:論文「20世紀30年代の冤罪賠償運動」  孫彩霞) 

まず議長の沈釣儒(注:のちの最高裁判所裁判長)が挨拶し、全国の冤罪賠償運動の報告をし、各界が一致団結して政府に冤罪賠償法の制定を促した。そして次に、鄭鉞(ていえつ)が出てくるのである。事件から1年経ち、もはや誰もが冤罪判決だったという評価をくだした「新生事件」の担当検察官であり、被告の実刑判決を求刑した鄭鉞が、こう挨拶した。

「弁護士会の主張に賛成を表し、早期に成功することを望んでいます。会議は熱のこもったもので盛大かつ厳かでした。司法、立法に電報を送り、速やかに冤罪賠償法を制定することを促してまいります」

どのような気持ちで鄭鉞はこの挨拶を行ったのだろうか。私は、苦渋の決断の末、杜重遠の冤罪判決に荷担した鄭鉞が、その後二度と政治的圧力、特に日本軍部の武力的威圧には負けないと心の中で誓っている姿が目に浮かぶ。そこには司法の独立を守りきれなかった自分への深い悔悟と反省の念が存在するはずだ。そしてそれは、裁判長、郁華も同じだろう。

私は、鄭鉞のこの重い経験が、愛する娘ピンルーの釈放と、親日政権側へ自分が転向するという「人質取引」を拒絶した遠因になっている気がしてならない。新生事件以降、どのようなことがあっても司法の独立を守ると固く誓った。その父親の思いは娘もわかっていたのではないだろうか。

郁華は1939年7月、日本軍部が作り上げたテロ組織、ジェスフィールド76号の新聞社襲撃事件における殺人犯に死刑判決を出したところ、逆に彼らの凶弾に倒れた。鄭鉞にも連日のように脅迫が行われた。しかし彼は粛々と共同租界での凶悪事件の起訴を続けた。

監禁されたテンピンルーはまさか処刑されるとは思っていなかった、という説がある。妹の天如さんは語る。

「父親には一時、この取引に乗ろうとういう妄想が芽生えていました」

ピンルーが生きて釈放される可能性の火がともった瞬間である。しかし、その灯火はすぐに消える。鄭鉞自身が消したのだ。

父親の司法の独立にかける思いを理解していたピンルーは、父親が決してこの取引に乗らないと分かっていたはずだ。その意味で、ピンルーにとって覚悟の処刑だったのではないだろうか。

監禁場所から、

「私は大丈夫」

という短い手紙を、釈放される人に託したというピンルー。彼女は父親に、自分の釈放を促すのではなく、

「どうかお父さん、そのまま信念を貫いて下さい」

と伝えたかったのではないだろうか。

「自分が釈放されることは、再び父親を苦しめ、冤罪に苦しむ人が増えることを意味する・・・・・」

彼女にはそのことが分かっていたはずだ。そして、かつて一緒に日中の平和に向けて活動し、今も違法に監禁されている花野吉平や早水親重の姿も重なったことだろう。彼女は自分だけ出て行くわけに行かなかった。彼女は自分の命と引き替えに、家族の名誉と、父親が求めてやまなかった司法の独立を最後まで守ろうとしたのだ。

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