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2010年5月の3件の記事

2010年5月23日 (日)

閑話給題 「軍艦マーチと中国国歌」

今回は、知られざる日中二カ国の国歌について、浅からぬ関係にあるという話を提供したい。

オリンピックで中国人選手が活躍することが増え、彼らが金メダルを取るたびに聴くのが、中国国歌「義勇軍行進曲」(义勇军进行曲)である。適度にエネルギッシュで適度に荘厳な、表彰の場にふさわしい曲だと思う。

さて、時あたかも上海万博。万博ソングが岡本真夜さんの曲のパクリであることが判明したのはつい最近のことだ。それに関連してか、次のような記事をSearchina(サーチナ)というサイトに見つけた。

以下引用

くすぶる疑念、万博ソングの盗作疑惑が国歌に飛び火も、識者は否定 
 
中国人識者の王錦思氏が発表した「中国で流行した曲の中に日本の曲はどれだけあるか?」とする文章が中国で話題となっている。中国にとって初の開催であり、国家の一大イベントであった上海万博のPRソングに盗作疑惑が浮上したことで、中国で知られているほかの楽曲も、実は盗作だった楽曲があるのではとの疑念がくすぶっているのだ。
 
 

王錦思氏によると、中国ネット上では中国の国歌である「義勇軍行進曲」も日本のパクリではないかとの疑惑が浮上しているという。これに対して王錦思氏は根も葉もないうわさにすぎないと切り捨て、「確かに『義勇軍』や『進行曲(注:行進曲の中国語)』という単語は日本の言葉であり、これを根拠に中国国歌が日本のパクリであると思ったのだろう」とした。
 

続けて、中国人が日々使用している『社会』、『主義』、『愛国』などといった単語も日本人が作り出したものであると紹介、「だからといって義勇軍行進曲が日本のコピーであること、日本人が編さんしたことにはならない」と指摘した。
 

「義勇軍行進曲」は、日本に留学していた中国人留学生の田漢氏が作詞したもので、1935年4月に田漢氏の詞に中国共産党員の聶耳(じょうじ ニエアール)氏が曲をつけたものが「義勇軍行進曲」である。その後、1949年に中華人民共和国が建国、「義勇軍行進曲」が正式に中国国歌と定められた。
 

作曲者の聶耳氏は作曲当時は東京に在住しており、作詞・作曲を担当した両者ともに日本とかかわりがあったことは確かであるが、王錦思氏は「日本の行進曲を参照し、日本の単語を借用し、日本で完成した歌ではある」と認めながらも、義勇軍行進曲は日本からの盗作ではないと否定した。

2010/05/07(金) 

サーチナへのリンク

引用終わり

ということで、中国国歌は、東京在住中の聶耳(じょうじ)という23才の男性が作曲したということだ。私が少し調べてみたところ、どうやら大日本帝国海軍の、あの、「軍艦マーチ」(軍艦行進曲 军舰进行曲)を参照したようだ。

で、さっそく比較のための簡単な検証をしてみた。検証と言っても、参照したと思われる小節を交互に並べて、続けて聞けるようにしただけだ。

下記ブログ記事に検証のための音源をアップしたので、お聞きください。

「軍艦行進曲と義勇軍行進曲の類似性」 ←クリック

検証して分かったことは、「現在は中国国歌となっている「義勇軍行進曲」は、元々、1935年制作の抗日映画のために作られたが、イントロ部分に限っては大日本帝国海軍の軍艦マーチを参照したことは明らか」ということだ。

中国の名誉のために付け加えると、イントロの2小節、つまり八拍以外は全く別物である。王錦思氏の言うとおり、決して盗作ではない。

1930年代、日中が互いに刺激しあって音楽を始めとした芸術を高めていたことを改めて思い知った。また「音楽に国境はない」という思いが強くなったのも事実である。

歴史は時に、思いもつかない連関を提供する。

余話

「閑話」の「余話」である。ネット上でこんなニュースも発見した。中国のある幼稚園が、朝の園内放送でまさに日本の「軍艦行進曲」を流していたというのだ。2005年6月のちょっと古い話である。

以下引用

海康城小区幼儿园每天早上播放日本海军军歌

(中略)

负责人并不知道此曲来历

春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn  记者就此事找到了该幼儿园年轻的负责人陈女士。陈女士表示,她并不知道该曲就是日本海军军歌,她说:“抗日战争都是我出生以前的事情了。”该园负责校园广播的工作人员表示,幼儿园播放的歌曲的碟片都是从正规的音像店买入的正版光盘。不过,该工作人员拒绝了记者察看所播放歌曲光盘的要求。

  在幼儿园的门口,记者随机采访了该幼儿园的几位孩子,天真活泼的的孩子们纷纷表示“很喜欢这首歌曲”,因为它“很好听”。几位学生家长们在接受记者采访时也表示,并不知道该曲就是日本军歌。家长刘先生说,自己并不担心这对孩子会造成什么不良影响,因为孩子年纪还小,“要说有什么影响比较牵强”。

(日本語訳)

海康城団地幼稚園が、毎朝日本海軍の軍歌を放送

(中略)

責任者はこの由来を全く知りません
春秋中国語コミュニティhttp://bbs.cqzg.cn  

記者はこのことについてこの幼稚園の若い責任者の陳女史を探し当てました。陳女史は、この曲が日本海軍の軍歌であることを全く知らないようです。彼女は言います。「抗日戦争は私の生まれる前の事です。この幼稚園の園内放送は職員が責任を持って行っています。曲のディスクはすべて正規録音と正規録画の店で購入した正式版光ディスクです」 でも、この職員は記者の聞いた曲の光ディスクを見せることを拒絶しました。

幼稚園の入り口で、記者が無作為でこの幼稚園の何人かの子供を取材したところ、無邪気で元気な子供達は次から次へと、「この曲が大好き」、「とてもいい曲」と口にしました。何人かの園児の先生は、この曲が日本の軍歌であることを全く知りませんと言いました。劉先生は、「自分はこれが子供に対して何らかの悪影響をもたらすことは全く心配していない。子供の年齢は小さく、何らかの影響があると言うには少し無理がある」と言いました。

引用終わり

日本海軍の軍艦マーチは、中国の幼稚園児には好評だったようである。しかし、ネットでこのことが知れ渡ると抗議が殺到し、この幼稚園は軍艦マーチの園内放送を中止したとのことだ。まあ、日本の幼稚園でも同じ結果になろう。理由は全く別だが(苦笑)。

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2010年5月16日 (日)

暗殺未遂事件の新聞記事 2

昨日、国会図書館関西館で、複写を頼んでおいた記事が届いた。ここに保管されている中国発行の新聞は、基本的に原紙、つまり当時の本物が保管されている。1930年代上海の大手新聞「申報」などは、影印といって、複写製本したものが保管されている。

原紙の新聞は、セルフの複写が禁じられている。紙が劣化していてすぐに破けたり、端が欠けてしまう。そこで、図書館の専門の人に頼んで複写、後日送付となる。これは永田町の国会図書館も同じシステムだ。ちなみに我々が普段使う西洋紙は、百年近くも経つと劣化が激しい。いずれ崩壊するそうだ。それに比べて和紙はいつまでも保つ。こと、保存性に関しては和紙の優秀性を改めて思う。



さて、今回届いた記事は、「新聞報」という新聞からのものだ。下記に掲載する。

中華民国28年(1939年)12月22日

原文

昨晩静安寺路

有人鎗撃汽車

経西副探長聞警迎撃

開鎗人及汽車均逃去

昨晩六時二十五分、有黒牌汽車一輌、内載華人三名、行経静安寺路一一四零弄附近時、詎路畔有人出鎗向該車轟撃、時適有捕房一三零号西副探長Bickser駕脚踏車巡邏、適経該処、突聞鎗声即向前迎撃、結果汽車及開鎗者均逃去、事後捕房會派大批探捕、在該処偵査、並無所獲、迄記記者屬稿時、亦未有汽車主人向捕房声明伝、


訳文

昨夜六時二十五分、一台の黒い車に三名の中国人が乗って、静安寺路の1140番小路附近を走行中に、なぜか道ばたから出てきてこの車を銃撃する者があった。その時、たまたま130号警察の西副署長Bickser氏が、自転車が引く人力車で巡邏中で、その近くを通りかかろうとしていた。彼は突然銃声を聞いたため現場に迎撃に向かった。ところが、その車も銃撃手も逃げ去った後だった。事件後、警察は大捜査を行い、銃撃地点を調べたものの、何も証拠を得ることができなかった。記者が原稿を書く時点で、未だにこの車の所有者から警察への連絡は無い。

Photo_3

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この記事も、「申報」と同じく事件翌日のものである。「申報」は三日連続で記事を書いたが、「新聞報」は、この記事のみで続報はない。しかし、この記事には「申報」に無い注目すべき点がある。「銃撃されたときに、車には三名の中国人が乗っていた」、と書かれているのだ。

繰り返すが、定説では、丁黙邨と鄭蘋如(テンピンルー)の二人が運転手を残して車を降り、連れだって道路向かいのシベリア毛皮店に入り、丁黙邨だけが脱兎のごとく店を走り出て車に戻り、銃撃を受けながら逃げたことになっている。テンピンルーは現場に残され一人で自宅に帰ったことになっている。


私は、この定説が徐々に疑わしいものに思えてきた。これまで見た記事のうち、内部の事情を知る者からのリークと思われる「大公報」以外は、走行中の車を銃撃しているとしか書かれていないのだ。これは目撃者談なのだろう。そして今回の「新聞報」の、「三名が乗っていた車が銃撃された」という記事。


もしかしたら、丁黙邨も、ピンルーも車を一歩も降りていなかったのではないだろうか?



私がかねがね疑問に思っていたのは、銃を持つ暗殺者二名がなぜ降車後に歩行中の丁黙邨を撃てなかったのか、撃てなかったのならなぜ、店に入った丁黙邨を撃てなかったのか、また店を駆け出て来た時に、いくら油断していたからとは言え、車に乗るまでに一発も撃てなかったのか、ということ。暗殺者は、丁黙邨が乗車した後にこの防弾車を撃っている。彼らは当然、丁黙邨の乗る車が防弾車だと知っていただろう。意味がないと知りながら防弾車に向けて銃弾を発射している。


そして、これら記事を読んでみて、新たに浮かび上がった疑問。それは、銃撃後のピンルーの所在である。彼女は店に一人取り残されたはずだ。彼女は警察に、第一証拠人として拘束されなかった。警察は少なくともシベリア毛皮店には事情聴取したはずだ。しかし、店からは証言を得られなかったようである。


ということは、ピンルーは店に入らなかったのではないだろうか。あるいは、やはり車さえも降りていなかったのではないだろうか。


運転手、丁黙邨、そしてピンルーの三名が乗る車が静安寺路1140番地、これはシベリア毛皮店の向かい側の住所であるが、ここに差し掛かりスピードを落とした。丁黙邨とピンルーが降りる間もなく、銃撃手はこの防弾車に向かって銃を発射したのではないか。車はあわてて加速、現場を逃げ去ったのではないか。


ジェスフィールド76号内における丁黙邨のライバル、李士群によるリーク記事と思われる「大公報」では、丁黙邨がピンルーにクリスマスプレゼントを渡すまさにその時に銃撃があり、丁黙邨が重傷を負ったとある。重傷を負ったのならその後の六三花園での忘年会にのこのこと出かけるだろうか。病院に行くかジェスフィールド76号に戻って治療をするだろう。しかし丁黙邨は無傷で忘年会に出席、9時半頃に帰宅している。この「大公報」の記事は信用できない。この記事だけが、なぜか香港配信となり、しかも事件の10日後の記事である。


先日のブログ記事で、この「大公報」のリークの目的は、丁黙邨の実名を出し、彼が女友達にうつつを抜かしている最中に、愛国志士の銃撃にあった、ということにして丁黙邨の恥をさらすことであろうと書いた。


一方「申報」、「新聞報」の翌日記事から読み取れる事は、丁黙邨とピンルーを乗せたままの防弾車に対して、銃撃が行われたのでは?ということだ。もしそうであれば、銃撃手は、最初から丁黙邨を殺そうとしていなかったのではないかということが導き出される。単に、ピンルーと一緒にいる丁黙邨を銃撃事件に巻き込むだけでよかったのだ。それさえ行えば、後はリークによって如何様にも「ストーリー」は作れる。


この仮説に立つと、ピンルーは「その時」、丁黙邨と一緒にいるだけで良かったことになる。李士群は、それだけで、丁黙邨を殺さずして76号から追い落とすためのストーリーを完成させることができるのだ。彼女は、丁黙邨をおびき出したつもりだったのが、実は李士群のストーリーの中の悲劇のヒロインになっていたのだ。

私は、「申報」「新聞報」に、丁黙邨が連れていた女性、ピンルーのことだが、の存在についてまったく記載が無いのを不思議に感じている。租界警察は目撃者情報を集めるために、まずは周辺店舗に聞き込み調査をするだろう。特に銃撃のあった真向かいの店であるシベリア毛皮店には必ず聞き込みをするだろう。しかし女性に言及が無いということは、上でも書いたが、ピンルーは車を実は降りていなかったということがまず考えられる。

次に考えられるのは、定説通りピンルーが丁黙邨とシベリア毛皮店に入ったものの、シベリア毛皮店が暗殺者側から事前に口止めをされていて、租界警察の聞き込みに目撃談を話さなかったことが考えられる。

前回ブログ記事で、銃撃側のCC団には当然に口止め理由があることは書いた。あたりまえだろう。暗殺なのだから。今回、李士群にも口止めのメリットが有る可能性を下記にあげてみたい。


それは、もしピンルーが暗殺未遂の共犯として租界警察に逮捕された場合、日本陸軍上海憲兵隊は正当な理由なくして身柄を移させることができなくなるからだ。ここからは私の大胆な推測である。李士群と組む上海憲兵隊特高課は、とにかく上海第二特区主席検察官の鄭鉞(ていえつ)を親日側に引き込むことに躍起となっていた。彼は言うまでもなく鄭蘋如(テンピンルー)の父親である。


憲兵隊特高課は考えた。ピンルーを暗殺未遂事件の共犯者とすれば身柄拘束できる。そして父親に娘の釈放をエサに親日側へ転向する取引をしよう。それには、租界警察ではなく、自分らがピンルーの身柄を拘束する必要がある。租界警察に捕まっては元も子もなくなるのだ。

そのために、シベリア毛皮店にはピンルーの目撃証言をさせなかった。そのために租界警察はこの丁黙邨の連れていた若い女性、テンピンルーの存在を掴むことができなかった。租界警察の公式発表を記事にした「申報」「新聞報」にはしたがって、銃撃のターゲットとなった男性の連れていた女性のことやシベリア毛皮店に二人連れだって来たことは記載されていないのだ。

ところが、12月30日の香港電、李士群によるリークと思われる「大公報」には丁黙邨の実名と女友達という表現がなされた。なぜか。すでのこの時点で、上海憲兵隊特高課にピンルーの身柄が拘束されていた、あるいは拘束同然となっていたのではないだろうか。ここで女友達と書いてしまうと、租界警察にとって重要参考人になり、当然捜査対象となるだろう。場合によっては租界警察に拘束されてしまう。その怖れがなくなってからのタイミングでリークしたと考えられる。つまり、林秀澄が語った年が明けてからのピンルーの自首と憲兵隊による拘束は、実は12月30日より前だった可能性が高くなろう。


以上、五つの記事から浮かび上がることを、私の大胆な推測を交えながら書かせて頂いた。






















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2010年5月14日 (金)

暗殺未遂事件の新聞記事より

先週の金曜日夜、「明日の始発で京都に行こう」と思い立った。私は決して腰の軽い方では無いと思うのだが、夜11時頃ぱっと決めて4時起きして始発に乗り、東京駅まで行ってのぞみの切符を買い、京都経由で近鉄線「新祝園」という駅に降りた。地元の駅を5時41分に出て午前9時50分頃到着だ。

「新祝園」の「祝園」を駅に着くまで「しゅくその」と読んでいたのだが、駅についてみたら「ほうその」と書いてあった。関西の地名はまったくもって、想像もつかない読み方をすることがある。目指すのは、国立国会図書館関西館である。

私は埼玉に住んでいるので、東京の国会図書館は割と簡単に使える。しかし、私は上海の当時の新聞を読まざるを得ないところに来ていた。それは国会図書館でも、「関西館」だけに保管してあった。

426_6 祝園駅(ほうそのえき)から精華台という住宅地を抜ける。なだらかな丘陵地帯で歩道の幅がやたらに広い。

 

Photo_3 祝園駅からはバスが出ていたが、すごく空気の綺麗な緑の豊かなところだったので、歩いて行くことにした。歩き始めて気づいたのだが、距離が3キロくらいあった。その代わり、想像以上に綺麗な街並みが続き、上の写真のように水の流れる公園が現れたりする。

Photo_4 そして緑の芝生の中に国会図書館関西館はあった。

なぜ関西館まで行ったかというと、鄭蘋如(テンピンルー)がおびき出しの役割をしたという丁黙邨暗殺未遂事件の記事はもちろんのこと、またそれとは別の文章を上海発行の新聞紙上に発見したかったからだ。それは今回叶わなかったが、その関連記事はおいおい書いていく。

と言うことで、今回は月並みであるが、暗殺未遂事件の記事をネット上にアップしたい。これにより検索エンジンが拾うようになり、将来の研究者の労が軽減できればと思う。

中国語の辞書を持っていこうか一瞬悩んだが、持っていかなかった。許洪新氏の「一个女間諜」を読み切って、ピンルーに関する文章ならば、辞書無しでなんとなく意味がわかるようになった。記事の発見と概略の意味把握には確かに不要だった。手前味噌ながら、自分の中の面白い変化である。

国会図書館関西館のアジアコーナーに行き、パソコンで検索してもらう。「大美晩報」、「大晩報」、「華美晩報」、「大美報」、「申報」、「新聞報」、「新申報」がヒットしたので、全て用意してもらった。「申報」は影印といって複写印刷が製本されている。他は当時の現物である。紙はパリパリに乾燥していて、注意深くめくらないと端が欠けていく。その中で、「申報」、「新聞報」に記事を発見した。

まず、当時の上海の大手新聞、「申報」である。中国系、つまり抗日系である。

1939年12月22日
申報

原文
暴徒四人 狙撃汽車
幸未傷人

静安寺路一一四零弄、昨晩六時二十分許、該弄内駛出黒牌汽車一輛、詎斯時路傍預伏暴徒四人、瞥見該号汽車疾駛外出、内中有二匪袖出盒槍、開放狙撃、適有静安寺捕房副捕別克司乗機器脚踏車巡邏経過、匪等亦向渠連放数槍、幸未命中、惟副捕並未還槍。

訳文
暴徒4人が車両を銃撃 幸いけが人無し

静安寺路1140番小路において、昨夜6時20分頃、当小路内より黒い車が一台走り出してきた。なぜかその時、路傍に暴徒4人が隠れていた。この車が走り去ろうとしているのを見ると、うち二名が服の袖から拳銃を取り出し銃撃を開始した。たまたま静安寺警察副官の別克司(注 Bickser氏)が自転車が引く人力車で巡邏中に通りかかった。暴徒らはまた数発拳銃を発射したが幸い命中しなかった。副官は危険を考えて撃ち返さなかった。

Photo_4

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事件翌日の新聞である。車が「一一四零弄」、つまり「1140番小路」から走り出ようとした時銃撃があったと書かれている。1939年の上の地図の通り、1140番地は小路、横町であり、その奥の長屋群に個別の番号が振られている。この記事だけを読むと、この1140番地の小道から車が出てきたことになる。

銃撃側は4人いたようだが、そのうち2名が銃を発射したようである。2名というのは、妹天如さんの供述と一致している。たまたま附近をパトロール中の警官ビクサー氏が事件直後現場にかけつけたとある。イギリス租界(共同租界)の巡回パトロール、巡邏はインド人警官が主体だったので、このビクサー氏もインド人だったのかもしれない。彼は通行人に流れ弾が当たるのを気にして撃ち返さなかった。この時、銃撃者を捕まえていたら歴史は変わったことになろう。

1939年12月23日
申報

訳文
車両銃撃事件 真相今だ不明
西警察長現場で銃を使わず
警察当局懸命に調査中

大陸報によると、昨(21日)夜6時30分頃、西魔路(せいまろ)と戈登路(かとうろ)の間の静安寺路上を車両一台が走行中、突如路傍より数発の銃弾が発射された。警察官が行動に至った時には、銃撃された車両も銃撃者も逃げてしまっていた。この事件は典型的な暗殺事件である。但し、疑わしくはっきりしないことが沢山ある。

目撃者が警察に話したことによると、銃撃前、四人が西魔路附近に現れた。うち二人が拳銃を持っていた。この黒い車が通過しようとしたとき、拳銃を持っていた者が突然歩道の縁に出てきて銃を発射、車に数発の銃弾が当たった。運転手はすぐに車を加速させ射程距離から離脱した。ほぼ同時に、静安寺警察署の副長の別格斯(Bickser)が自転車が引く人力車で巡邏中に現場に到着、調査開始しようとしたところ、暴徒が銃を発射してきたが、弾は命中しなかった。Bickserは、通行人が流れ弾に当たるおそれがあるため応射せず暴徒を取り逃がした。

さらにこの事件に複雑さを加えることが起こった。この日の夜9時15分頃、上海防衛軍関係の車両が6台、うち1台は日本人が乗る護衛車両で、愛多亜路と福熙路を西に走り去った。そして愚園路へと曲がっていったこの護衛付きの車両は、静安寺路で銃撃された車両と同じ形のものだった。この日本人護衛車がついた車は、何の関係の車なのか、今だ未確認である。警察当局は銃撃事件と日本人護衛付きの車両がなんらかの関係があると見て、精力的に調査中である。

Photo

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二日目の記事である。結構長い記事だ。大陸報という別の新聞社から買った記事のようだ。この記事によると、1140番小路から車が出てきたという表現は無くなり、西魔路と戈登路の間の静安寺路を通過中という表現になった。

場所に関しては、中国語記事原文だと、「西魔路興戈登路間乃静安寺路上、有汽車一輌駛過、突遭道傍発鎗数響射撃」である。「駛過」の「駛」は「走行する。疾走する」の意味である。

上の地図を参照してほしい。最初、西魔路附近に暗殺者側の四人が現れ、そのうち二人が、通過しようとした車に銃撃したようである。四人いたのになぜか二人は銃を持っていなかったようだ。

映画のシーンにもなったが、定説は、「丁黙邨は車を停め、ピンルーと二人で道路向いの毛皮店に入り、直後、狙撃を警戒して一人で脱兎の如く店を出て停まっている車に飛び乗り、銃撃を受けながら走り去った」、というものだ。ところが、この日の新聞記事からは、このような劇的なシーンは浮かんでこない。車が走っている状態で銃撃が始まったと読める。

この記事からは、これまでどの書籍にも、ネット上にも書かれていなかったことが出てきた。この夜、日本人地区の六三花園という料亭で、銃撃後の丁黙邨も含め、汪政権側地下工作者が一同に集まり忘年会を開いていた、というところまでは有名な話だ。しかし、汪政権側は、忘年会の後、日本の護衛車に守られて6台も連ねて、汪精衛公館周辺の自宅や、ジェスフィールド76号内の自宅に帰宅した、といのは初出情報だろう。車列はずいぶんと目立っていたようで、そのうちの一台が、静安寺路銃撃事件での一台と型式が同一だ、というので、関連性が注目されたようだ。銃撃を警戒して厳重な警護の元に帰宅したのだろう。汪政権側の緊張が見て取れる。

1939年12月24日
申報

訳文
車両銃撃事件 調査継続
いまだ目撃者なく 報告書作成できず

大陸報によると、21日午後6時20分、西魔路近くの静安寺路にて、黒い車両一台が、路傍に隠れていた四人のうち二人から銃撃を受けた。車両は数発銃弾を受けたものの、すばやく車を走らせ現場を離脱した。一般市民はみなこれは暗殺事件だと信じている。静安寺警察署員は昨日(22日)数多くの情報を収集したが、いまだに事件の前後がきちんと対応する報告は上がってきていない。21日夜9時15分、上海防衛軍関係車両が6台、うち1台は日本人が乗り、愛多亜路と福熙路を西に行った。前に伝えたこれらの車両が静安寺路銃撃事件と何らかの関係があるのかいまだに不確かである。

コメント
三日目の記事である。再び大陸報からの記事だ。目撃談は最初のもの以外にあまり有効なものは収集できなかったようだ。現場証拠も残っていなかった。毛皮店や、他に女性がいたこと、つまりピンルーのことであるが、に全く言及されていない。目撃者も警察も、走行中の車両を銃撃した、という事件としてだけ捕らえているようだ。怪我人にも言及がないので、負傷した人もいなかったのだろう。

租界警察はシベリア毛皮店にも当然事情聴取をしたはずだ。この店の前で銃撃が起こったのだから。定説の通り、丁黙邨と鄭蘋如が腕を組んで店に入り毛皮を選び始め、いきなり丁黙邨が外に走り出て、その後銃声が聞こえた、のなら、シベリア毛皮店の店員なり店主なりの記憶に刻まれるはずだ。ここは不可解な部分だ。

シベリア毛皮店の店員を事前に買収して口止めすることも可能だろう。だとしたら、誰が口止めをした?そしてその動機はなんだろうか。メリットはどこにあるだろうか?

「一人の男性が若い女性を伴って店に入ってきた。男女の人相、服装は○○だ。店外には怪しい男性が張り込んでいた。店に入ってきた男女のうち男性が脱兎のごとく店外に駆け出て行き、車に乗車、あやしい男性二名が銃を発射したが、その車は走り去った。怪我人はいなかった」

店員からは以上のような証言が得られるだろう。暗殺者側からすると、当然自分らの人相を証言するな、という動機がある。そして共犯者としてのピンルーの情報についてもやはり口止めする理由があるといえるだろう。

そして、李士群にも特にピンルーの存在について、シベリア毛皮店の口止めに理由があると私は考える。その理由は次回ブログに記載する。

さて、次の記事は、国会図書館関西館で見つけたものではなく、「一个女間諜」と、柳沢隆行氏の「鄭蘋如」に掲載された写真から読み取ったものである。

1939年12月31日の「大公報」に12月30日香港電として記事がある。

大公報より

原文
丁逆丁黙邨 被刺受傷
【中央○香港三十日電】○訊、自汪逆叛国投敵後、其爪牙丁逆黙邨○居○上、活動甚力、並組織偽特務部、甘為敵人応大、任意刺殺愛国同胞、国人無不頻恨。頃聞該逆於本月二十一日下午六時、偕其女友、乗自備汽車、至静安寺路附近、正擬向其大公司賜物之際、突被愛国志士多名狙撃、当時鎗撃大作、情形発為緊張。  
丁逆比受重傷、但仍負傷奔入保険汽車内、該車亦中数弾、但仍出司機加足馬力、狼狽逃去、及警務人員聞声出動、各志士亦従容避去。
丁逆当晩出敵方派車護送至福熙路其○○治、至今生死不明、
該案発生後、偽特務部連日開会検討、○為恐慌。

訳文
丁黙邨 銃撃を受け負傷

【中央○香港電30日】
汪精衛が日本に投降後、丁黙邨の爪と牙は至る所で強力に活動している。特務部を組織し、日本の言うことを聞き、愛国の同胞を殺している。彼に恨みを持たない者はいない。聞くところによると、丁黙邨は12月21日午後六時頃、女友達を連れて自動車に乗り、静安寺路にやってきた。まさにプレゼントを渡そうとしたとき、突然愛国志士多数が銃撃を開始した。その時の銃撃は激しく、一帯は緊張に包まれた。丁黙邨は重傷を負ったものの、防弾車両に飛び込んだ。この車両にも数発の銃弾が当たったが、車はにわかに加速し、あわてて逃げていった。警察官が銃声を聞いて出動したが、各志士もまた逃走。丁黙邨はその夜、日本の護衛車両に付き添われてアヴェニュー・フォッシュに至った。未だに生死は不明である。事件発生後、特務部は連日会議を開き対策を検討、恐慌状態となっている。

コメント
事件から10日近く経った時点の記事だ。香港電の記事として「大公報」に掲載された。中国側新聞、抗日系である。この記事は要注目である。

この記事の特徴はその具体性である。「申報」が伝える目撃者談の内容を大きく乗り越えている。まず、丁黙邨という実名が初めて出た。丁黙邨という名前に逆という文字を付けるのは、売国奴と見なしているからであり、この新聞が一般的中国新聞、抗日系の証しだ。

なんと女友達を連れていた、とある。しかもプレゼントを渡そうとしたその瞬間、というように小説的、劇的表現となっている。

そして、丁黙邨に銃弾が当たったようで、なんと重傷を負ったと。そして、特務部、つまりジェスフィールド76号のことであるが、の内部はあわてて連日会議を開きパニック状態とある。

逆に、「申報」には書かれていて、「大公報」では省かれた内容があることにお気づきだろうか。それは、「申報」では銃撃側は四人と明記され、うち銃撃したのは二人と書かれているのに、「大公報」では愛国志士多数とだけ書かれていることだ。四人のうち銃撃手が二人ということが何を示唆するか。それは当記事末に記載する。

「大公報」の情報ソースはどこなのだろうか。私はこれは、暗殺計画を知る内部の者がリークしたものと考える。単なる通行中の目撃者が、丁黙邨の名を挙げることは不可能。ましてや連れている女性が女友達とは確信できるはずがなく、妻、娘、いろいろ推測されるはずだ。

ソースはCC団とも思えるが、動機から類推して、丁黙邨のライバルである李士群側のリークの可能性が高いだろう。丁黙邨の名前を出し、「女友達にうつつを抜かしている最中に銃撃を食らった、とんだ恥をかいたものだ」、そんなイメージ操作を狙ったのではないだろうか。

ジェスフィールド76号の監督者、上海憲兵隊の晴氣慶胤(はるけよしたね)は戦後の著書にこう書いている。

「この事件をいち早くかぎつけた新聞は、「桃色のテロ」と題してジャンジャン書き立てた。こうして丁黙邨のスキャンダルは、街の物笑いの種になった。新聞社をそそのかして大きく書き立てたのは、いうまでもなく呉志宝だった。この男はまだそれにあきたらず、「76号」の内部で糾弾大会を開いて、丁黙邨の引退を決議してしまった。こうした大勢に、丁黙邨派も後難を恐れて口をつぐみ、誰一人として丁黙邨を顧みるものはなかった」  「謀略の上海」168ページより

晴氣によって新聞社にリークしたと名指しされた呉志宝は、76号内の武闘派であり、李士群の腹心の部下である。

実際、丁黙邨はこの事件の後、76号内に起きた李士群側による丁黙邨追い出し運動によって排撃された。日本側の人事調整の末に組織の外に出されたのだ。そして李士群が新たな76号の長となったのである。

そしてここからは私の大胆な推測になるが、李士群は自分の計画したこの丁黙邨追い出しのための銃撃計画が本当に実行されるかどうか確認するために、二人の監視役を送り込んだのだと判断する。みなさんは、暗殺を確実に決めるなら四人の銃撃側人員が全員、銃を持って射撃した方が確実だと思わないだろうか。私はそう思う。しかし発砲したのは二人という報道がなされた。

実際の銃撃実行犯はCC団系の嵇希宗が選任した陳彬ともう一人のヒットマンの二人である。李士群が、敵側であるCC団系の銃撃手が実際に計画を実行するかどうか一抹の不安を抱くのは当然であろう。李士群は監視を置いた。それが、銃撃側人員が四人、実際の銃撃手は二人という人員構成に現れたと私は判断する。

もちろんこのことは、明るみには出せない。したがって、李士群側からのリークである「大公報」では、他の部分が異常に具体的であるにもかかわらず、銃撃側人数に関しては、「愛国志士多数」という抽象的表現となったのだと推測する。



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