« 続 テンピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)と新生事件 | トップページ | 暗殺未遂事件の新聞記事 2 »

2010年5月14日 (金)

暗殺未遂事件の新聞記事より

先週の金曜日夜、「明日の始発で京都に行こう」と思い立った。私は決して腰の軽い方では無いと思うのだが、夜11時頃ぱっと決めて4時起きして始発に乗り、東京駅まで行ってのぞみの切符を買い、京都経由で近鉄線「新祝園」という駅に降りた。地元の駅を5時41分に出て午前9時50分頃到着だ。

「新祝園」の「祝園」を駅に着くまで「しゅくその」と読んでいたのだが、駅についてみたら「ほうその」と書いてあった。関西の地名はまったくもって、想像もつかない読み方をすることがある。目指すのは、国立国会図書館関西館である。

私は埼玉に住んでいるので、東京の国会図書館は割と簡単に使える。しかし、私は上海の当時の新聞を読まざるを得ないところに来ていた。それは国会図書館でも、「関西館」だけに保管してあった。

426_6 祝園駅(ほうそのえき)から精華台という住宅地を抜ける。なだらかな丘陵地帯で歩道の幅がやたらに広い。

 

Photo_3 祝園駅からはバスが出ていたが、すごく空気の綺麗な緑の豊かなところだったので、歩いて行くことにした。歩き始めて気づいたのだが、距離が3キロくらいあった。その代わり、想像以上に綺麗な街並みが続き、上の写真のように水の流れる公園が現れたりする。

Photo_4 そして緑の芝生の中に国会図書館関西館はあった。

なぜ関西館まで行ったかというと、鄭蘋如(テンピンルー)がおびき出しの役割をしたという丁黙邨暗殺未遂事件の記事はもちろんのこと、またそれとは別の文章を上海発行の新聞紙上に発見したかったからだ。それは今回叶わなかったが、その関連記事はおいおい書いていく。

と言うことで、今回は月並みであるが、暗殺未遂事件の記事をネット上にアップしたい。これにより検索エンジンが拾うようになり、将来の研究者の労が軽減できればと思う。

中国語の辞書を持っていこうか一瞬悩んだが、持っていかなかった。許洪新氏の「一个女間諜」を読み切って、ピンルーに関する文章ならば、辞書無しでなんとなく意味がわかるようになった。記事の発見と概略の意味把握には確かに不要だった。手前味噌ながら、自分の中の面白い変化である。

国会図書館関西館のアジアコーナーに行き、パソコンで検索してもらう。「大美晩報」、「大晩報」、「華美晩報」、「大美報」、「申報」、「新聞報」、「新申報」がヒットしたので、全て用意してもらった。「申報」は影印といって複写印刷が製本されている。他は当時の現物である。紙はパリパリに乾燥していて、注意深くめくらないと端が欠けていく。その中で、「申報」、「新聞報」に記事を発見した。

まず、当時の上海の大手新聞、「申報」である。中国系、つまり抗日系である。

1939年12月22日
申報

原文
暴徒四人 狙撃汽車
幸未傷人

静安寺路一一四零弄、昨晩六時二十分許、該弄内駛出黒牌汽車一輛、詎斯時路傍預伏暴徒四人、瞥見該号汽車疾駛外出、内中有二匪袖出盒槍、開放狙撃、適有静安寺捕房副捕別克司乗機器脚踏車巡邏経過、匪等亦向渠連放数槍、幸未命中、惟副捕並未還槍。

訳文
暴徒4人が車両を銃撃 幸いけが人無し

静安寺路1140番小路において、昨夜6時20分頃、当小路内より黒い車が一台走り出してきた。なぜかその時、路傍に暴徒4人が隠れていた。この車が走り去ろうとしているのを見ると、うち二名が服の袖から拳銃を取り出し銃撃を開始した。たまたま静安寺警察副官の別克司(注 Bickser氏)が自転車が引く人力車で巡邏中に通りかかった。暴徒らはまた数発拳銃を発射したが幸い命中しなかった。副官は危険を考えて撃ち返さなかった。

Photo_4

コメント
事件翌日の新聞である。車が「一一四零弄」、つまり「1140番小路」から走り出ようとした時銃撃があったと書かれている。1939年の上の地図の通り、1140番地は小路、横町であり、その奥の長屋群に個別の番号が振られている。この記事だけを読むと、この1140番地の小道から車が出てきたことになる。

銃撃側は4人いたようだが、そのうち2名が銃を発射したようである。2名というのは、妹天如さんの供述と一致している。たまたま附近をパトロール中の警官ビクサー氏が事件直後現場にかけつけたとある。イギリス租界(共同租界)の巡回パトロール、巡邏はインド人警官が主体だったので、このビクサー氏もインド人だったのかもしれない。彼は通行人に流れ弾が当たるのを気にして撃ち返さなかった。この時、銃撃者を捕まえていたら歴史は変わったことになろう。

1939年12月23日
申報

訳文
車両銃撃事件 真相今だ不明
西警察長現場で銃を使わず
警察当局懸命に調査中

大陸報によると、昨(21日)夜6時30分頃、西魔路(せいまろ)と戈登路(かとうろ)の間の静安寺路上を車両一台が走行中、突如路傍より数発の銃弾が発射された。警察官が行動に至った時には、銃撃された車両も銃撃者も逃げてしまっていた。この事件は典型的な暗殺事件である。但し、疑わしくはっきりしないことが沢山ある。

目撃者が警察に話したことによると、銃撃前、四人が西魔路附近に現れた。うち二人が拳銃を持っていた。この黒い車が通過しようとしたとき、拳銃を持っていた者が突然歩道の縁に出てきて銃を発射、車に数発の銃弾が当たった。運転手はすぐに車を加速させ射程距離から離脱した。ほぼ同時に、静安寺警察署の副長の別格斯(Bickser)が自転車が引く人力車で巡邏中に現場に到着、調査開始しようとしたところ、暴徒が銃を発射してきたが、弾は命中しなかった。Bickserは、通行人が流れ弾に当たるおそれがあるため応射せず暴徒を取り逃がした。

さらにこの事件に複雑さを加えることが起こった。この日の夜9時15分頃、上海防衛軍関係の車両が6台、うち1台は日本人が乗る護衛車両で、愛多亜路と福熙路を西に走り去った。そして愚園路へと曲がっていったこの護衛付きの車両は、静安寺路で銃撃された車両と同じ形のものだった。この日本人護衛車がついた車は、何の関係の車なのか、今だ未確認である。警察当局は銃撃事件と日本人護衛付きの車両がなんらかの関係があると見て、精力的に調査中である。

Photo

コメント
二日目の記事である。結構長い記事だ。大陸報という別の新聞社から買った記事のようだ。この記事によると、1140番小路から車が出てきたという表現は無くなり、西魔路と戈登路の間の静安寺路を通過中という表現になった。

場所に関しては、中国語記事原文だと、「西魔路興戈登路間乃静安寺路上、有汽車一輌駛過、突遭道傍発鎗数響射撃」である。「駛過」の「駛」は「走行する。疾走する」の意味である。

上の地図を参照してほしい。最初、西魔路附近に暗殺者側の四人が現れ、そのうち二人が、通過しようとした車に銃撃したようである。四人いたのになぜか二人は銃を持っていなかったようだ。

映画のシーンにもなったが、定説は、「丁黙邨は車を停め、ピンルーと二人で道路向いの毛皮店に入り、直後、狙撃を警戒して一人で脱兎の如く店を出て停まっている車に飛び乗り、銃撃を受けながら走り去った」、というものだ。ところが、この日の新聞記事からは、このような劇的なシーンは浮かんでこない。車が走っている状態で銃撃が始まったと読める。

この記事からは、これまでどの書籍にも、ネット上にも書かれていなかったことが出てきた。この夜、日本人地区の六三花園という料亭で、銃撃後の丁黙邨も含め、汪政権側地下工作者が一同に集まり忘年会を開いていた、というところまでは有名な話だ。しかし、汪政権側は、忘年会の後、日本の護衛車に守られて6台も連ねて、汪精衛公館周辺の自宅や、ジェスフィールド76号内の自宅に帰宅した、といのは初出情報だろう。車列はずいぶんと目立っていたようで、そのうちの一台が、静安寺路銃撃事件での一台と型式が同一だ、というので、関連性が注目されたようだ。銃撃を警戒して厳重な警護の元に帰宅したのだろう。汪政権側の緊張が見て取れる。

1939年12月24日
申報

訳文
車両銃撃事件 調査継続
いまだ目撃者なく 報告書作成できず

大陸報によると、21日午後6時20分、西魔路近くの静安寺路にて、黒い車両一台が、路傍に隠れていた四人のうち二人から銃撃を受けた。車両は数発銃弾を受けたものの、すばやく車を走らせ現場を離脱した。一般市民はみなこれは暗殺事件だと信じている。静安寺警察署員は昨日(22日)数多くの情報を収集したが、いまだに事件の前後がきちんと対応する報告は上がってきていない。21日夜9時15分、上海防衛軍関係車両が6台、うち1台は日本人が乗り、愛多亜路と福熙路を西に行った。前に伝えたこれらの車両が静安寺路銃撃事件と何らかの関係があるのかいまだに不確かである。

コメント
三日目の記事である。再び大陸報からの記事だ。目撃談は最初のもの以外にあまり有効なものは収集できなかったようだ。現場証拠も残っていなかった。毛皮店や、他に女性がいたこと、つまりピンルーのことであるが、に全く言及されていない。目撃者も警察も、走行中の車両を銃撃した、という事件としてだけ捕らえているようだ。怪我人にも言及がないので、負傷した人もいなかったのだろう。

租界警察はシベリア毛皮店にも当然事情聴取をしたはずだ。この店の前で銃撃が起こったのだから。定説の通り、丁黙邨と鄭蘋如が腕を組んで店に入り毛皮を選び始め、いきなり丁黙邨が外に走り出て、その後銃声が聞こえた、のなら、シベリア毛皮店の店員なり店主なりの記憶に刻まれるはずだ。ここは不可解な部分だ。

シベリア毛皮店の店員を事前に買収して口止めすることも可能だろう。だとしたら、誰が口止めをした?そしてその動機はなんだろうか。メリットはどこにあるだろうか?

「一人の男性が若い女性を伴って店に入ってきた。男女の人相、服装は○○だ。店外には怪しい男性が張り込んでいた。店に入ってきた男女のうち男性が脱兎のごとく店外に駆け出て行き、車に乗車、あやしい男性二名が銃を発射したが、その車は走り去った。怪我人はいなかった」

店員からは以上のような証言が得られるだろう。暗殺者側からすると、当然自分らの人相を証言するな、という動機がある。そして共犯者としてのピンルーの情報についてもやはり口止めする理由があるといえるだろう。

そして、李士群にも特にピンルーの存在について、シベリア毛皮店の口止めに理由があると私は考える。その理由は次回ブログに記載する。

さて、次の記事は、国会図書館関西館で見つけたものではなく、「一个女間諜」と、柳沢隆行氏の「鄭蘋如」に掲載された写真から読み取ったものである。

1939年12月31日の「大公報」に12月30日香港電として記事がある。

大公報より

原文
丁逆丁黙邨 被刺受傷
【中央○香港三十日電】○訊、自汪逆叛国投敵後、其爪牙丁逆黙邨○居○上、活動甚力、並組織偽特務部、甘為敵人応大、任意刺殺愛国同胞、国人無不頻恨。頃聞該逆於本月二十一日下午六時、偕其女友、乗自備汽車、至静安寺路附近、正擬向其大公司賜物之際、突被愛国志士多名狙撃、当時鎗撃大作、情形発為緊張。  
丁逆比受重傷、但仍負傷奔入保険汽車内、該車亦中数弾、但仍出司機加足馬力、狼狽逃去、及警務人員聞声出動、各志士亦従容避去。
丁逆当晩出敵方派車護送至福熙路其○○治、至今生死不明、
該案発生後、偽特務部連日開会検討、○為恐慌。

訳文
丁黙邨 銃撃を受け負傷

【中央○香港電30日】
汪精衛が日本に投降後、丁黙邨の爪と牙は至る所で強力に活動している。特務部を組織し、日本の言うことを聞き、愛国の同胞を殺している。彼に恨みを持たない者はいない。聞くところによると、丁黙邨は12月21日午後六時頃、女友達を連れて自動車に乗り、静安寺路にやってきた。まさにプレゼントを渡そうとしたとき、突然愛国志士多数が銃撃を開始した。その時の銃撃は激しく、一帯は緊張に包まれた。丁黙邨は重傷を負ったものの、防弾車両に飛び込んだ。この車両にも数発の銃弾が当たったが、車はにわかに加速し、あわてて逃げていった。警察官が銃声を聞いて出動したが、各志士もまた逃走。丁黙邨はその夜、日本の護衛車両に付き添われてアヴェニュー・フォッシュに至った。未だに生死は不明である。事件発生後、特務部は連日会議を開き対策を検討、恐慌状態となっている。

コメント
事件から10日近く経った時点の記事だ。香港電の記事として「大公報」に掲載された。中国側新聞、抗日系である。この記事は要注目である。

この記事の特徴はその具体性である。「申報」が伝える目撃者談の内容を大きく乗り越えている。まず、丁黙邨という実名が初めて出た。丁黙邨という名前に逆という文字を付けるのは、売国奴と見なしているからであり、この新聞が一般的中国新聞、抗日系の証しだ。

なんと女友達を連れていた、とある。しかもプレゼントを渡そうとしたその瞬間、というように小説的、劇的表現となっている。

そして、丁黙邨に銃弾が当たったようで、なんと重傷を負ったと。そして、特務部、つまりジェスフィールド76号のことであるが、の内部はあわてて連日会議を開きパニック状態とある。

逆に、「申報」には書かれていて、「大公報」では省かれた内容があることにお気づきだろうか。それは、「申報」では銃撃側は四人と明記され、うち銃撃したのは二人と書かれているのに、「大公報」では愛国志士多数とだけ書かれていることだ。四人のうち銃撃手が二人ということが何を示唆するか。それは当記事末に記載する。

「大公報」の情報ソースはどこなのだろうか。私はこれは、暗殺計画を知る内部の者がリークしたものと考える。単なる通行中の目撃者が、丁黙邨の名を挙げることは不可能。ましてや連れている女性が女友達とは確信できるはずがなく、妻、娘、いろいろ推測されるはずだ。

ソースはCC団とも思えるが、動機から類推して、丁黙邨のライバルである李士群側のリークの可能性が高いだろう。丁黙邨の名前を出し、「女友達にうつつを抜かしている最中に銃撃を食らった、とんだ恥をかいたものだ」、そんなイメージ操作を狙ったのではないだろうか。

ジェスフィールド76号の監督者、上海憲兵隊の晴氣慶胤(はるけよしたね)は戦後の著書にこう書いている。

「この事件をいち早くかぎつけた新聞は、「桃色のテロ」と題してジャンジャン書き立てた。こうして丁黙邨のスキャンダルは、街の物笑いの種になった。新聞社をそそのかして大きく書き立てたのは、いうまでもなく呉志宝だった。この男はまだそれにあきたらず、「76号」の内部で糾弾大会を開いて、丁黙邨の引退を決議してしまった。こうした大勢に、丁黙邨派も後難を恐れて口をつぐみ、誰一人として丁黙邨を顧みるものはなかった」  「謀略の上海」168ページより

晴氣によって新聞社にリークしたと名指しされた呉志宝は、76号内の武闘派であり、李士群の腹心の部下である。

実際、丁黙邨はこの事件の後、76号内に起きた李士群側による丁黙邨追い出し運動によって排撃された。日本側の人事調整の末に組織の外に出されたのだ。そして李士群が新たな76号の長となったのである。

そしてここからは私の大胆な推測になるが、李士群は自分の計画したこの丁黙邨追い出しのための銃撃計画が本当に実行されるかどうか確認するために、二人の監視役を送り込んだのだと判断する。みなさんは、暗殺を確実に決めるなら四人の銃撃側人員が全員、銃を持って射撃した方が確実だと思わないだろうか。私はそう思う。しかし発砲したのは二人という報道がなされた。

実際の銃撃実行犯はCC団系の嵇希宗が選任した陳彬ともう一人のヒットマンの二人である。李士群が、敵側であるCC団系の銃撃手が実際に計画を実行するかどうか一抹の不安を抱くのは当然であろう。李士群は監視を置いた。それが、銃撃側人員が四人、実際の銃撃手は二人という人員構成に現れたと私は判断する。

もちろんこのことは、明るみには出せない。したがって、李士群側からのリークである「大公報」では、他の部分が異常に具体的であるにもかかわらず、銃撃側人数に関しては、「愛国志士多数」という抽象的表現となったのだと推測する。



「暗殺未遂事件の新聞記事2」 当記事の続きです←クリック

|

« 続 テンピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)と新生事件 | トップページ | 暗殺未遂事件の新聞記事 2 »

テンピンルー」カテゴリの記事

コメント

R16様

このブログではお久しぶりです!最初わかりませんでしたけど、思い出しました。確か京都に行くという話はR16さんには1年以上前に言っていたかもしれません。たしかに「ついに」ですわ。本当に求めていた文章は見つからなかったのですが、多少すっきりしました。やるだけのことはやっておかないとですね。

投稿: bikoran | 2010年5月14日 (金) 21時19分

国立国会図書館関西館進出、おめでとうございます。
しかし、本当に足を運ばれるとは…

投稿: R16 | 2010年5月14日 (金) 12時23分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 続 テンピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)と新生事件 | トップページ | 暗殺未遂事件の新聞記事 2 »