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2010年6月20日 (日)

殺し屋の本能

ワールドカップ、日本対オランダの試合を見た。オランダがわずかなチャンスをものにしたのに比べて、日本はゴールに迫る回数はオランダを上回ったものの、点を入れることはできなかった。

元日本代表監督のオシム氏が試合後に日本チームを評して語った。

「チャンスがあれば絶対に殺す、という殺し屋の本能が無かった」


つまり、今日の日本は殺し屋ではなかった。あるいは殺す気がなかった、ということだろう。


私はこの言葉を聞いて、やはり1939年12月21日午後6時20分の上海静安寺路でのできごとを思い起こさざるを得ない。


シベリア毛皮店付近に派遣されたのは四人。うち二人がプロの殺し屋だ。残りの二人は監視役だ。

丁黙邨が車を降りた。道路のどちら側に車を停めるかは殺し屋ならわかっていただろう。共同租界はイギリスが統治する。車は左側通行である。車は予定通り店の反対側に止めた。

「絶対に殺す」


という本能があったら、降りる動作中の丁黙邨に対して銃を発射しただろう。不利な姿勢の相手に数発の銃弾が撃ち込まれただろう。

しかし殺さなかった。銃を発射しなかった。


なにごともなく車を降りた丁黙邨は、鄭蘋如(テンピンルー)と並んで、道路向かい側のシベリア毛皮店へ歩き始めた。



「絶対に殺す」


という本能があったら道路を渡っている丁黙邨に背後から忍び寄り、背中に銃を押し当てて仕留めただろう。

しかしそうしなかった。傍観していたというのか?


なにごともなく、丁黙邨とテンピンルーはシベリア毛皮店に入った。



「絶対に殺す」


という本能があったら、この瞬間、店に突入して態勢整わぬ相手に銃弾を浴びせただろう。しかし、二人の殺し屋は中には入らなかった。店に迷惑がかかるのはまずいとでも思ったのか?いずれ出てくるからその時に撃てばいいと思ったとでも?

本当にそう思ったようである。これまでの定説によれば・・・。








なにごともなく、店の中で品定めをし始める丁黙邨とテンピンルー。

と、丁黙邨だけ店を飛び出してきた。



「絶対に殺す」

という本能があったら、殺し屋二人は二つあるシベリア毛皮店のドアに一人ずつ張りついていただろう。そして必ずどちらかのドアから出てくる丁黙邨をその場で仕留めるか、車に戻るまでの間に仕留めていただろう。

しかしこの時の殺し屋はそうはしなかった。定説ではこうなっている。


「丁黙邨は鄭蘋如とプレゼントの品定めに時間を取るのだから、それまでは外でゆっくりしていよう」

と。



いったいぜんたい、相手を間近にしている殺し屋がゆっくりしている暇がどこにあるのだろうか。一瞬たりとも緊張と集中力を切らさないはずだ。しかし、この殺し屋二人は外でゆっくりと煙草をくゆらせていたと・・・。

ありえない。少なくとも「絶対に殺す」と覚悟を決めていたとは思えない。


私は、過日京都で手にした1939年12月21日のできごとの新聞記事を読んで、この殺し屋二人は最初から丁黙邨を殺す気などなかった、としか思えなくなっていた。

オシム氏の言葉を聞いて、それは確信となった。殺し屋はチャンスがあれば絶対に殺すものなのだ。



参照記事:「暗殺未遂事件の記事 2」←クリック








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テンピンルー」カテゴリの記事

コメント

テストパイロット様
本日、貴殿の著書が届きました。頓宮氏が昭和18年、蒋介石との和平交渉に乗り出していたことが書いてありました。中国側サイトで、頓宮氏の名前が、花野吉平や早見親重などの日本人和平交渉人を列記する文脈の中で出てくる所以がわかり、数年来のなぞが解けました。貴殿の著書はすぐれた史料として精読させていただきます。

投稿: bikoran | 2010年9月 3日 (金) 03時19分

 顧南群について・・・ 

大正十一年に入ると頓宮は、王震をはじめとした上海の中国人有力者や愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)出身で上海南洋医学専門学校の校長をつとめる顧南群などから、「中国には近代的な西洋医学を習得した西医があまりにも少ない。医療、衛生の面から中国の近代化を推進していかなければならない。『衛生救国』のために頓宮先生ぜひ協力をお願いしたい」という要請をうけ、福民病院の経営のかたわら上海南洋医学専門学校の名誉校長兼外科の主任教授に就任し、李定(教務長・大正六年千葉医専卒)、夏建安(病理学教授・大正六年大阪医専卒)、呉宗慶(のち南洋医科大学学長・大正七年愛知医専卒)、孫孝寛(外科教授・大正九年京都帝大卒)らとともに中国人医学生の養成にたずさわったのである。
上海南洋医学専門学校の創立者である顧南群は、大正五年、愛知医専を卒業すると帰国、上海山海関路に南洋医院を開設、二年後の大正七年、南洋医院を南市小南門内黄家路に移転し、その跡地に上海南洋医学専門学校を設立、中国人医師の養成にとり組んでいたのである。
 頓宮が上海南洋医学専門学校の名誉校長兼外科主任教授に就任したきっかけは、顧南群の弟で、頓宮の日本医学専門学校時代の教え子である顧南逵が、午前中は福民病院で外科医として勤務し、午後は南洋医学専門学校で教鞭をとっていたからである。

投稿: テストパイロット | 2010年9月 2日 (木) 01時08分

テストパイロット様

本の紹介ありがとうございます。さっそく注文しました。上海福民病院院長であった頓宮寛氏の名前はじつは、テンピンルーの調査研究の中で出てきていました。

頓宮氏は、上海私立南洋病院の院長であり「中国人日本学士会員」である友人、顧南群氏を通じて、蒋介石との直接和平交渉の糸口を探していた、というような文章が中国のネット上にあったのです。

本が届くのを楽しみにしています。

投稿: bikoran | 2010年8月31日 (火) 04時05分

 こんばんわ 
 20日に「奇跡の医師」という単行本を光人社から上梓しました。主人公は小豆島出身で近くに住んでいた頓宮寛という医師です。
 頓宮先生は、上海福民病院の創設者で院長です。オールド上海の写真も多数掲載しておりますので、よければご一読下さい。

投稿: テストパイロット | 2010年8月31日 (火) 00時28分

花椒様

コメントありがとうございます。励みになります。おっしゃるとおり、意図せぬ時に、突然線が結ばれるときがあります。歴史の醍醐味ですね。ピンルーに関してはまだまだ検証すべきことが山積みです。

投稿: bikoran | 2010年6月23日 (水) 23時50分

誰かの一言でもやもやしていた事がふっと解けるようなことってありますね。

私はサッカーにはあまり関心がありませんが、一瞬も気を抜けない真剣勝負の世界で生きるオシム監督の言葉とbikouranさんの言う殺し屋の本能は確かにとてもリンクしますね。何と言いますか、勝負の世界で生きる人の言葉には説得力があります。

テンピンルーの今と過去が少しづつbikouranさんの手で繋がっていくような感覚がして、読んでいてとてもわくわくしてきます。

緻密な調査をしていらっしゃるからこそ色々な立場の人間の気持ちを日常と繋げていつも考えていらっしゃることは「すごい・・まるで映画に出てきそうな探偵みたい・・」と思わずにはいられません。(表現力乏しくてすいません・・。)点と点が線になっていく感じですね。
だんだんと真実に迫っていくこのブログをとても楽しみにしています。

投稿: 花椒 | 2010年6月23日 (水) 22時46分

本能はなかなかKAIZENできそうにないですね。

投稿: R16 | 2010年6月23日 (水) 22時12分

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