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2010年7月13日 (火)

テンピンルーと阪義雄

スパイの歴史を少し紐解くと、一口にスパイと言っても二種類あることがおぼろげながら見えてくる。情報を取り、流すだけのスパイ。そして政治的、とまで言わないまでも、情報を扱いながら歴史をも変えようと試みる者の二種類である。

鄭蘋如(テンピンルー)に対する中国側の代表的修飾語は、このようなものだ。

「一人の女スパイ」

「抗日烈士」

私はテンピンルーが、このどちらにも単純にはあてはまらないのではないか、という疑問を持ち続けている。いや、むしろCC団のスパイというよりは、日中間の反戦和平のために個人として奔走した、と捉えた方がいいと思っている。

その思いの源泉となる情報は、やはり偉達飯店での会合だ。「ピンルーの親友 花野吉平 4」を参照←クリック

この会合には、日本軍特務部の反戦和平派の花野吉平や、近衛文麿の腹心である早水親重らが中国側から招待されている。

招いたのは誰か。この会合では、ピンルーと弟の南陽が中国側と日本側の間を取り持つ通訳を務めた。私はひょっとしたら日本側の人選も含め、ピンルーがこの会合を企画した一員ではなかったろうか、あるいは先頭に立って奔走したのではなかったろうか、と想像している。

ピンルーが単純な情報収集活動からCC団運用メンバーとしての活動を始めたのではないことを妹の天如さんが語っている。 参考:「郑静芝口述 杨莹整理」(注:作者ヤンユインは中国の女流作家)

以下引用

お姉さんは反戦抗日の活動をしましたが、それには表舅(注:ビャオチゥ。母方木村はなの親族)の影響がとても大きかったのです。表舅は姓を阪といって、私のお母さんが中国に来た後に、彼も上海に渡ってきました。中国姓に改姓し徐耀中と呼び、中国語を学び、京劇を学んで、中国の奥さんをめとりました。しかし子供ができなかったからか、彼はとても私達の家の子供をかわいがってくれました。

後に日本と中国が正式に開戦したとき(注:上海での開戦は1937年8月)、表舅は私達の家に来たけど、中には入って来ずに言いました。「私はもうここに来ることはできなくなってしまったよ。私は日本人で、あなた達は中国人だから」と、玄関に立っったまま、家の使用人に言いました。

その後、彼は他の日本人達と反戦の会合を開いたりしていました。お姉さんはそれからずっと彼らの会合に参加しはじめたのです。表舅はもう私達の家に来なかったけど、私達子供に対してとても良くしてくれて、街中で私達を見つけると、いつもおいしいものを買ってくれました。彼は特に私をかわいがってくれました。たぶん私が家族で一番小さかったからでしょう。

中略

当時、お姉さんと表舅は頻繁に会っていました。二人は日中戦争に全面的に反対していたのです。その後知りましたが、もともとお姉さんは中国のために働きたかったので、彼女はいつも彼にくっついて、反戦日本人の中から中国に役立つ情報を得ようとしていました。表舅の身分は私には分からなかったです。私達は日本に多くの親戚がいるので、私は以前ずいぶんと調べましたが、彼らは私に教えてくれず、結果的に何一つわかりませんでした。1人の日本人作家がいて、私にお母さんの日本の実家の親戚を探し当てるように手伝ってくれました。

表舅とお姉さんは日中戦争に全面的に反対していました。その時、日本人は二派に分かれていて、一方は東条らの軍人で、この一派が戦争をしたのです。別の派は首相派で、天皇の助手(注:近衛家のことか)で、日中戦争に反対でした。私のお姉さんはいつもこの反戦日本人達と往来し、彼らの集まりに参加していました。

お姉さんは日本の血筋で、日本語がとても上手です。彼らもお姉さんを分け隔てせず、お姉さんは彼らととてもいい関係を築いていました。お姉さんは彼ら日本人から聞いた情報を、嵇希宗に伝えました。彼は国民党の中統(注:CC団。中央執行委員会調査統計局。反共抗日組織)に属していました。 陳立夫も中統です。私は、お姉さんが最初は中統とは全く無関係だったことを覚えています。でも最後にやっと参加したのです。

引用終わり

この、中国語で表舅と表記する意味がやや不明だが、母方の親族、ということは確かなようで、木村はなの親戚筋の日本人男性となろう。姓は「阪」、と天如さんは言っているが、日本人の姓としてはあまりない名字である。ちなみに、木村はなの出身地である茨城県真壁町の電話帳を見ても「阪」という名字の方は一人も掲載されていない。

この春出版された柳沢隆行氏著の「美貌の女スパイ 鄭蘋如」を紐解くと、阪義雄という名が出てくるので少し引用する。

P23  「あるいは同文書院に関係していたという阪義雄という人物も考えられるが、彼が大学にどう関わっていたかという確証が得られていない」

鄭蘋如が東亜同文書院に勤務し始めた近衛文隆に近づこうとしたときに、紹介者は誰だったか、という話のなかでの記載である。


p361 「ここには阪義雄も徐という名前で南陽を手伝っていたが、政治体制の変化を受けて診療所が閉鎖(1955年)されたために帰国した」

戦後に弟の南陽が実家の万宜坊で診療所を開いた所での記載である。

精細な情報収集を為された柳沢氏にしても、この、テンピンルーにとっての重要人物、阪義雄氏に関してはどのような人物かは詰め切れていない。

そこで私は、東亜同文書院の文書を当たることにした。東亜同文書院の流れをくむ愛知大学、そう、私が2年前の夏、急遽シンポジウムに参加した大学であるが、参照「テンピンルーを最初に演じた女優 それは」←クリック  その愛知大学が、東亜同文書院の卒業生による大旅行誌を出版している。

東亜同文書院に関係するという阪義雄氏が、もし職員でなく学生だったのであれば、この卒業生による大旅行誌にレポートを寄せているはずである。なぜならこの大旅行誌は卒業に必須の論文のようなものだからだ。

永田町の国会図書館で探してみる。「東亜同文書院大旅行誌」は卒業年次ごとに全部で33巻あった。1943年の40期生第33巻まである。3冊ずつ借りては閲覧し、執筆者を一人一人確認していく。

無い。

阪義雄の名はどこにもない。残念ながら、卒業生ではなかったということか。

半分あきらめかけたところで、1935年、第31期生の巻に、気になる執筆者の名前が目に入った。

坂井義雄

似ている。どうだろう。天如さんの記憶違いだったのではないだろうか。

坂も阪も中国語の発音は同じだ。

阪義雄ではなく、坂井義雄だったのではないだろうか・・・

と、こう書くのも、苦労した自分の作業に対して、成果を得たいという心理以外のなにものでもない。人違いだったら非常に申し訳ないことだ。しかし、まずは坂井義雄という人が東亜同文書院第31期卒業生にいた、という事実だけでも当ブログに記載することで、後の研究に少しでも役立てばと思う。また、これを見た方からなんらかの情報をお寄せ頂けたら望外の喜びでもある。

Photo この坂井義雄氏の大旅行は、山東遊歴班として栗田五郎氏、廣田恒雄氏、坂井義雄氏の三名の卒業生でなされた。数ヶ月間の行程だったようだ。上の写真の通り、「聖賢よ今いづこ」のタイトルで共同レポートとなっている。

余談になるが、この大旅行誌のレポートの数々は、とても読み応えがある。交通や宿泊施設の全く整わない時代。しかも抗日のただ中の中国大陸を数百から千キロ以上に渡って往くわけだ。行程中に栄養失調や過労からくる病死者も出ている。現地の人との交流や風物が外連味なく記載されている。日本と中国の架け橋たらんとした若き冒険者達によるレポートであった。

以上で「テンピンルーと阪義雄」を終わります。







































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コメント

花椒様

いつもありがとうございます。

テンピンルーは、むしろ個人的に動いていた、というのは、前回のコメントにも書きましたが、徐小姐(シュシャオチェ)が松崎に言った次の言葉が大きかったです。

「私、私のからだ、蒋介石のものでも、支那のものでもない、私は、私のものです。分かりますか。スパイではありません」

私はピンルーの心の叫びが徐小姐を通して放たれたように感じました。

テンピンルーの中に明智光秀がかいま見えるという件、興味を引きます。私は1930年代という狭い範囲を深く掘り下げるばかりなので、日本史全般にはうとかったりもします。彼女の歴史を知ったことをきっかけにすこしずつ範囲を広げられたと思います。

投稿: bikoran | 2010年7月14日 (水) 08時07分

すごい熱意に毎回のことながらまたも感銘を受けました。三十数巻も・・

坂井義雄氏、とても気になりますね。木村はなさんの出身地の名簿には坂井義雄という名が記載されているものなのでしょうか?なんにもわかってなくてすいません・・坂井という家なら何件かありそうですね。


私もテンピンルーはスパイなのではなく、日中和平活動家というのがしっくりくるような気がします。

テンピンルーの志に賛同した仲間がまるで桃太郎の周りに集まるように増えていったのではないか、と思えます。そして時代をうごかそうとしていた。

それを快く思わないいくつかの組織や人間からマークされ、いくつもの思惑や打算によってテンピンルーは儚くも抹消されてしまったのではないでしょうか。これは私の推測でしかないかもしれませんが。

テンピンルーの透き通るような純粋な目をみていると、中国のために何かしたいという蒼い理想に燃えていたのではないかと思えてきます。

ただ、彼女が立ち向かうべき相手は彼女よりも何倍も上手で腹黒い人達だった。だから真っ直ぐなテンピンルーは落とし穴に嵌ってしまったのでは・・と想像しています。

私はテンピンルーの中に、秀吉に騙された明智光秀みたいな要素も少し感じたりします。(余談ですが、そして日本史ですが、私はこの説が真実だろうと信じています。)

次も楽しみにしています。大変なことも多いでしょうが、頑張ってください。
長々と失礼しました。

投稿: 花椒 | 2010年7月14日 (水) 02時01分

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