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2010年8月の8件の記事

2010年8月29日 (日)

「上海歎異抄」 6 (最終回)

引き続き、東亜同文書院 34期生、山内正朋氏のレポートを引用し、最後にブログ管理人のコメントを付す。

以下引用

 両国の開戦は日本の泣いて振るう斬馬の剣である半面、支那自身の深く日本のもつ歴史と精神の認識を欠いたところに、恐るべき不幸は胚胎した。日本の敵は支那民衆にあらざることを日本当局は繰り返し声明した。日本はまた支那自体をも敵とするものではなかった。むしろ敵とされたところに、よんどころないものが国民に銃剣を握らせた。これは日本がセシルローズ的「ひろがり」を求めたわけでもなく、ジンキスカンの二の舞を繰り返すことでもない。だが問題は日本が支那民衆の敵の名をもって呼ばれねばならなかったところにあろう。

 ひとしく日本の教えるところは、いわゆる「東洋平和」でもなければ、いわゆる「東洋の安定力」ということでもなかった。

 現下の東洋において、まだ平和の説かれるべきものでもなければ世紀前的現状の、時代への癒着を安定と呼ぶべきでもない。

 日本国民の望むところは、東方の被圧迫民族を安定化することでもなく、ここに偽装平和を維持することでもなく、またもちろん、日本自らが西欧的帝国にとって代わって血の鞭を振るうということでもない。

 日本は何を為し来たり、何を為すか。戦争か平和か。殺戮か人道か。

 幸いなことには日本は自らの将来を自らの力によって、意思によって聡明さによって決定することが出来る。日本は自由である。日本それ自らが自由人である。

 支那に四億の人口があり、そしてこれら四億の民だ。国亡び、自由と平和は失われ、不安と屈従と圧迫のうちにさまよい、そしてまたそれゆえに独立と自由と解放とをもとめているのは。そして仆れて祖国の山河に憤死する民族、しかも蒋介石はなお「一滴の血、一寸の土地が存する限り戦う」ことを、自国の民衆に呼び掛けてやまない。

 我々はこの現実に直面する。この現実が日本の使命を決定する。日本は自らの使命を世界史的な使命にまで自己昂揚し、そして日本の為の王道でなく、ひろく被圧迫民族の独立と解放と自由のために、王道を説く将来が我々の明日の戸口に立っているのではないか。

 

 私はもう一度、上海の土地を踏み、上海の街角から街角を彷徨してみたい。

  

 もはやかつての上海ではあるまい。変わらぬものはかえって上海がもつ「そこひ」租界だけであろう。見る影もなき戦の跡にむなしく日だけが照り、月だけが流れているであろう。六弦琴の感覚をもって私に迫った租界は、私の六弦琴の幻影と共にもはや新たな復興の音をたてているのであろうか。

 租界を一歩外に踏み出せば、焼け落ちた街々の角に、呪われた老若男女の支那民衆が飯に飢え、衣服にこごえて幾群も幾群も立っていることだろう。最近の新聞は上海における凍死者数、租界当局の手にし接収したものだけでも日に七十余りの死体を数えたと告げている。冬来りなば、やげて千里驚鳴いて江南の春が遠くないと言うに。広茫の野に砲片に死するもの飢えて凍えて仆れるもの、ああ幾千幾万か、幾十万か。

 ダンテは地獄の様々の谷にある数知れぬ亡者達を、ただ見て通った。時代の嵐にうちひしがれて、そしてなお無知と迷蒙のほか何も知らぬ支那民衆の前を通る者は、ダンテの強さをもって臨まねばならぬであろう。

引用終わり。 

ブログ管理人コメント

全編にわたって、山内正朋というレポートの作者がもつ中国、そして上海市民に対する愛情を感じる文章である。

ところが、彼は言う。

「日本はまた支那自体をも敵とするものではなかった」

「だが問題は日本が支那民衆の敵の名をもって呼ばれねばならなかったところにあろう」

著者山内氏のように、中国に対する愛情を持つ者にとっても、日中戦争は、戦争ではなかったということにしたいようだ。日本は中国と敵対しているわけじゃない、戦争するつもりはなかった、いや戦争ではなく、事件だ、事変だ、ということだろう。盧溝橋事件しかり、日支事変しかり。

山内氏は中国人を敵と思っていない。ところがなぜか中国人は日本を敵と思っているのである。山内氏はそこを不条理と言いたいようだ。

彼は徹底的に中国をあわれんでいる。自分で進路を決められる聡明で自由な日本、日本人。それに対し、彼が繰り返して使うことば「そこひ」、つまり目の曇り、を持つ中国、そして中国人。この上から目線はついに彼の次のような言葉に収れんする。

「日本は自らの使命を世界史的な使命にまで自己昂揚し、そして日本の為の王道でなく、ひろく被圧迫民族の独立と解放と自由のために、王道を説く将来が我々の明日の戸口に立っているのではないか」

なかなかの指導者ぶりである。

しかし、彼はこう気づいてもいる。

「・・・我々の周囲にこそ輸出超過もしかねまじき、数限りなき反省の種が充満してはいないだろうか。

 東洋の盟主と、やがては自他ともに許すであろう日本!だが日本民族は自らの国民的教養にまず真っ白な歯ブラシをあて、腐臭を洗い落とし、文化におとした中世的暗影は払拭されねばならぬだろう・・・」

そして彼の中国への愛情は、顔を真っ赤にして次のように話していた支那少年のことばを聞き洩らさなかった。

「・・・・・自分達が一人前になるころには支那は、昔世界文化の中心であったように再び世界の中心になるのだ、それにはまず石をかじってでも外敵に抗して、自国の一人ひとりが常に強くなり、偉くなるように心がけねばならぬのだ・・・・・」

こう山内氏に語った少年が一人前になったころ・・・・、文化大革命の嵐が中国を襲っていたころだろうか。少年の夢はかなわなかったかもしれない。しかし、その彼に子供がいたのなら、その子が一人前になっているであろう2010年、ついに中国は日本のGDPを凌駕したのである。

山内氏はどう思うだろうか。

「そこひ」、目の曇り、は中国人ではなく日本人こそが患っていたのではないだろうか。

以上で「上海歎異抄」を終わります。

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「上海歎異抄」 5

引き続き、東亜同文書院 34期生 山内正朋氏のレポートを引用する。

以下引用

 革命記念日とか国恥記念日における隊伍が上海を暴風のように通った日の思い出はとても私には苦痛で書けない。彼らの旗は私の国を倒す標識をかかげ、彼らの罵詈(ばり)は私の祖国の一切に唾棄しつづけることであったから。だが、これら抗日を直接の目標にしない彼らの行進なら、私は古き支那を彼等の捲き起こす塵煙に葬列のように送りこみ、新しき支那を迎えるメロディーを口一杯にしながら私のたたずむ前を通過した幾度かの行進を見送った。その中で記憶に深いものは何と言っても魯迅の葬列に続いた君等の埃にまみれた行進であろう。

 それも昨年十月も遅い二十二日の落葉の多い昼過ぎであった。寮舎の二階の窓から哀調に充ちた葬送曲を先頭に、「嗚呼魯迅先生」の弔旗を幾本となくうち立てて、あるいは弔意を表した悲しみの数句を誌した布地の両端を、高々とささえながら、あるいはゴーリキーに似た魯迅の肖像画が数名の者たちに支えられて、アカシヤの上海郊外の並木道を悲しみの騒音が十数町、あとからあとから続いて行くのをみた。

 名士もいた。労働者も歩いた。そして私は次の支那を背負う青年達や少年達の咽喉も枯れ枯れに、魯迅の死を悲しみ、自国の前途に暗いものの広がりを見つめつつ歩くのを見た。

 大学生らしい腕章をつけた青年達が列の途切れ途切れを忙しく、魯迅を弔う哀詞の伝単を道路につくった人垣へ向かって配布して回っていた。

 寮舎からはすぐ下の墓地への路だったので、私共は、草履をばたつかせながら徐家匯墓地手前の道路にもやもやと立つ埃に立った。秋の日は落ちやすい。並木道の両側に吹き付けられたアカシヤの葉色が弱々しい光を受けて寒々と風に動くのを気づくころには、十一月頃の夕月のあらわれたる五時半か六時頃であったろう。

 涙をもって支那の将来を予言し、訴えていた魯迅、その魯迅を失った支那人達の隊伍の中に、頭髪もまつげも埃で真っ白になりながら小学生達の、疲れを大地にふみつけて今は無心に歩く姿のなんと痛々しいものであったか。

 

 それから、今年に入るとプーシキン記念祭、それから梅雨のない上海の明るい六月の空の下をゴーリキー一年祭、それに続く支那国防音楽の開拓者であったという若く死んだ作曲家轟耳(注:じえい。義勇軍行進曲の作曲家)の盛大なる記念祭・・・・・・・・・紺青の支那服の若者達の群衆が激しい時代の圧迫に、憑かれたように熱狂している動きは私の印象から鮮やかに浮かびあがってくる。

 だが呪われたものは支那民衆達であり、支那の時代の苦悩を一身に負わんとした紺青服の若者達である。

 それもこれも1937年秋から冬にかけて捲き起った兵変のために人も馬も家屋も、すべて鬼哭啾啾、黒々と残骸をとどめた北四川路より閘北一帯の廃墟は、ボンペイを掘り起こしたごとき惨状であると言う。

 国滅びて山河あり。支那四億の民衆の名において、祖国の防衛に投じた若者達。彼等は亡国の運命からの解放のために、あらゆる努力を払っただろう。愛国心は燃え上がり、日本が日露役に示したごとき挙国的開戦を思わせられた。彼等の民族的闘争心の斯くのごとき激しさを我々はいまだかつて見なかった。

 だが、開戦!それは支那をして益々滅亡を早しめるもの以外の何物でもなかった。

続く

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「上海歎異抄」 4

引き続き、東亜同文書院 34期生 山内正朋氏のレポート「上海歎異抄」を引用する。

以下引用

 楊柳がうち煙って上海一帯の自然が春めくころ、アカシヤの並木道に柳綿が飛んで野鳩の飛ぶ頃、避暑休暇を前に小麦の穂が出て、そらまめが咲く六月の蝉なく頃、一夏を故国にすごしてやがて清透の九月の空を軽い雲が飛ぶ頃には画の月が中秋節を待たせる。秋から冬へ、街頭に霧の深い日が多くなると南方橘子(注:きつし、オレンジ)の露店がならび、夜ごとワンタン屋の竹筒が寒風に響く。

Photo_2

(現在の徐家匯天主堂)

 春であれ夏であれ、そして秋であれ冬であれ、漂然としてポケットに手を突っ込めば足は徐家匯(ジョカワイ)一帯の散歩道に出る。日曜のよく晴れた朝には街筋一帯に市場のひらいた徐家匯。古い古い歴史を二柱の尖塔に誇る天主堂をめぐる徐家匯の街。それよりもっともっと面白いことは、ここは支那がもつ「そこひ」租界、それもフランス租界と支那領土の境界を大通りの中央線に沿って、東側の街並みが洋式のコンクリート造りに支那風の装備をこらした一筋、それに対して西側がこれは、なんと、みすぼらしい煤けて低く軒並みを連ねた一筋。この街を歩けば、外から強いられる半植民地的性格、内から抜け難き半封建的性格の悲しき対照が余りにも明瞭な姿をもって、見せつけられる。

  徐家匯歩けば、さりとて親しき老朋友の姿が少なくない。一文不知の口数だけ多い茶館の兄貴から街路に古物少々ならべて千年一日悠揚迫らぬ山東出の親爺、それでも時に副業の煙草巻きをやっていたがよほど、食うためには考えねばならぬらしい。それから洋式の握手をもとめては得意の官服の胸をそらす巡補君。十文饅頭屋の白前掛けの大将、それから街のインテリ八卦見の風水先生、などなど因縁浅からぬ老朋友達があった。天主堂裏から徐家匯一帯の顔役連中、いかにも両袖清風の素寒貧らしかったが、それだけに話すことすること、時代のどんな嵐にも鼻くそをほじくるだけの無表情な・・・・・表面だけでも太平無事な没法師振りには好感と同情に一杯になった。

 この秋の兵変に閘北(ザベイ)から浦東(プトン)へかけて街々が砲煙を吐いたとき、フランス租界の西側の線に沿う徐家匯一帯の街の顔役達も、首を縮めて多くもない家財を纏めては数えてみたことであろう。

 だが私にとって、これらのかそけき小市民達のことはさてをいて、想うごとに凄荘の気にひたらせられるものは、自国の明日の空を心にかけながら、顔を真っ赤にして語った少年達のこと

・・・・・自分達が一人前になるころには支那は、昔世界文化の中心であったように再び世界の中心になるのだ、それにはまず石をかじってでも外敵に抗して、自国の一人ひとりが常に強くなり、偉くなるように心がけねばならぬのだ・・・・・

と語った少年達のこと。蒋介石への信頼に胸をふくらませながら、日本が日露戦争においてかつて国を賭して外敵と戦い抜いた勇気を語り、一方自国の軍閥割拠の不統一を嘆いた中学生達のこと。国事は語るまいと前提しながら、自国の近代的軍備、ことに空軍三ヶ年計画の完成と共に飛行機一千機に至るときの間近いことを語った大学生達、彼らにあるとき平安朝時代の絹一匹の値段などを聞かれたときは、私も狼狽を禁じえなかったが。・・・・・・・・・これら明日の支那を背負わんと生い育っていた若き紺青の支那服の若者たちのことである。

 最近支那が世界にゴーリキーの名をもって誇った魯迅の雑憶を読めば自国へ振り向けられた嘆息が述べてある。

 「中国人が蓄めている怨恨はもう溢れるほどだ。もちろん強者の蹂躙がかくさせたのだ」

この外に向かっての怒気は真直ぐ自国への直截な皮肉となってこうつぶやかれている。

「だが彼等俺達の国の支配者達は、強者に向かって反抗しないでかえって弱者に対して発洩(注:はつえい。向かって漏れる)。兵と匪とは相争わずして無銃の人民が兵匪の苦しみを受ける。これは最も手近な証拠である。さらに露骨に言えば、こういう輩の卑怯を証明することが出来るとも言えよう。かくて支那の若者達にとって敵を内に外に、魯迅と共に、悩みは日本のインテリどころのものではなかったのである。魯迅の文句は次のように結ばれている。

 「卑怯者はたとえ万丈の噴火をもっていても弱草以外の何が焼きつくせるだろうか」

と。自国人が自国人を弱草のように踏みつけるほか知らなかった支那は、今眼前を亡者のように滅んで行くのだ。たとえ蒋介石が万丈の噴火をもっていたにしても。

 私は思う、彼の少年達や青年達が自国の敗退を眼前に涙を拭い、中学生も大学生達も、書物を地に放り、銃をとって閘北のたたかいに、江南の行軍に唇に血を噛みながら、たたかったであろうことを。

 日々伝えられる戦線ニュースにも死体の中に捕虜の中に、年若い少年達や青年達の姿を時折みうけられる。また今は戦線にある従軍の朋友達の戦線だよりにも、たびたびこの知らせを受け取った。

 何としたことであろうと言うのだ。

 この日のためにのみ彼等は、弱草の上にだけのしかかる制圧を跳ね返して、たたかって来たのではなかったか。時既に悔いて及ばず、亡国の恨をのんで戦場の夜半明日知れぬ生命をチェッコ銃と共に抱いて、一家離散の父母を想い、弟妹を想い、そして自国の復興途上に中折して、暗転する姿を見送るとき、恐らく嗚咽を中絶して土凍る塹壕に突っ伏したであろう。近日戦線から帰った某君の話はこの銃を抱いて惨死した死体の形相がいかに、唇を噛みきった無念の形相であったかを伝えている。

 この日のためにのみ、たたかった戦いの終末は、風悲十里の広野に、血を噛み土に傷つき仆れた支那の若者達。

 私は彼等の上に、彼等の死体に想いを寄せるとき、ゆくりなくも想い出すのは、彼等が上海の街頭から街頭へ隊伍を組んで明日の支那をたたかい取ろうとした・・・・・彼の日・・・・・彼等は自国の未開に憤怒しながら、いかに明日への希望に胸をはって歩いたことか。

続く

 

 

 

 

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「上海歎異抄」 3

引き続き、東亜同文書院 大旅行誌 34期生 山内正朋氏のレポートを引用する。

以下引用

かつて私は徐家匯(ジョカワイ)天主堂裏のうらぶれた支那街のとおりすがりに小学校の窓から流れてくる、ひとつの歌声に思わず歩みをとどめさせられた。たしか夏が深くなろうとしたある夕暮れ近くであった。そのうたの言葉は私の胸をハタと衝き、そのメロデーは私の腹をえぐった。生徒たちの「漁光曲」の調べを物さびたオルガンの低調さと共にきいた

 少年達のこの情緒的な哀曲に、隣邦民族の深々とした溜息をきいて私は、新しく、

「支那には四億の民がいる」

とつぶやいたものである。

 

 それにしてもこの隣邦の少年から青年達の排日感情というものはどうだろう。

 ときどき支那人小学校の校庭に足を踏み入れては私はこのいたいけな愛国者達の言葉を打ち解けて聞ける時がいつか来るような気がしたがとても限りなく少年達の愛国心を支配している排日の言葉や行動の中に、半ば私は絶望を感ぜざるを得なかった。だが私はこの日、これらの少年達とのほとんど宿命的かと思われた深い溝を幾分でも埋め得たことは、忘れがたい喜びであった。

 私のたたずむ石畳の小路に沿って深々としたクリークがメタンガスを発しながら腐臭を放っていた。

 クリークをへだてた民家から狭い一枚板がわたしてあった。私はほとんど無意識にそのすぐにも動揺しそうな橋の上に、四歳にも満たぬ赤い長衣をつけた女の子のが渡ってきたのを知っていた。

 支那の民俗的な苦悩に想倒して立ちすくんでいる私の周囲のどこからだったであろう。驚愕と喧騒がとっさに入り組んで、私を刹那の狼狽に上気させた。振り向いたクリークに女の子が汚穢の水面に浮いて沈んで・・・・・・・ああ、手を足を首を頭髪を、くるおしくみせたは沈む。私は上着を抜ぐ暇だけを瞬間のこととして、クリークに足を入れた。ほんど首までくる濁水であったが、私はとにかく、女の子を支えて、石畳の小路まで抱き上げた。小路の彼方此方から支那人達が駆けてくるのがみえた。

 「你的媽?」(注:あなたの娘?)と聞いてみたが、この子はもう、生きているのが精々である。それに誰も私とこの子に間近に近づこうとせず、呼びかけようともしないのは不思議であった。日本人から救わるれば、どんなことになるだろう、と考えているらしい周囲の眼に私は言い知れぬ悲しみだけを覚えた。私はこれでよいのだと想いながら上着をつけ、濡れ鼠のように彼らを後にした。だがたった一つの喜びにさっき聴いた小学生達の口ぐちから「東洋人好来西」(注:トンヤンレン、ハオライシー。日本人ありがとう)という数少ない声々であった。私は振りかえりはしなかったけれど、熱いものを瞼に感じた。

 それからである。私が多くの支那の少年や青年の複雑な気持ちなどを言葉として立ち入って聞くことのできるようになったのは。 

続く

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「上海歎異抄」 2

 引き続き、東亜同文書院 大旅行誌 34期生 山内正朋氏のレポートを引用する。

上海は世界の民族文化のごみためである。大陸を蚕食するパイオニヤ達の巨船をつける葉柄・・・・・・・。上海には大ブリテンからアビシニヤまで、世界三十有余の人種達の祖国の文化が、とりわけ異国語と異習と民情と風俗そして悲しきノスタルヂーの歌声が、ごみごみと、交流し発酵して、融然たるニヒリストの落ち着きをみせている。

 新しいものは戦争と貿易の道具だけ、あとは大陸を吸い上げたひるみたいに油だるんだ上海。若いいかなる連想をも伴わない横たわる獣欲の街、上海。

 上海の中に、成熟と飽満の底に沈潜する勢は見えても、いつ上海が若々しいそれこそ人類文化の黎明をほのめかし得たであろう。ああ罪悪と淫奔と無理想の上海。

 だが、私は上海をかく呼ぶ時、この言葉を遮るもの紺青の支那服の群れを余りにも如実に想い浮かべてためらわずにはいられない。

 

 紺青の支那服の群れ。紺青の支那服の群れだけが上海で新しい支那文化を支える勢力の名に値したのではなかったであろうか。

 私はこの紺青の支那服の群れ達が、大挙して租界を横切って通過するとき、支那から国境の外に削り取られた上海が、大陸と明瞭に結びついて支那自体の動脈の中に溶け込まれて行く将来が遠くないのではないかとさえ思ってみた。

 

 排日は革命記念日とか、国恥記念日とか多くの、支那民族の銘記すべき日を並みの高まりとして、嚇怒したり低調になったりした。

 青年と民衆が近き過去の恐怖と忍辱の日を想い浮かべるとき、適々我々が通れば、興奮が群衆の眉をひきつらせ、ふりかえっては唾棄した。残恨をむき出しにした感情の表現はどこの国でも同じだ。

 

 いたいけない石ころ遊びの幼児が小石を我々の足もとに放ることもあった。台湾黎(注:台湾らい)のしゃぶり殻を投げつけられたこと、気まづく体当たりを食らわされたこと、などなどを思えば、排日の中をよく歩いたものだ。

 けれどもそれら浅劣な排日に対しては自らの威信にかけて適当な制圧の手には出てきた。辮子(注:弁子、弁髪。結んだ髪)を赤い紐で結んだ幼児達の反感にあっては、さすがに東洋鬼が豆をぶつけられたような気のひけを覚えて、思わず眼がしらを熱くしたこともあった。だがその他のお先の見えぬ、陰性な排日感情に対しては、さすが国民的嚇怒を禁じえなかった。そこでは青服の支那人共は功利と退廃と冷酷に汚れて、大麻臭い嫌悪の奴隷にしか映らなかった。

 だが私は知っている。ただ感情の犬みたいに吠えたてて、民族愛を一人で背負っているように思いこんでいる無知な民衆というものは、どこの国にも同じ数だけいるものだということを。

 近頃最も感じさせられたことは、この街のニュース映画に、今は一敗地に塗れた蒋介石の演説の姿が久々にみられたときのことである。蒋介石はガウンみたいな黒い長衣を着て、質素なハットを頭に現れると、右手に提げた洋傘をさびしくも左手に持ちかえ、

「中国は今や最後の関頭に立ちました」

と述べ始めた。敗軍の将は古来兵を語らず、敗軍してなお、兵を語らねばならぬ蒋介石の胸中に、人間らしい感情の持主であったら、胸に熱いものを感じたであろう。

 だが私の感慨も、瞬時に痛くも破られた。

「馬鹿たれ・・・・・・・」

と怒鳴る声を私は観衆の中から、世界でも最も下卑た声のように聞いた。この下卑た声に追従するように、世界でその次に下卑た笑い声を、私は凄然と聞いた。この声だ。日本がもつ、日本国民のもつ教養の中に島国のみのもつ腐れ鰯のはらわたみたいに腐臭をはなって、我々の文化に黄色い歯ぐきをみせながら、たえず迷蒙と汚穢を振りおとしているものは。

 民族的興奮の中にくだらなさをひろえば、我々の周囲にこそ輸出超過もしかねまじき、数限りなき反省の種が充満してはいないだろうか。

 東洋の盟主と、やがては自他ともに許すであろう日本!だが日本民族は自らの国民的教養にまず真っ白な歯ブラシをあて、腐臭を洗い落とし、文化におとした中世的暗影は払拭されねばならぬだろう。

 

 とんだ飛沫を飛ばしたことになったが、大国民として東方の国日本が輝かしくも二十世紀の王者として立ち上がる時だ。教養だけが立ち遅れになってはエチオピアの兄弟国××××国民みたいなことになってしまうだろう。

 正しいことを想う人は、無知な人々の口を覆って数多く発言しなければならない。ハイネではないが、打て鳴らせ轟け!最後の馬鹿共が逃げ去るまで!だ。

 話は余談にそれたが、それたと見て引き返しようもない馬鹿馬式叙述は、××××と共に避けられなければならない。そこで話はもとに帰って私が支那の将来を想うにつけ、眼窩に涙と一杯になる・・・・・・・・支那の若い紺青服の青少年達のことに戻ろう。

続く

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「上海歎異抄」 1 

前に書いた記事「テンピンルーと阪義男」←クリックにて、東亜同文書院の大旅行誌に少しふれたが、その史料発掘の際に、印象に残った紀行文をここに引用し、最後にコメントを付したいと思う。

他の大旅行誌が、上海を出発し、中国各地を数カ月かけて旅をしてレポートするものだったのに対し、今回紹介するレポートだけは、上海から一歩も出ずに上海のことに集中して書かれたレポートである。

第34期生 上海班 山内正朋氏(1938年卒業)によって書かれたものだ。なにかの「ために」書かれたものではない。当時の上海をけれんみ無く、素直にそのまま書いている。

以下、何度かに分けて引用する。

「上海歎異抄」

人は銃剣をもって由々しきことの数々をなすことを出来申すべく候

されど人は永久に銃剣の上に座っていることは出来申すまじく候

上海班 山内正朋

Photo_3

(フリックス・オーヴレイ(Felix Auvray)「ダモクレスの剣」19世紀)

 過ぎ去った四年間に私は、今は焼けて廃墟になった書院の窓から上海の空を仰ぎ、上海の街頭がもつうごめきに首を傾けて来た。けれどもこの上海に腰をおろした生活の中からは、すべてが余り身近すぎては、いつも頭にダモクレスの剣を載せている様な不安と困惑のほかに、上海の複雑を極めて、掴みどころのないような風丯(ふうぼう)の中から、まとまった印象でも書きつけてみる気はしなかった。

 

 だが、今は支那を追われて長崎の仮校舎の窓に、上海の空をも真っ赤にして沈むであろう晩秋の夕陽を浴びれば上海の戦火をきく度に、胸の中に黒々と凝って行った上海への郷愁が溶けてうるんで、黄塵を見送るような果てしない心の底を、上海の思い出が波打って蘇る。

 さて、上海は、

・・・・・・・半封建の舊殻(注:きゅうこく)をはねかえそうと苦悶しながら、他方半植民地的重圧に堪えかねて悲しき咆哮を続けるアジア的不遇の国・・・・・・・支那、

がもつ最大の眼である。亡国的幻影にをののき続ける支那の眼はここに見開いている。だが所詮眠れる獅子の眼は内側から開かれたものではなくて、外側から血塗られた銃剣をもって、こぢあけられたものにすぎなかった。言うまでもなく海をもつ程の国々は、その領海には幾つかの重要な眼をもっている。日本も横浜と神戸と少なからぬ眼を国際的環境へと見開いている。それも明治の初めは、アメリカとかイギリスとかフランス、和蘭とかの諸国の銃剣とカヌーン砲によって外から開かれたものであったのだが・・・・・・・。

 けれども日本は外国が靴穿く間に、下駄をつっかけた様な俊敏さをもって、素早く立ち直りかえって列強を見返したものだ。

 だが、眠れる獅子は列強カヌーン砲の前に、立ち直る間もなく骨抜きにされ無銃の豚にまでなりさがった。とにかく支那は立ち直るべく余りにも自家撞着の井底に大海を知らなさすぎた。そのうちにこの広々とした井の底に軍靴がとび込み、無銃の豚は両生類のごとき悲鳴を張り上げて、惨無人道矣(注:い)を怒ったけれども、事ついに及ばず、もがけばもがくほど、列強制圧の蜘蛛の巣に巻き込まれてしまった。

 そして軍靴が後足をもって蹴開いた眼の最も大きなものが上海であったのである。悲しいことか愚かなことか支那が外から開かれた眼に我々は痛ましい「そこひ」(注:目のくもり)をみる。世界の海に眼を持つほどの国々にして、我々はこんな「そこひ」をもった眼をみたことはない。支那だけがもつ「そこひ」、それは租界であった。

 支那を眠れる獅子から、目覚めたる豚にまで頓落させたことを、世界の貿易ブルジョアジー達や帝国主義に罪をきせてしまうことは之は濡れ衣というものだ。支那自体の封建的驕慢(注:きょうまん)の舊衣(注:きゅうい)の中に世界のルネッサンス以来の新しい風潮を馬耳東風に後ろ向きになりわずかに古い呼吸を保っているところへ、周囲の勢力が一嵐し二嵐しカヌーン砲は轟き臼砲は鳴り、重なる嵐の中からついにその骨までも抜き去られてしまったのである。

 そして横暴な軍靴と淫靡な貿易ブルジョアジー達の足跡であり社交場でもあり大陸への資本網の葉柄である上海は、ついに今日のごとき「そこひ」が出来てしまっている。

 時代の夜風が吼えるとき、上海はその「そこひ」の故に、座り込んだ列強文化と、座り込まれた支那文化の暗澹たる摩擦をくりかえす。上海、「そこひ」をもった上海の中に、我々は、現代支那がもつ半植民地的性格の最も集中的な表現をみるとき、余りのみじめさに深々とした溜息を禁じえないのである。

 一寸話をかえよう。唐突ながらピカソというスペインが生んだ最大の画家の作で、「六弦琴」という絵画をご存じだろう。画面にそっけなく楕円形が居座っていて、このくまどられた楕円形の中に六弦琴の秘むるメロデーとリズムとそしてハーモニーとが、それぞれの衝突をもって、今にも捲き起こしてゆくであろうギタールの旋風を彷彿させられる。そこでは、この一見興ざめな抽象的な格好は、線状の衝突による一つの統一ある諧和(注:かいわ)をもって感受され、動的なものが支配している。

 かぎりなき衝突と衝突から、なりたっているピカソの六弦琴。上海のもつ「そこひ」を見つめるとき、私ははしなくもこの六弦琴を想いだして一応爽爽しい気にもなる。

 ピカソの六弦琴。ゆくりなくも、そのピカソを生んだ血と砂のスペインの空を真っ赤にしてゆく革命と反革命の衝突を想えば、はろけくも六弦琴は高鳴り情炎するか。

 そして足もとを見つめるとき、人々は謂う第二のスペイン支那、そして第二のマドリッド上海が、激しい力と力の敵対をもって時代の旋風に向かって訴えている。

 上海は世界の文明圏から野辺国まで、どこの隅にもあろう素材をもって、どす黒い衝突、まことに複雑極まる濃艶な色彩と條線からなりたっている。

 「そこひ」は退廃と淫蕩と無気力の因業の落とした、所詮助からぬ不名誉な残痕にほかならない。この不名誉な残痕に、まことに多彩な、毛色の変わった衝突と衝突の織りなす雰囲気、それこそ世の中に、こんなところがと思われるような特異な性格をもって上海は世界のもの知り達に懐かしい体臭を送っている。

 東洋がもつ最大の体臭の持主たる上海に過ごした四年の生活を想いかえせば、何と多彩なる風習と民情の織りなす環境であったであろう。あるいは、生活と脅威のみじめななれの果ては、貧苦のどん底を街かげから街かげを彷徨する大陸農村の流民達の群れ群れ。流民の見上げる近代高層建築に淫奔と狂歓の裳をひるがえして、好色の波を縫う売女達。そこ知らぬ猟奇と変態と興奮とが悪どい黒紫の花を咲かせる。貧民の群れが街角のごみために食にありついた時、咽喉を鳴らすほか、もうすべての表情を忘れて檻褸(注:かんろう)の精みたいに幾人も幾人も歩いてゆく。

 その街々を今はこの「そこひ」の中に自国よりも、もっと住みよいものと気楽さを感じ、上海に来た外国人といった気持と風体で歩いてゆく支那人達の洪水。その中を異人種達の闊歩。トルコ帽からインドのターバンまでもが通る。

 それから民族と民族、国民と国民、南方人と北方人、それらの動かしてゆく貿易戦、金融戦、そして経済戦、そして時に人が人を凌辱し殺害する流血事件、そしてああ無残な武器をもってたたかう戦い、これらをめぐって報道陣が競い、宣伝戦が上海をかけめぐり、世界の眉に八の字を迫って行く。あたかもD線の怪奇からE線の軽操まで、六弦琴の反響のごとく、ここには呪われたというほかない激しい衝突が繰り返されてきた。だが、一歩立ち止まろう。一歩立ち止まれと言ったのはアリストテレスであった。

 斯く衝突!衝突と捲きあがってゆく力と力の敵対が、つくりなすこの竜巻だけを、見送るがごとく追いまわしてゆくときは、かの遊星の観測の際、誤って溝に落ち「卿の浅学もさることながら、足もともおぼつかなくては・・・・・」と老婆に助けられたターレスのごとく、愛嬌のほか、何も残らぬだろう。ここらで元へ戻って私が四年間上海の風の中を通ってきた具体的な話の最大の関心であったところを以下申し上げたい。それもまず支那の半植民地的性格が集中的に露呈されている上海の、青年や少年や幼い者たちの脳裡にまで足を踏み入れながら・・・・・。

続く

 

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2010年8月15日 (日)

「汪偽特工総部 七十六号」より

馬嘯天、汪曼雲共著の「汪偽特工総部−七十六号」の、鄭蘋如(テンピンルー)について書かれた部分を、上海に留学経験のある当ブログ読者様が翻訳され、訳文をメールで頂いた。掲載しても良いということなので、今回、引用し記事とさせて頂いた。特に沈耕梅の話は、映画「ラスト コーション」の原作、張愛怜著「色 戒」(1949年執筆)と一致する部分もある内容になっている。

張愛怜の夫、胡蘭成は、汪政権の法制局長官であり、汪政権内部の出来ごとについて知りえる立場だった。妻である張愛怜が丁黙邨暗殺未遂事件について聞いていた可能性は高い。「色 戒」における男女の機微は、定説では著者張愛怜の結婚生活における実体験に基づく心の内側を、丁黙邨暗殺未遂事件をモチーフにして表現したもの、ということになっている。しかし、「色 戒」と同じような内容が獄中でも書かれていた、ということである。

テンピンルーが丁黙邨と男女の仲になっていた?、ということは小説「色 戒」や、「汪偽特工総部 76号」で表現されていた段階では問題とされることもなかった。そもそもテンピンルーの存在は知る人ぞ知る、というものだった。

ところが、映画「ラスト コーション」がベネチア映画祭で金獅子賞を取ってからは違った。その内容がセンセーショナルに描かれていたこともあって、ピンルーの唯一の肉親として妹の天如さんが抗議する事態となった。姉はあのような人物ではないと。

妹天如さんには、そう主張する動機があるのは当然だろう。尊敬する姉は奇麗な身でいてほしい。しかし私は、そこを割り引いても、天如さんの主張に分があると認め、「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇 後編」←クリックをまとめた。

獄中書を書いた馬嘯天、汪曼雲の二人はどうだろうか。馬嘯天は、76号の第二所所長、警政部政治警察署署長などを歴任している汪政権幹部である。1951年に漢奸として逮捕され、1957年に中国共産党政権の裁判により反革命罪懲役20年の判決が出ている。

汪曼雲は、ピンルーと同じ上海法政学院を卒業、上海市党部執行委員、汪政権行政院清郷事務局局長などを歴任している。日本の敗戦とともに漢奸罪にて逮捕され、1949年一旦釈放、1954年中国共産党政権に反革命罪にて再度逮捕され、1960年の裁判により無期懲役となっている。

彼ら二人が獄中で過去を書くわけだから、その目的は唯一、少しでも中国共産党に反革命とは見なされないように、ということとなろう。この二人の獄中手記の他の部分が分からないが、汪政権や76号に限らず国民党側を悪く書き、転向をにおわすはずである。これはゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀美の獄中手記を見てもわかる通りで、獄中手記は、事実の中に、反省と転向をほのめかす文章を混在させる傾向を持つ。

下記訳文を読んでいただけばわかるが、沈耕梅の証言部分はこの点からは中立であり、特に政治的バイアスがかかっているようには思えない。しかし、男女の仲のもつれ、とテンピンルーが自供したということになっており、丁黙邨のみならず、テンピンルーをも貶める内容と言えよう。この内容は事件の約一週間後より、丁黙邨のライバル李士群がマスコミにリークし始めた丁黙邨追い落としのための内容と同じ方向性を持つものと言えよう。

私の推測を書くと、「テンピンルーは拘束後、CC団との繋がりを否定するために、個人的な男女の仲のもつれが襲撃の理由だとした。それを76号からの丁黙邨追い落としのために李士群派が利用して大いに書き立てた」、というものだ。あるいは、そもそも李士群派が勝手に作り上げた自供なのかもしれない。

丁黙邨暗殺未遂事件そのものが、李士群による丁黙邨追い落としのための陰謀であると記述している史料は二つだけ存在する。書籍としては、陳舜臣氏の「紅蓮亭の狂女」に収録されている「七十六号の男」が挙げられ、史料としては女流作家の楊瑩(ヤンユィン)さんが行った天如さんへのインタビューがある。前に挙げた記事、「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇 後編」は、この天如さんのインタビューを大いに参考にしている。

一方、林之江の証言の方であるが、こちらも、テンピンルー、そして林之江を貶めるような内容になっている。ピンルーが釈放してほしいがために、林之江にすり寄っている様が表わされている。

この「汪偽特工総部−七十六号」は、1960年代に、中国政府による歴史的資料の収集を目的に獄中にて書かれたもので、原書は上海市労改局档案処に保存されている。許洪新氏が「一个女間諜」で書いているように、あきらかに間違いと思われる個所もあるが、実際に76号にいた幹部の証言である。

沈耕梅はピンルー監禁時の女性尋問担当者、林之江は監禁の責任者にして処刑にも立ち会った人物である。

以下引用する。

一、沈耕梅の証言(「一个女間諜」P175 16行目〜P176 7行目より)

鄭蘋如が拘束された後、李士群は、呉世宝の妻である余愛珍と、女性通訳の沈耕梅を派遣し尋問を行った。鄭は丁黙邨を襲った人物を呼び寄せたのは自分だと認めた。しかし彼女が言うには、

「これはただ単に男女間の問題です。丁は私と関係が生じた後、また別の女を作り、私を捨てました。私はある程度よい教育を受けているけれど、自分の行いを悔いることはしません、彼の欺きによって侮辱されて、おもちゃのようにみられ、今のように自分を失ったようになったことは、私が望んだ事ではありません。これが原因で、私は人を雇い、彼を襲わせ、彼に知らしめようとしました。女性を甘く見てはいけないと。

しかし、女は結局は使えないのです。私と丁黙邨はいずれにせよ関係があった仲。これにより生死をかけた最も大切な時に、私の心は揺らいでしまいました。私は彼と一緒に店を出ることができませんでした。私が雇った刺客たちはこのために丁黙邨を確実に認識することができませんでした」

鄭と彼女の雇った刺客たちとは、事前に以下のような取り決めをしていた。シベリヤ毛皮店を出るときに事を起こすこと。丁と鄭が一緒に外に出るときに、鄭は丁の左側を歩くこと。その時、鄭の側の人物が丁黙邨であり、彼を襲う。これは丁が急に別の人を鄭に付き添わせ、別人を襲ってしまう事を恐れたためだった、ということだった。

「このように私が躊躇したため、彼は逃げおおせ、命を取り留めました」

その言動には、まだ怒りがこもっていた。

また、鄭と中統(注:CC団)とのかかわりについては、彼女は即座に否定した。これらの内容はすべて、沈耕梅が汪曼雲に語ったものである。

二、林之江の証言(「一个女間諜」P177  3行目〜P178

林之江は殺人を楽しんでいた。76号の幹部の中ではそれが突出していた一人である。当時76号で捕えられ、殺害された人たちの、十中八九は林之江自身によって殺害された。鄭蘋如はすでに林の家に監禁されており、鄭の死も林の手によって執行されることは避けられない事であった。しかし、彼はその執行を下す際には、彼のボディーガードに代行させた。これについて、後に林は自分で語っている。

「鄭蘋如が37号にいた時、鄭が私に語った事を覚えている。彼女はこう言っていた。

「丁黙邨を愛した自分はどうかしていた。今、林之江と出会って確信した。あなたは“将来有望な素晴らしい男”である」

と。彼女の心は私に吸い寄せられていた。私さえ彼女を愛する事が出来れば、私に嫁ぐ事も望むと。

また、

私に出会ってからは、彼女は世界中の男を誰も愛せない、たとえ私が、彼女を愛していないとしても、彼女は私を愛していると言う。私が彼女といつまでも一緒にいたいと望むなら、彼女は天地の果てまで私についてくると言う。

彼女はまた、私に問いかけてくる。

「之江、あなたは私をどう思うの?」

と。

私は答えた。

「何がどう思うだ。残念ながら私は防弾の施された車を持っていないから、ダメだね」

林之江がまた語る事には、

「いつも鄭蘋如は私と話をしたいと、人に私を呼びにやらせていた。私は彼女のこのような演技を恐れていました。彼女を“執行”する時が来た時、私は執行の事を事前に彼女に知られないようにしようと思いました。そこで私は果物やケーキを買い、一緒に遊びに行こうと彼女をだましました。彼女はそれを信じ、すぐにおしゃれをして、頭には赤い造花をつけたりと、彼女の姿は非常に妖艶な感じでした。車が麦根路、中山北路の小さな林が集まる76号の処刑場に至った時、鄭は車が自分の最後の場所に至った事を知りました。しかし彼女は自らを冷静につとめさせ、私に言いました。

「こういう事だったのですね、たくさんの物を買う必要はなかったではないですか。でも、私は自分が愛した人の手で死ぬ事が出来ます。だから私は嬉しいです。之江、あなたが私を殺して!でも、私の心臓を打って、私の顔は打たないで。

自分の顔を傷つけてしまっては、醜いでしょ? 之江、私のようなきれいな女が、このようにあなたを愛しているのに、あなたはそれを手放すのですか?もしあなたが耐えられないなら、もし私を愛しているのだったら、時間はまだあるわ。一緒に遠くへ逃げましょう、私たちの新天地へ」

林之江は、

「自分は強い人間だと自信があったが、この時は心が揺らいだ。私はボディーガードの王金発に鄭の後ろから銃を撃たせ、殺させるしかなかった」

この時、彼が彼女の顔を打ったのか、残念ながら林之江から話はなかった。

(共に 馬嘯天、汪曼雲「汪偽特工総部−七十六号」より)

引用終わり

以上

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2010年8月 8日 (日)

テンピンルーとスパイゾルゲ

スパイゾルゲをご存知だろうか。歴史上、最も成功したとも言われるソ連側の対日スパイである。西木氏の「夢顔さんによろしく」には、鄭蘋如(テンピンルー)もゾルゲも出てくるのだが、二人に接点は無かった。

ところが、接点があったのかもしれない、と思わせる本がある。永松浅造の「ゾルゲ事件」がそれである。1956年に書かれた本だ。著者は1930年より毎日新聞記者をし、戦後著述業となった人だ。ピンルーについて日本語で書かれた本としては、最初が1941年の松崎啓次著「上海人文記」、二番目が1951年の晴氣胤慶著「謀略の上海」なので、三つ目の本である。

この絶版本は、国会図書館でもコピーが禁止されている。劣化して崩壊寸前の状態で一冊だけ保管されているのだ。私は二年前の夏、この本を借り、閲覧室で、ある部分をノートパソコンに入力した。

以下引用する。

日本におけるゾルゲ一派の重要な一人にドイツ人クラウゼンがおり、彼の妻はアンナといった。ある日、クラウゼンはアンナにある仕事を頼んだ。機密情報を上海の国際共産主義集団コミンテルン極東本部に届けることだ。

ゾルゲが東京のドイツ大使館より収集した独ソ不可侵条約に関する情報と、尾崎秀実が満鉄嘱託社員として集めたノモンハン事件での日本軍の敗退の様子や現存武力などの情報をマイクロフィルム化したものを、アンナは下着の裏側にあつらえたポケットに忍ばせて長崎から上海に渡った。

四馬路から少し入った路地にあるコミンテルン極東本部に着くと陳という中国人男性が待っており、指揮官を紹介された。彼はフィルムと引き換えに5000米ドルもの大金をアンナに渡した。彼女はこの現金を香港上海銀行で銀行手形に換え、1000ドルはアンナとクラウゼンのものとして、残り4000ドルは日本でのゾルゲ一派の活動資金として渡すことになっていた。

アンナは陳より、そのころ巷間をにぎわせていた若きコミンテルン女性活動家の話を聞いた。彼女の名前は汪清香(ワン・チンシャン)、本名を鄭蘋茹(注:原文のまま テンピンルー)といった。彼女の父は鄭鉞という上海高等法院主席検察官で、東京の大学に留学中、文京区本郷元町の下宿屋の娘と知り合い、結婚して上海に住むことになった。夫婦は親日的な人物として見られていた。

陳の話によると蘋茹は今、日本人租界の虹口に隠れ住んでいるらしい。ある事件を起こしたため、日本軍の特務組織「ジェスフィールド76号」の工作員に命を狙われているそうなのだ。彼女は色仕掛けで日本軍の将校二人を手中にし、隠れ家を与えられていたのだ。

その事件とはこうだ。丁黙邨という76号の団長がやはり蘋茹の色仕掛けにあって76号の施設内で同棲していた。ある日南京路のデパートで金の腕輪をねだり買ってもらった。デパートを出ると丁黙邨がどこからか狙撃された。丁はなんとか76号に戻り、中国服から背広に着替えようとしたとき、胸ボタンに紙切れがはさんであった。そこには「汝の主は南京路において射殺されたり。汝嘆くなかれ」と書いてあり、見覚えのある蘋茹の字だった。そこでやっと丁は蘋茹の仕業だと悟った。丁は蘋茹に対する怒りで八つ裂きにしてガーデンブリッジにさらし首にでもすると息巻いた。蘋茹は暗殺が失敗に終り虹口に逃げこんだ。蘋茹の素性を知らない日本軍将校のSとHがひっかかってかくまってやることになった、という陳の話だった。

キャセイホテルに泊まったアンナは、虹口のロシア人女性の知人を訪ねた。新亜飯店(新アジアホテル)の前に差し掛かったとき、美人の女性が通りかかった。とそのとき彼女に3人の男性が襲い掛かった。蘋茹だった。蘋茹は忍ばせていたピストルを発射しながら目と鼻のさきにある日本軍憲兵隊の建物に逃げ込んだ。ところが、男達はその建物の中にまで入ってくるではないか。彼らそのものが憲兵隊だったのだ。

アンナはピンルーがコミンテルンのことを自白したらゾルゲ一派にまで累が及ぶと考え、本部に急いで引き返し、報告した。本部はイギリス租界の四馬路からフランス疎開の目立たない路地裏に引越しをした。

手錠をかけられた蘋茹は憲兵隊から76号に引き渡された。コミンテルン本部は蘋茹の奪還に動いた。派遣されたのは陳だった。76号では査問担当者が蘋茹の背後関係を洗っていたが、蘋茹からはたいした情報は得ることはできなかった。結局、査問主任は、蘋茹が丁黙邨の浮気に対する個人的な復讐心から起こした事件だと、76号のナンバー2であった李士群に報告した。李は76号のナンバー1だった丁を追い落とすためには、むしろ女性問題で丁がへまをしたという査問主任からの報告は好都合だった。

上海の新聞各紙は痴情による復讐事件として見出しを掲げた。これに怒ったのは丁黙邨だった。日本軍に抗議し、死刑にすることを要求した。日本軍は蘋茹本人が日中のハーフであり父母が親日派でもあることから死刑にはしづらいところだった。しかし、丁の隠然たる力を知っていたため、丁の意見を無視するわけにはいかなかった。

東京に帰ったアンナはこの事件のことをゾルゲに報告した。ゾルゲは世論の力で死刑から救おうと考えた。日本の文化人や著名人の署名付きで近衛首相や上海駐留日本陸軍首脳、汪兆銘らに手紙を出させる話をつけた。また、尾崎秀実らも知り合いの新聞記者のツテを利用して上海の新聞各紙に釈放が当然であるとの偽名の投書を掲載させる話をつけた。

しかし丁の怒りは全く収まらず、76号内の反李士群一派と共に、76号をやめると辞表を提出した。これにはたまらず日本軍と汪兆銘は、李士群に蘋茹の死刑を暗示させる指示を出した。

コミンテルン極東本部は死刑の情報を得たため、最後の奪還に動いた。蘋茹が刑場に送られる途中で奪還するのだ。10月20日午前9時。李士群の片腕、呉志宝が蘋茹に虹口に行くと誘った。蘋茹は母の差し入れてくれた新しい洋服を着て、化粧をしてクルマに乗り込んだ。クルマには呉志宝と運転手、蘋茹、ほかに団員2名が乗った。

コミンテルン本部は刑場へのルート上で待ち伏せをしていたが、意に反して虹口方面に行ってしまったため、奪還は失敗に終わった。蘋茹はクルマが虹口を過ぎたあたりから、感づき始め、クルマのなかで引き返すようにどなりちらし始めた。しまいには運転手の首筋に噛み付いたりした。刑場に着くと呉が蘋茹を引っ張りだした。すると蘋茹は走って逃げようとした。すかさず呉の拳銃が火を噴いた。一発の銃弾が後頭部に命中し蘋茹は息絶えた。

引用終わり

さて、事件後の丁黙邨のポケットの中に、「汝、嘆くなかれ」とピンルーの字で書いたメモが入っているという、あり得ない設定がされているあたり、晴氣本「謀略の上海」を参照して書いたことは明らかだ。

しかし、永松の本にはオリジナルな記述が多い。ピンルーの母親が文京区の下宿屋の娘であったという記述がある。木村はなが牛込区の林館という下宿屋の手伝いをしていたことは、2008年放送の読売テレビによる番組調査で判明した。しかし、このことは、永松の本より先に出版された史料には中国語文献も含め全く見あたらないことから、著者永松浅造の独自の取材情報と思われる。

また、ピンルーが国際共産組織コミンテルンの女性活動家となっているところも独特な部分だ。彼女が中国共産党とも関係を築いていたことは確かに事実だ。それは、ピンルーが日中間の通訳を務めた偉達飯店での会合での出席メンバーに、共産党関係者も出席していることから明らかだ。しかし、若きコミンテルン活動家、という表現となると、そこまではどうかと思う。

私が最も興味を引いたのは、

「尾崎秀実(おざきほつみ)らも知り合いの新聞記者のツテを利用して上海の新聞各紙に釈放(注:テンピンルーの)が当然であるとの偽名の投書を掲載させる話をつけた」


という部分だ。

朝日新聞の記者だった尾崎秀実は、1928年、朝日新聞大阪本社から上海支局へ転勤となる。もともと台湾生まれの彼は、子供の頃から支配者側の日本人と地元台湾人の間の問題に興味を持っていた。上海では、欧米列強および日本軍閥の動きと、地元上海市民の多くの貧困を間近に見ることとなった。彼はやがて、共産主義しか、この支配・被支配の問題を解決できないのでは、との結論に達していったようだ。彼はこの上海で、アメリカ人女性ジャーナリストにして共産党員、アグネススメドレーの紹介で、ゾルゲと出会った。

(一口メモ  アグネススメドレーの住んでいた、そして恐らく尾崎秀実がスメドレーの紹介でゾルゲと会ったマンション「重慶公寓」と、ピンルーの住んでいた万宜坊は、たまたま同じ街区である。スメドレーが住んでいたのは1929年から1931年。ピンルー一家が万宜坊に引っ越してきたのが1931年初頭なので、少しの間、ご近所さんであったようだ。下図参照)

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Photo_2

(重慶公寓内部階段)

尾崎秀実は、1937年6月近衛文麿内閣が成立すると、首相秘書官牛場友彦の推薦を受けて、朝日新聞社を退職、内閣嘱託となった。以後、彼は近衛文麿の中国政策に関して有力なブレーンとなった。と、同時にスパイゾルゲの最も有力な情報源ともなったのである。彼は諜報と同時に日本の政策に関与する立場となった。

当ブログの前の記事で、スパイにも二種類あると書いた。情報を流すだけのスパイ。情報を利用して政治を動かすスパイ。ゾルゲと尾崎は典型的な後者だ。日本の対ソ参戦を避け、南方の資源を狙うような政策決定に間接的に荷担している。尾崎の台湾時代の地元民差別経験が彼を共産主義に傾けさせた原体験だとしたら、ゾルゲにとっては、自らの第一次世界大戦への歩兵としての参戦によって戦争の無意味さを知ったことがそれとなろう。

彼らは共産革命によって、帝国主義列強が必然的に起こすという市場争奪のための侵略戦争を終結させ、民族間の諸問題を解決する「ユートピア」を思い描いていた。このように、彼ら二人が単なる情報収集のスパイではなく、国を動かそうという意図を持ったスパイであったことは、ゾルゲ自身の書いた「獄中手記」、尾崎自身の書いた「上申書」にもかいま見れるが、むしろチャルマーズジョンソン著「尾崎・ゾルゲ事件」(1966年弘文堂)を読むと顕著である(原著は"An Instance of Treason; Ozaki Hotsumi and the Sorge Spy Ring" Stanford University Press 1964  )。

そのゾルゲ、尾崎秀実が、テンピンルーの釈放に力を貸していた・・・・・・?

どうだろう。

私は、尾崎の得ていた情報の中に、上海の日本軍部に入り込んでいたテンピンルーからの情報が入っていた可能性はあると思っている。尾崎秀実は、丁黙邨の口から「テンピンルーとは密友の仲」(漢奸裁判での丁黙邨の答弁より)とまで言われた日本軍特務勤務の反戦和平派、花野吉平とも親しく交際していた。なにせ、花野が1937年に派遣された上海の「中支派遣軍特務部思想班」は、尾崎秀実の進言により設置された部署なのである。そこの初代の部員が花野吉平だ。早い話、尾崎秀実が、上海での軍部情報を仕入れるために花野吉平を特務部に送り込んだようなものである。私は、ピンルーの得た日本軍部情報の一部は、花野経由で尾崎秀実へ、そしてピンルーや花野の全くあずかり知らぬところでゾルゲへと流れていたとみている。

そう考えると、ゾルゲは巡り巡ってピンルーから便益を享受していたわけで、自分の名を秘匿してピンルーの助命嘆願をすることは、決して荒唐無稽のことではなかろう。

上海のゾルゲ一派と日本のゾルゲ一派の間には無線連絡以外に、伝書使が行き来していたのも事実だ。

上に引用した永松の文章の中に、ゾルゲ一派の無線技師、マックスクラウゼンの妻、アンナが下着に隠してマイクロフィルムを長崎出港の船で上海に持ち込む記述があった。映画のようなシーンであるが、ゾルゲ自身によって書かれた「獄中手記」(1962年みすず書房出版)によるとこう書いてある。

以下引用

かくして、私はクラウゼン、クラウゼン夫人、ギュンター・シュタイン、そして彼女の女友達といった数名の者を、伝書使として使うことができた。1937年の初めから1938年の夏にかけて、私はこの連中を代わる代わる上海へ派遣して書類を運ばせた。

中略

私は上海へ伝書使を送るのをやめたが、それが1939年のことだったか、1940年のことだったかは覚えていない。1939年にクラウゼン夫人かクラウゼン自身を一度くらい上海に派遣したことがあったかもしれない。ともかく日本へ帰還する際の取り締まりがひどく厳重になって、上海との伝書使連絡は次第に難しくなった。

中略

技術的な面について述べると、われわれが伝書使を通じてモスクワへ送った資料は、ライカもしくは同種の写真機で撮ったおびただしいフィルムであった。フィルムは固く巻いて、できるだけ小さくした。3ヶ月ないし4ヶ月という長い期間何も送らないでいると、25巻ないし30巻のフィルムが溜まるのであった。

中略

モスクワからの伝書使がもたらしたものは主に金で、文書に認めた指令はたまにしか受け取らなかった。

引用終わり

また、チャルマーズジョンソンの著書にはこう書いてある。

「東京からの伝書使は、洋服の内側に35ミリフィルムを固く巻いて携行した。このフィルムには、ゾルゲからの報告や諜報グループが集めた文書資料が写されていた。写真は、ライカあるいは同種のカメラで撮影され、ブーケリッチが自分の暗所で後の作業を進めた。ゾルゲもブーケリッチも腕利きのアマチュア写真家であった。

モスクワからの伝書使は、ふつうゾルゲ諜報グループには知られていない職員があたった。ときには無線通信の濫用を避けるため、その人物が次の連絡についての詳細な打ち合わせも行った。モスクワからの伝書使はたいてい莫大な資金をゾルゲの使いに渡した。米ドルで5000ドルが普通である。

中略

この金ははじめクラウゼンの会社の名義で上海のアメリカの銀行に預けられ、のちに三井、三菱、横浜正金あるいは、香港上海銀行に移された」

引用終わり

と、こうなると、永松の書いている、「アンナがマイクロフィルムを下着に隠して渡航し」、「5000米ドルを受け取った」という記述の信憑性は上がってくる。この永松の著書は、ピンルーの事件・行動については晴氣本からの引用と、飛躍した想像話が多い。それは、新聞記者を退職し、著述業となった永松のペンが走った部分だろう。そこは必ず割り引かないといけない。しかし、それ以外の部分で、彼のオリジナルな情報がとても気になるのである。

私が京都府にある国会図書館関西館に、上海の当時の新聞を閲覧しに行った(参照 「暗殺未遂事件の記事より」←クリック) 第一の目的は、永松の次の記述の解明に他ならない。

「尾崎秀実(おざきほつみ)らも知り合いの新聞記者のツテを利用して上海の新聞各紙に(テンピンルーの)釈放が当然であるとの偽名の投書を掲載させる話をつけた」・・・

これはやはり調べねばならないだろう。尾崎秀実の働きかけで、ピンルー釈放のための投書が、上海発行の新聞で実際に行われたのか?これが裏付けられれば、ピンルーが行ってきた諜報活動の意味に大きな変動をもたらす。

実は、彼女の釈放への動きは様々にあったかもしれないことがうかがえる文章がある。松崎啓次の「上海人文記」だ。

以下引用

大澤さんは、彼女と彼女の恋人を、維新政府の人に手渡さざるを得ないことを説明してやってくれと言う。もちろん、大澤さんは、あの人の出来る限りの力を尽くして、彼女のために助命運動をして下さるだろうが、一旦政府の手に渡れば、彼女の運命はもう決定的だ。

引用終わり

大澤とは、特務部報道担当者である。松崎によると、事件後大澤は、ピンルーをかくまっていた。大澤がピンルーの釈放のために何らかの動きをしていた可能性があるが、残念ながらその痕跡は皆無である。

私は、他にも、例えば鄭家に出入りし、弟南陽とは囲碁を打つ仲だった岡崎嘉平太(当時、上海の華興商業銀行理事。戦後全日空社長、日中覚書貿易を主導)あたりも、助命の動きをしていたのではないかと踏んでいる。

私が京都に行った結果は、以前のブログ記事に書いたとおりで、残念ながらそのような投書は発見できなかった。ただ、調査対象は、国会図書館関西館に保存されている上海発行の限られた新聞史料であった。もしかしたら、他の新聞には載っているのかもしれない。かくして、この部分は当面のなぞとして残った。

テンピンルーとゾルゲを結ぶリングの存在は不明。今後は中国側における調査に期待するしかないかもしれない。


尾崎秀実による鄭蘋如の助命活動についてはこちらに関連記事を書いています。→クリック「上海より 8」  

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