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2010年8月29日 (日)

「上海歎異抄」 5

引き続き、東亜同文書院 34期生 山内正朋氏のレポートを引用する。

以下引用

 革命記念日とか国恥記念日における隊伍が上海を暴風のように通った日の思い出はとても私には苦痛で書けない。彼らの旗は私の国を倒す標識をかかげ、彼らの罵詈(ばり)は私の祖国の一切に唾棄しつづけることであったから。だが、これら抗日を直接の目標にしない彼らの行進なら、私は古き支那を彼等の捲き起こす塵煙に葬列のように送りこみ、新しき支那を迎えるメロディーを口一杯にしながら私のたたずむ前を通過した幾度かの行進を見送った。その中で記憶に深いものは何と言っても魯迅の葬列に続いた君等の埃にまみれた行進であろう。

 それも昨年十月も遅い二十二日の落葉の多い昼過ぎであった。寮舎の二階の窓から哀調に充ちた葬送曲を先頭に、「嗚呼魯迅先生」の弔旗を幾本となくうち立てて、あるいは弔意を表した悲しみの数句を誌した布地の両端を、高々とささえながら、あるいはゴーリキーに似た魯迅の肖像画が数名の者たちに支えられて、アカシヤの上海郊外の並木道を悲しみの騒音が十数町、あとからあとから続いて行くのをみた。

 名士もいた。労働者も歩いた。そして私は次の支那を背負う青年達や少年達の咽喉も枯れ枯れに、魯迅の死を悲しみ、自国の前途に暗いものの広がりを見つめつつ歩くのを見た。

 大学生らしい腕章をつけた青年達が列の途切れ途切れを忙しく、魯迅を弔う哀詞の伝単を道路につくった人垣へ向かって配布して回っていた。

 寮舎からはすぐ下の墓地への路だったので、私共は、草履をばたつかせながら徐家匯墓地手前の道路にもやもやと立つ埃に立った。秋の日は落ちやすい。並木道の両側に吹き付けられたアカシヤの葉色が弱々しい光を受けて寒々と風に動くのを気づくころには、十一月頃の夕月のあらわれたる五時半か六時頃であったろう。

 涙をもって支那の将来を予言し、訴えていた魯迅、その魯迅を失った支那人達の隊伍の中に、頭髪もまつげも埃で真っ白になりながら小学生達の、疲れを大地にふみつけて今は無心に歩く姿のなんと痛々しいものであったか。

 

 それから、今年に入るとプーシキン記念祭、それから梅雨のない上海の明るい六月の空の下をゴーリキー一年祭、それに続く支那国防音楽の開拓者であったという若く死んだ作曲家轟耳(注:じえい。義勇軍行進曲の作曲家)の盛大なる記念祭・・・・・・・・・紺青の支那服の若者達の群衆が激しい時代の圧迫に、憑かれたように熱狂している動きは私の印象から鮮やかに浮かびあがってくる。

 だが呪われたものは支那民衆達であり、支那の時代の苦悩を一身に負わんとした紺青服の若者達である。

 それもこれも1937年秋から冬にかけて捲き起った兵変のために人も馬も家屋も、すべて鬼哭啾啾、黒々と残骸をとどめた北四川路より閘北一帯の廃墟は、ボンペイを掘り起こしたごとき惨状であると言う。

 国滅びて山河あり。支那四億の民衆の名において、祖国の防衛に投じた若者達。彼等は亡国の運命からの解放のために、あらゆる努力を払っただろう。愛国心は燃え上がり、日本が日露役に示したごとき挙国的開戦を思わせられた。彼等の民族的闘争心の斯くのごとき激しさを我々はいまだかつて見なかった。

 だが、開戦!それは支那をして益々滅亡を早しめるもの以外の何物でもなかった。

続く

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