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2010年8月29日 (日)

「上海歎異抄」 4

引き続き、東亜同文書院 34期生 山内正朋氏のレポート「上海歎異抄」を引用する。

以下引用

 楊柳がうち煙って上海一帯の自然が春めくころ、アカシヤの並木道に柳綿が飛んで野鳩の飛ぶ頃、避暑休暇を前に小麦の穂が出て、そらまめが咲く六月の蝉なく頃、一夏を故国にすごしてやがて清透の九月の空を軽い雲が飛ぶ頃には画の月が中秋節を待たせる。秋から冬へ、街頭に霧の深い日が多くなると南方橘子(注:きつし、オレンジ)の露店がならび、夜ごとワンタン屋の竹筒が寒風に響く。

Photo_2

(現在の徐家匯天主堂)

 春であれ夏であれ、そして秋であれ冬であれ、漂然としてポケットに手を突っ込めば足は徐家匯(ジョカワイ)一帯の散歩道に出る。日曜のよく晴れた朝には街筋一帯に市場のひらいた徐家匯。古い古い歴史を二柱の尖塔に誇る天主堂をめぐる徐家匯の街。それよりもっともっと面白いことは、ここは支那がもつ「そこひ」租界、それもフランス租界と支那領土の境界を大通りの中央線に沿って、東側の街並みが洋式のコンクリート造りに支那風の装備をこらした一筋、それに対して西側がこれは、なんと、みすぼらしい煤けて低く軒並みを連ねた一筋。この街を歩けば、外から強いられる半植民地的性格、内から抜け難き半封建的性格の悲しき対照が余りにも明瞭な姿をもって、見せつけられる。

  徐家匯歩けば、さりとて親しき老朋友の姿が少なくない。一文不知の口数だけ多い茶館の兄貴から街路に古物少々ならべて千年一日悠揚迫らぬ山東出の親爺、それでも時に副業の煙草巻きをやっていたがよほど、食うためには考えねばならぬらしい。それから洋式の握手をもとめては得意の官服の胸をそらす巡補君。十文饅頭屋の白前掛けの大将、それから街のインテリ八卦見の風水先生、などなど因縁浅からぬ老朋友達があった。天主堂裏から徐家匯一帯の顔役連中、いかにも両袖清風の素寒貧らしかったが、それだけに話すことすること、時代のどんな嵐にも鼻くそをほじくるだけの無表情な・・・・・表面だけでも太平無事な没法師振りには好感と同情に一杯になった。

 この秋の兵変に閘北(ザベイ)から浦東(プトン)へかけて街々が砲煙を吐いたとき、フランス租界の西側の線に沿う徐家匯一帯の街の顔役達も、首を縮めて多くもない家財を纏めては数えてみたことであろう。

 だが私にとって、これらのかそけき小市民達のことはさてをいて、想うごとに凄荘の気にひたらせられるものは、自国の明日の空を心にかけながら、顔を真っ赤にして語った少年達のこと

・・・・・自分達が一人前になるころには支那は、昔世界文化の中心であったように再び世界の中心になるのだ、それにはまず石をかじってでも外敵に抗して、自国の一人ひとりが常に強くなり、偉くなるように心がけねばならぬのだ・・・・・

と語った少年達のこと。蒋介石への信頼に胸をふくらませながら、日本が日露戦争においてかつて国を賭して外敵と戦い抜いた勇気を語り、一方自国の軍閥割拠の不統一を嘆いた中学生達のこと。国事は語るまいと前提しながら、自国の近代的軍備、ことに空軍三ヶ年計画の完成と共に飛行機一千機に至るときの間近いことを語った大学生達、彼らにあるとき平安朝時代の絹一匹の値段などを聞かれたときは、私も狼狽を禁じえなかったが。・・・・・・・・・これら明日の支那を背負わんと生い育っていた若き紺青の支那服の若者たちのことである。

 最近支那が世界にゴーリキーの名をもって誇った魯迅の雑憶を読めば自国へ振り向けられた嘆息が述べてある。

 「中国人が蓄めている怨恨はもう溢れるほどだ。もちろん強者の蹂躙がかくさせたのだ」

この外に向かっての怒気は真直ぐ自国への直截な皮肉となってこうつぶやかれている。

「だが彼等俺達の国の支配者達は、強者に向かって反抗しないでかえって弱者に対して発洩(注:はつえい。向かって漏れる)。兵と匪とは相争わずして無銃の人民が兵匪の苦しみを受ける。これは最も手近な証拠である。さらに露骨に言えば、こういう輩の卑怯を証明することが出来るとも言えよう。かくて支那の若者達にとって敵を内に外に、魯迅と共に、悩みは日本のインテリどころのものではなかったのである。魯迅の文句は次のように結ばれている。

 「卑怯者はたとえ万丈の噴火をもっていても弱草以外の何が焼きつくせるだろうか」

と。自国人が自国人を弱草のように踏みつけるほか知らなかった支那は、今眼前を亡者のように滅んで行くのだ。たとえ蒋介石が万丈の噴火をもっていたにしても。

 私は思う、彼の少年達や青年達が自国の敗退を眼前に涙を拭い、中学生も大学生達も、書物を地に放り、銃をとって閘北のたたかいに、江南の行軍に唇に血を噛みながら、たたかったであろうことを。

 日々伝えられる戦線ニュースにも死体の中に捕虜の中に、年若い少年達や青年達の姿を時折みうけられる。また今は戦線にある従軍の朋友達の戦線だよりにも、たびたびこの知らせを受け取った。

 何としたことであろうと言うのだ。

 この日のためにのみ彼等は、弱草の上にだけのしかかる制圧を跳ね返して、たたかって来たのではなかったか。時既に悔いて及ばず、亡国の恨をのんで戦場の夜半明日知れぬ生命をチェッコ銃と共に抱いて、一家離散の父母を想い、弟妹を想い、そして自国の復興途上に中折して、暗転する姿を見送るとき、恐らく嗚咽を中絶して土凍る塹壕に突っ伏したであろう。近日戦線から帰った某君の話はこの銃を抱いて惨死した死体の形相がいかに、唇を噛みきった無念の形相であったかを伝えている。

 この日のためにのみ、たたかった戦いの終末は、風悲十里の広野に、血を噛み土に傷つき仆れた支那の若者達。

 私は彼等の上に、彼等の死体に想いを寄せるとき、ゆくりなくも想い出すのは、彼等が上海の街頭から街頭へ隊伍を組んで明日の支那をたたかい取ろうとした・・・・・彼の日・・・・・彼等は自国の未開に憤怒しながら、いかに明日への希望に胸をはって歩いたことか。

続く

 

 

 

 

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コメント

匿名希望様

当時の日本の正義は「支那を更生させること、そのために労を惜しまない、共に西欧列強の支配から脱却しよう」、ということだったのかと感じます。

しかし、そのやり方はあまりに稚拙で望まれないものであった。その正義は傲慢の極みとなった。「支那を更生させる」手段は支那人を殺戮、蹂躙することとなった。正義を語る日本人に指導されることは、支配されることだった。


現在の中国の統治、特に漢民族以外に向けた統治に関しては問題をかかえているのは同意です。が、正直言うと、地面に国境線をもたない日本人には理解不能のような気もします。

また、以前youtube上で、チベット問題をアメリカ留学中の中国人達と議論しましたが、現在の中国共産党の政策を支持する学生さんが多数派でした。ほとんどが現政権の「正義」を信じています。ごく少数、疑問を呈する方もおりましたが、当局の監視下におかれている様子で、中国にいる家族も悲惨な目にあっていました。

近い将来、西太平洋を勇躍する空母を保有する中国。先日年配のお客様と飲んでいたら、「中国に復讐されることを確信している」、と熱く語っていました。その可能性はゼロじゃない。しかしそうならないように私に何ができるか、行動したいと思っています。

投稿: bikoran | 2010年9月 4日 (土) 11時54分

大変興味深く読ませていただきました。
この当時の日本人が持っていた、「中国への想い」
これは本当に複雑なものがあって、それを知る上で、貴重な史料であると思います。

当時の日本人が、日中戦争を事変だとした理由は、『侵略』だと気付く事を、恐れる心理が働いていたように思えます。
(他に、第三国からの輸入制限がかかる、という現実的な理由もあったそうですが)
日本の戦いは「東亜新秩序」の実現であり、列強の中国分割とは違う。
そう思う為には、なんとしても中国国民の味方だ、という立場を固辞する必要がありますから。

でも当時私が生きていれば、戦争を支持して
いたかもしれません。正義は、いつの時代でも抗う事が難しいものです。彼のように深い知識と中国への愛情を持つ者が、何故戦争を支持したのか。
それを考えなければ、あの戦争の原因は掴めないのではないでしょうか。

・・・今の中国は、本当にあの支那少年が熱望した中国なのでしょうか?言論封殺やチベット問題。弱者の犠牲の上に膨張する今の中国をみていると、あの時の日本が中国に入れ替わってしまっただけなのではないか?
という不安があります。
もし彼らが、日本に対し牙を向いたとき
私たちは、あの時の中国人の様に、勇敢に戦う事ができるのでしょうか?

投稿: 匿名希望 | 2010年9月 3日 (金) 05時44分

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