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2010年8月29日 (日)

「上海歎異抄」 6 (最終回)

引き続き、東亜同文書院 34期生、山内正朋氏のレポートを引用し、最後にブログ管理人のコメントを付す。

以下引用

 両国の開戦は日本の泣いて振るう斬馬の剣である半面、支那自身の深く日本のもつ歴史と精神の認識を欠いたところに、恐るべき不幸は胚胎した。日本の敵は支那民衆にあらざることを日本当局は繰り返し声明した。日本はまた支那自体をも敵とするものではなかった。むしろ敵とされたところに、よんどころないものが国民に銃剣を握らせた。これは日本がセシルローズ的「ひろがり」を求めたわけでもなく、ジンキスカンの二の舞を繰り返すことでもない。だが問題は日本が支那民衆の敵の名をもって呼ばれねばならなかったところにあろう。

 ひとしく日本の教えるところは、いわゆる「東洋平和」でもなければ、いわゆる「東洋の安定力」ということでもなかった。

 現下の東洋において、まだ平和の説かれるべきものでもなければ世紀前的現状の、時代への癒着を安定と呼ぶべきでもない。

 日本国民の望むところは、東方の被圧迫民族を安定化することでもなく、ここに偽装平和を維持することでもなく、またもちろん、日本自らが西欧的帝国にとって代わって血の鞭を振るうということでもない。

 日本は何を為し来たり、何を為すか。戦争か平和か。殺戮か人道か。

 幸いなことには日本は自らの将来を自らの力によって、意思によって聡明さによって決定することが出来る。日本は自由である。日本それ自らが自由人である。

 支那に四億の人口があり、そしてこれら四億の民だ。国亡び、自由と平和は失われ、不安と屈従と圧迫のうちにさまよい、そしてまたそれゆえに独立と自由と解放とをもとめているのは。そして仆れて祖国の山河に憤死する民族、しかも蒋介石はなお「一滴の血、一寸の土地が存する限り戦う」ことを、自国の民衆に呼び掛けてやまない。

 我々はこの現実に直面する。この現実が日本の使命を決定する。日本は自らの使命を世界史的な使命にまで自己昂揚し、そして日本の為の王道でなく、ひろく被圧迫民族の独立と解放と自由のために、王道を説く将来が我々の明日の戸口に立っているのではないか。

 

 私はもう一度、上海の土地を踏み、上海の街角から街角を彷徨してみたい。

  

 もはやかつての上海ではあるまい。変わらぬものはかえって上海がもつ「そこひ」租界だけであろう。見る影もなき戦の跡にむなしく日だけが照り、月だけが流れているであろう。六弦琴の感覚をもって私に迫った租界は、私の六弦琴の幻影と共にもはや新たな復興の音をたてているのであろうか。

 租界を一歩外に踏み出せば、焼け落ちた街々の角に、呪われた老若男女の支那民衆が飯に飢え、衣服にこごえて幾群も幾群も立っていることだろう。最近の新聞は上海における凍死者数、租界当局の手にし接収したものだけでも日に七十余りの死体を数えたと告げている。冬来りなば、やげて千里驚鳴いて江南の春が遠くないと言うに。広茫の野に砲片に死するもの飢えて凍えて仆れるもの、ああ幾千幾万か、幾十万か。

 ダンテは地獄の様々の谷にある数知れぬ亡者達を、ただ見て通った。時代の嵐にうちひしがれて、そしてなお無知と迷蒙のほか何も知らぬ支那民衆の前を通る者は、ダンテの強さをもって臨まねばならぬであろう。

引用終わり。 

ブログ管理人コメント

全編にわたって、山内正朋というレポートの作者がもつ中国、そして上海市民に対する愛情を感じる文章である。

ところが、彼は言う。

「日本はまた支那自体をも敵とするものではなかった」

「だが問題は日本が支那民衆の敵の名をもって呼ばれねばならなかったところにあろう」

著者山内氏のように、中国に対する愛情を持つ者にとっても、日中戦争は、戦争ではなかったということにしたいようだ。日本は中国と敵対しているわけじゃない、戦争するつもりはなかった、いや戦争ではなく、事件だ、事変だ、ということだろう。盧溝橋事件しかり、日支事変しかり。

山内氏は中国人を敵と思っていない。ところがなぜか中国人は日本を敵と思っているのである。山内氏はそこを不条理と言いたいようだ。

彼は徹底的に中国をあわれんでいる。自分で進路を決められる聡明で自由な日本、日本人。それに対し、彼が繰り返して使うことば「そこひ」、つまり目の曇り、を持つ中国、そして中国人。この上から目線はついに彼の次のような言葉に収れんする。

「日本は自らの使命を世界史的な使命にまで自己昂揚し、そして日本の為の王道でなく、ひろく被圧迫民族の独立と解放と自由のために、王道を説く将来が我々の明日の戸口に立っているのではないか」

なかなかの指導者ぶりである。

しかし、彼はこう気づいてもいる。

「・・・我々の周囲にこそ輸出超過もしかねまじき、数限りなき反省の種が充満してはいないだろうか。

 東洋の盟主と、やがては自他ともに許すであろう日本!だが日本民族は自らの国民的教養にまず真っ白な歯ブラシをあて、腐臭を洗い落とし、文化におとした中世的暗影は払拭されねばならぬだろう・・・」

そして彼の中国への愛情は、顔を真っ赤にして次のように話していた支那少年のことばを聞き洩らさなかった。

「・・・・・自分達が一人前になるころには支那は、昔世界文化の中心であったように再び世界の中心になるのだ、それにはまず石をかじってでも外敵に抗して、自国の一人ひとりが常に強くなり、偉くなるように心がけねばならぬのだ・・・・・」

こう山内氏に語った少年が一人前になったころ・・・・、文化大革命の嵐が中国を襲っていたころだろうか。少年の夢はかなわなかったかもしれない。しかし、その彼に子供がいたのなら、その子が一人前になっているであろう2010年、ついに中国は日本のGDPを凌駕したのである。

山内氏はどう思うだろうか。

「そこひ」、目の曇り、は中国人ではなく日本人こそが患っていたのではないだろうか。

以上で「上海歎異抄」を終わります。

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