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2010年8月 8日 (日)

テンピンルーとスパイゾルゲ

スパイゾルゲをご存知だろうか。歴史上、最も成功したとも言われるソ連側の対日スパイである。西木氏の「夢顔さんによろしく」には、鄭蘋如(テンピンルー)もゾルゲも出てくるのだが、二人に接点は無かった。

ところが、接点があったのかもしれない、と思わせる本がある。永松浅造の「ゾルゲ事件」がそれである。1956年に書かれた本だ。著者は1930年より毎日新聞記者をし、戦後著述業となった人だ。ピンルーについて日本語で書かれた本としては、最初が1941年の松崎啓次著「上海人文記」、二番目が1951年の晴氣胤慶著「謀略の上海」なので、三つ目の本である。

この絶版本は、国会図書館でもコピーが禁止されている。劣化して崩壊寸前の状態で一冊だけ保管されているのだ。私は二年前の夏、この本を借り、閲覧室で、ある部分をノートパソコンに入力した。

以下引用する。

日本におけるゾルゲ一派の重要な一人にドイツ人クラウゼンがおり、彼の妻はアンナといった。ある日、クラウゼンはアンナにある仕事を頼んだ。機密情報を上海の国際共産主義集団コミンテルン極東本部に届けることだ。

ゾルゲが東京のドイツ大使館より収集した独ソ不可侵条約に関する情報と、尾崎秀実が満鉄嘱託社員として集めたノモンハン事件での日本軍の敗退の様子や現存武力などの情報をマイクロフィルム化したものを、アンナは下着の裏側にあつらえたポケットに忍ばせて長崎から上海に渡った。

四馬路から少し入った路地にあるコミンテルン極東本部に着くと陳という中国人男性が待っており、指揮官を紹介された。彼はフィルムと引き換えに5000米ドルもの大金をアンナに渡した。彼女はこの現金を香港上海銀行で銀行手形に換え、1000ドルはアンナとクラウゼンのものとして、残り4000ドルは日本でのゾルゲ一派の活動資金として渡すことになっていた。

アンナは陳より、そのころ巷間をにぎわせていた若きコミンテルン女性活動家の話を聞いた。彼女の名前は汪清香(ワン・チンシャン)、本名を鄭蘋茹(注:原文のまま テンピンルー)といった。彼女の父は鄭鉞という上海高等法院主席検察官で、東京の大学に留学中、文京区本郷元町の下宿屋の娘と知り合い、結婚して上海に住むことになった。夫婦は親日的な人物として見られていた。

陳の話によると蘋茹は今、日本人租界の虹口に隠れ住んでいるらしい。ある事件を起こしたため、日本軍の特務組織「ジェスフィールド76号」の工作員に命を狙われているそうなのだ。彼女は色仕掛けで日本軍の将校二人を手中にし、隠れ家を与えられていたのだ。

その事件とはこうだ。丁黙邨という76号の団長がやはり蘋茹の色仕掛けにあって76号の施設内で同棲していた。ある日南京路のデパートで金の腕輪をねだり買ってもらった。デパートを出ると丁黙邨がどこからか狙撃された。丁はなんとか76号に戻り、中国服から背広に着替えようとしたとき、胸ボタンに紙切れがはさんであった。そこには「汝の主は南京路において射殺されたり。汝嘆くなかれ」と書いてあり、見覚えのある蘋茹の字だった。そこでやっと丁は蘋茹の仕業だと悟った。丁は蘋茹に対する怒りで八つ裂きにしてガーデンブリッジにさらし首にでもすると息巻いた。蘋茹は暗殺が失敗に終り虹口に逃げこんだ。蘋茹の素性を知らない日本軍将校のSとHがひっかかってかくまってやることになった、という陳の話だった。

キャセイホテルに泊まったアンナは、虹口のロシア人女性の知人を訪ねた。新亜飯店(新アジアホテル)の前に差し掛かったとき、美人の女性が通りかかった。とそのとき彼女に3人の男性が襲い掛かった。蘋茹だった。蘋茹は忍ばせていたピストルを発射しながら目と鼻のさきにある日本軍憲兵隊の建物に逃げ込んだ。ところが、男達はその建物の中にまで入ってくるではないか。彼らそのものが憲兵隊だったのだ。

アンナはピンルーがコミンテルンのことを自白したらゾルゲ一派にまで累が及ぶと考え、本部に急いで引き返し、報告した。本部はイギリス租界の四馬路からフランス疎開の目立たない路地裏に引越しをした。

手錠をかけられた蘋茹は憲兵隊から76号に引き渡された。コミンテルン本部は蘋茹の奪還に動いた。派遣されたのは陳だった。76号では査問担当者が蘋茹の背後関係を洗っていたが、蘋茹からはたいした情報は得ることはできなかった。結局、査問主任は、蘋茹が丁黙邨の浮気に対する個人的な復讐心から起こした事件だと、76号のナンバー2であった李士群に報告した。李は76号のナンバー1だった丁を追い落とすためには、むしろ女性問題で丁がへまをしたという査問主任からの報告は好都合だった。

上海の新聞各紙は痴情による復讐事件として見出しを掲げた。これに怒ったのは丁黙邨だった。日本軍に抗議し、死刑にすることを要求した。日本軍は蘋茹本人が日中のハーフであり父母が親日派でもあることから死刑にはしづらいところだった。しかし、丁の隠然たる力を知っていたため、丁の意見を無視するわけにはいかなかった。

東京に帰ったアンナはこの事件のことをゾルゲに報告した。ゾルゲは世論の力で死刑から救おうと考えた。日本の文化人や著名人の署名付きで近衛首相や上海駐留日本陸軍首脳、汪兆銘らに手紙を出させる話をつけた。また、尾崎秀実らも知り合いの新聞記者のツテを利用して上海の新聞各紙に釈放が当然であるとの偽名の投書を掲載させる話をつけた。

しかし丁の怒りは全く収まらず、76号内の反李士群一派と共に、76号をやめると辞表を提出した。これにはたまらず日本軍と汪兆銘は、李士群に蘋茹の死刑を暗示させる指示を出した。

コミンテルン極東本部は死刑の情報を得たため、最後の奪還に動いた。蘋茹が刑場に送られる途中で奪還するのだ。10月20日午前9時。李士群の片腕、呉志宝が蘋茹に虹口に行くと誘った。蘋茹は母の差し入れてくれた新しい洋服を着て、化粧をしてクルマに乗り込んだ。クルマには呉志宝と運転手、蘋茹、ほかに団員2名が乗った。

コミンテルン本部は刑場へのルート上で待ち伏せをしていたが、意に反して虹口方面に行ってしまったため、奪還は失敗に終わった。蘋茹はクルマが虹口を過ぎたあたりから、感づき始め、クルマのなかで引き返すようにどなりちらし始めた。しまいには運転手の首筋に噛み付いたりした。刑場に着くと呉が蘋茹を引っ張りだした。すると蘋茹は走って逃げようとした。すかさず呉の拳銃が火を噴いた。一発の銃弾が後頭部に命中し蘋茹は息絶えた。

引用終わり

さて、事件後の丁黙邨のポケットの中に、「汝、嘆くなかれ」とピンルーの字で書いたメモが入っているという、あり得ない設定がされているあたり、晴氣本「謀略の上海」を参照して書いたことは明らかだ。

しかし、永松の本にはオリジナルな記述が多い。ピンルーの母親が文京区の下宿屋の娘であったという記述がある。木村はなが牛込区の林館という下宿屋の手伝いをしていたことは、2008年放送の読売テレビによる番組調査で判明した。しかし、このことは、永松の本より先に出版された史料には中国語文献も含め全く見あたらないことから、著者永松浅造の独自の取材情報と思われる。

また、ピンルーが国際共産組織コミンテルンの女性活動家となっているところも独特な部分だ。彼女が中国共産党とも関係を築いていたことは確かに事実だ。それは、ピンルーが日中間の通訳を務めた偉達飯店での会合での出席メンバーに、共産党関係者も出席していることから明らかだ。しかし、若きコミンテルン活動家、という表現となると、そこまではどうかと思う。

私が最も興味を引いたのは、

「尾崎秀実(おざきほつみ)らも知り合いの新聞記者のツテを利用して上海の新聞各紙に釈放(注:テンピンルーの)が当然であるとの偽名の投書を掲載させる話をつけた」


という部分だ。

朝日新聞の記者だった尾崎秀実は、1928年、朝日新聞大阪本社から上海支局へ転勤となる。もともと台湾生まれの彼は、子供の頃から支配者側の日本人と地元台湾人の間の問題に興味を持っていた。上海では、欧米列強および日本軍閥の動きと、地元上海市民の多くの貧困を間近に見ることとなった。彼はやがて、共産主義しか、この支配・被支配の問題を解決できないのでは、との結論に達していったようだ。彼はこの上海で、アメリカ人女性ジャーナリストにして共産党員、アグネススメドレーの紹介で、ゾルゲと出会った。

(一口メモ  アグネススメドレーの住んでいた、そして恐らく尾崎秀実がスメドレーの紹介でゾルゲと会ったマンション「重慶公寓」と、ピンルーの住んでいた万宜坊は、たまたま同じ街区である。スメドレーが住んでいたのは1929年から1931年。ピンルー一家が万宜坊に引っ越してきたのが1931年初頭なので、少しの間、ご近所さんであったようだ。下図参照)

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(重慶公寓内部階段)

尾崎秀実は、1937年6月近衛文麿内閣が成立すると、首相秘書官牛場友彦の推薦を受けて、朝日新聞社を退職、内閣嘱託となった。以後、彼は近衛文麿の中国政策に関して有力なブレーンとなった。と、同時にスパイゾルゲの最も有力な情報源ともなったのである。彼は諜報と同時に日本の政策に関与する立場となった。

当ブログの前の記事で、スパイにも二種類あると書いた。情報を流すだけのスパイ。情報を利用して政治を動かすスパイ。ゾルゲと尾崎は典型的な後者だ。日本の対ソ参戦を避け、南方の資源を狙うような政策決定に間接的に荷担している。尾崎の台湾時代の地元民差別経験が彼を共産主義に傾けさせた原体験だとしたら、ゾルゲにとっては、自らの第一次世界大戦への歩兵としての参戦によって戦争の無意味さを知ったことがそれとなろう。

彼らは共産革命によって、帝国主義列強が必然的に起こすという市場争奪のための侵略戦争を終結させ、民族間の諸問題を解決する「ユートピア」を思い描いていた。このように、彼ら二人が単なる情報収集のスパイではなく、国を動かそうという意図を持ったスパイであったことは、ゾルゲ自身の書いた「獄中手記」、尾崎自身の書いた「上申書」にもかいま見れるが、むしろチャルマーズジョンソン著「尾崎・ゾルゲ事件」(1966年弘文堂)を読むと顕著である(原著は"An Instance of Treason; Ozaki Hotsumi and the Sorge Spy Ring" Stanford University Press 1964  )。

そのゾルゲ、尾崎秀実が、テンピンルーの釈放に力を貸していた・・・・・・?

どうだろう。

私は、尾崎の得ていた情報の中に、上海の日本軍部に入り込んでいたテンピンルーからの情報が入っていた可能性はあると思っている。尾崎秀実は、丁黙邨の口から「テンピンルーとは密友の仲」(漢奸裁判での丁黙邨の答弁より)とまで言われた日本軍特務勤務の反戦和平派、花野吉平とも親しく交際していた。なにせ、花野が1937年に派遣された上海の「中支派遣軍特務部思想班」は、尾崎秀実の進言により設置された部署なのである。そこの初代の部員が花野吉平だ。早い話、尾崎秀実が、上海での軍部情報を仕入れるために花野吉平を特務部に送り込んだようなものである。私は、ピンルーの得た日本軍部情報の一部は、花野経由で尾崎秀実へ、そしてピンルーや花野の全くあずかり知らぬところでゾルゲへと流れていたとみている。

そう考えると、ゾルゲは巡り巡ってピンルーから便益を享受していたわけで、自分の名を秘匿してピンルーの助命嘆願をすることは、決して荒唐無稽のことではなかろう。

上海のゾルゲ一派と日本のゾルゲ一派の間には無線連絡以外に、伝書使が行き来していたのも事実だ。

上に引用した永松の文章の中に、ゾルゲ一派の無線技師、マックスクラウゼンの妻、アンナが下着に隠してマイクロフィルムを長崎出港の船で上海に持ち込む記述があった。映画のようなシーンであるが、ゾルゲ自身によって書かれた「獄中手記」(1962年みすず書房出版)によるとこう書いてある。

以下引用

かくして、私はクラウゼン、クラウゼン夫人、ギュンター・シュタイン、そして彼女の女友達といった数名の者を、伝書使として使うことができた。1937年の初めから1938年の夏にかけて、私はこの連中を代わる代わる上海へ派遣して書類を運ばせた。

中略

私は上海へ伝書使を送るのをやめたが、それが1939年のことだったか、1940年のことだったかは覚えていない。1939年にクラウゼン夫人かクラウゼン自身を一度くらい上海に派遣したことがあったかもしれない。ともかく日本へ帰還する際の取り締まりがひどく厳重になって、上海との伝書使連絡は次第に難しくなった。

中略

技術的な面について述べると、われわれが伝書使を通じてモスクワへ送った資料は、ライカもしくは同種の写真機で撮ったおびただしいフィルムであった。フィルムは固く巻いて、できるだけ小さくした。3ヶ月ないし4ヶ月という長い期間何も送らないでいると、25巻ないし30巻のフィルムが溜まるのであった。

中略

モスクワからの伝書使がもたらしたものは主に金で、文書に認めた指令はたまにしか受け取らなかった。

引用終わり

また、チャルマーズジョンソンの著書にはこう書いてある。

「東京からの伝書使は、洋服の内側に35ミリフィルムを固く巻いて携行した。このフィルムには、ゾルゲからの報告や諜報グループが集めた文書資料が写されていた。写真は、ライカあるいは同種のカメラで撮影され、ブーケリッチが自分の暗所で後の作業を進めた。ゾルゲもブーケリッチも腕利きのアマチュア写真家であった。

モスクワからの伝書使は、ふつうゾルゲ諜報グループには知られていない職員があたった。ときには無線通信の濫用を避けるため、その人物が次の連絡についての詳細な打ち合わせも行った。モスクワからの伝書使はたいてい莫大な資金をゾルゲの使いに渡した。米ドルで5000ドルが普通である。

中略

この金ははじめクラウゼンの会社の名義で上海のアメリカの銀行に預けられ、のちに三井、三菱、横浜正金あるいは、香港上海銀行に移された」

引用終わり

と、こうなると、永松の書いている、「アンナがマイクロフィルムを下着に隠して渡航し」、「5000米ドルを受け取った」という記述の信憑性は上がってくる。この永松の著書は、ピンルーの事件・行動については晴氣本からの引用と、飛躍した想像話が多い。それは、新聞記者を退職し、著述業となった永松のペンが走った部分だろう。そこは必ず割り引かないといけない。しかし、それ以外の部分で、彼のオリジナルな情報がとても気になるのである。

私が京都府にある国会図書館関西館に、上海の当時の新聞を閲覧しに行った(参照 「暗殺未遂事件の記事より」←クリック) 第一の目的は、永松の次の記述の解明に他ならない。

「尾崎秀実(おざきほつみ)らも知り合いの新聞記者のツテを利用して上海の新聞各紙に(テンピンルーの)釈放が当然であるとの偽名の投書を掲載させる話をつけた」・・・

これはやはり調べねばならないだろう。尾崎秀実の働きかけで、ピンルー釈放のための投書が、上海発行の新聞で実際に行われたのか?これが裏付けられれば、ピンルーが行ってきた諜報活動の意味に大きな変動をもたらす。

実は、彼女の釈放への動きは様々にあったかもしれないことがうかがえる文章がある。松崎啓次の「上海人文記」だ。

以下引用

大澤さんは、彼女と彼女の恋人を、維新政府の人に手渡さざるを得ないことを説明してやってくれと言う。もちろん、大澤さんは、あの人の出来る限りの力を尽くして、彼女のために助命運動をして下さるだろうが、一旦政府の手に渡れば、彼女の運命はもう決定的だ。

引用終わり

大澤とは、特務部報道担当者である。松崎によると、事件後大澤は、ピンルーをかくまっていた。大澤がピンルーの釈放のために何らかの動きをしていた可能性があるが、残念ながらその痕跡は皆無である。

私は、他にも、例えば鄭家に出入りし、弟南陽とは囲碁を打つ仲だった岡崎嘉平太(当時、上海の華興商業銀行理事。戦後全日空社長、日中覚書貿易を主導)あたりも、助命の動きをしていたのではないかと踏んでいる。

私が京都に行った結果は、以前のブログ記事に書いたとおりで、残念ながらそのような投書は発見できなかった。ただ、調査対象は、国会図書館関西館に保存されている上海発行の限られた新聞史料であった。もしかしたら、他の新聞には載っているのかもしれない。かくして、この部分は当面のなぞとして残った。

テンピンルーとゾルゲを結ぶリングの存在は不明。今後は中国側における調査に期待するしかないかもしれない。


尾崎秀実による鄭蘋如の助命活動についてはこちらに関連記事を書いています。→クリック「上海より 8」  

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