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2010年8月29日 (日)

「上海歎異抄」 3

引き続き、東亜同文書院 大旅行誌 34期生 山内正朋氏のレポートを引用する。

以下引用

かつて私は徐家匯(ジョカワイ)天主堂裏のうらぶれた支那街のとおりすがりに小学校の窓から流れてくる、ひとつの歌声に思わず歩みをとどめさせられた。たしか夏が深くなろうとしたある夕暮れ近くであった。そのうたの言葉は私の胸をハタと衝き、そのメロデーは私の腹をえぐった。生徒たちの「漁光曲」の調べを物さびたオルガンの低調さと共にきいた

 少年達のこの情緒的な哀曲に、隣邦民族の深々とした溜息をきいて私は、新しく、

「支那には四億の民がいる」

とつぶやいたものである。

 

 それにしてもこの隣邦の少年から青年達の排日感情というものはどうだろう。

 ときどき支那人小学校の校庭に足を踏み入れては私はこのいたいけな愛国者達の言葉を打ち解けて聞ける時がいつか来るような気がしたがとても限りなく少年達の愛国心を支配している排日の言葉や行動の中に、半ば私は絶望を感ぜざるを得なかった。だが私はこの日、これらの少年達とのほとんど宿命的かと思われた深い溝を幾分でも埋め得たことは、忘れがたい喜びであった。

 私のたたずむ石畳の小路に沿って深々としたクリークがメタンガスを発しながら腐臭を放っていた。

 クリークをへだてた民家から狭い一枚板がわたしてあった。私はほとんど無意識にそのすぐにも動揺しそうな橋の上に、四歳にも満たぬ赤い長衣をつけた女の子のが渡ってきたのを知っていた。

 支那の民俗的な苦悩に想倒して立ちすくんでいる私の周囲のどこからだったであろう。驚愕と喧騒がとっさに入り組んで、私を刹那の狼狽に上気させた。振り向いたクリークに女の子が汚穢の水面に浮いて沈んで・・・・・・・ああ、手を足を首を頭髪を、くるおしくみせたは沈む。私は上着を抜ぐ暇だけを瞬間のこととして、クリークに足を入れた。ほんど首までくる濁水であったが、私はとにかく、女の子を支えて、石畳の小路まで抱き上げた。小路の彼方此方から支那人達が駆けてくるのがみえた。

 「你的媽?」(注:あなたの娘?)と聞いてみたが、この子はもう、生きているのが精々である。それに誰も私とこの子に間近に近づこうとせず、呼びかけようともしないのは不思議であった。日本人から救わるれば、どんなことになるだろう、と考えているらしい周囲の眼に私は言い知れぬ悲しみだけを覚えた。私はこれでよいのだと想いながら上着をつけ、濡れ鼠のように彼らを後にした。だがたった一つの喜びにさっき聴いた小学生達の口ぐちから「東洋人好来西」(注:トンヤンレン、ハオライシー。日本人ありがとう)という数少ない声々であった。私は振りかえりはしなかったけれど、熱いものを瞼に感じた。

 それからである。私が多くの支那の少年や青年の複雑な気持ちなどを言葉として立ち入って聞くことのできるようになったのは。 

続く

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