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2010年9月の9件の記事

2010年9月25日 (土)

尖閣諸島

東亜同文書院 34期生 山内正朋氏は、1938年の卒業論文「上海歎異抄」でこう書いた。

だが私にとって、これらのかそけき小市民達のことはさてをいて、想うごとに凄荘の気にひたらせられるものは、自国の明日の空を心にかけながら、顔を真っ赤にして語った少年達のこと

「・・・・・自分達が一人前になるころには支那は、昔世界文化の中心であったように再び世界の中心になるのだ、それにはまず石をかじってでも外敵に抗して、自国の一人ひとりが常に強くなり、偉くなるように心がけねばならぬのだ・・・・・」

「上海嘆異抄 4」より←クリック

下線は、日本が「日本の正義」のもとに「指導」していた1938年当時の支那の少年の言葉である。

尖閣諸島の問題が起こる前からうすうす感じてはいた。始まりつつあるのかと。世代を超えた復讐への試みなのか。

中国国民は、決して復讐しているとは思っていないだろう。

1930年代、日本に正義があり、多くの国民がその正義に則った行動を取った。そして「中国の正義」もあるのだ。正義を裏打ちにしていれば、それは当然の行動、普通の行動となる。

そしてつねに正義は、恣意的に作られる。

「自国の領土を取り返す」・・・わかりやすい正義だ。

世代を超えた因果応報、この言葉で片付けたくないなと思う。日本人も中国人も、歴史から何を学べているのだろうか。











 

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2010年9月16日 (木)

4年目の夜来香

2007年に夜来香(チューベローズ)の球根を通販で買って、その年はなんとか開花までこぎ着けました。クリック→「夜来香の花」

開花後に自然と枯れて、ベランダで放置していたら、二年目の夏、横殴りの雨の三日後くらい、なんと芽が出てきてびっくり。

そこで水をやりながら葉を出させ、芽欠きをしながら大きくしようとトライ。ところが芽欠きは全く追いつかず、育てながらも放置。栄養が分散して、どの株からも花茎は出ず、晩秋には自然と枯れてしまいました。


三年目の昨年、春に球根を掘り出しました。クリック→「3年目の夜来香」

実は昨年は自信がありました。たくさんあった球根を選りすぐり、大きな方から五つを選び、丁寧に育てたつもりだったので。このブログにも続報を載せるつもりでした。

ところが、大きな方から選んだと言っても、分散していた球根は実はそれほど大きくなっていなかった。しかも、太陽が弱い年でした。葉だけがいっぱい出て、しかも抵抗力が弱いからか葉ダニにやられ、9月、10月、11月と、茎が出ずに12月、枯れていきました。


4年目の今年、冬の間の放置を経て、再び7月初旬に掘り返しました。


すると、見たこともないような大きな五つの球根が出てきました。去年の倍以上の大きさがありました。チューベローズの球根を植えるのは4月とか5月なのですが、二ヶ月以上遅れて育て始めました。とても元気に育ちました。

9月初旬、葉の中心に茎が形成されているのが外から見てもわかり、9月二週目にはつぼみが茎の中を上昇してきているのがわかりました。


今年は咲くのが確信できました。写真は9月15日の段階です。
Photo_2  一本だけ先に伸びていますが、五本ともつぼみが頭を覗かせています。

Photo_3

2010年10月17日の夜来香です。無事にしっかりと咲きました。下から順番に咲いていきますので、意外と香りを楽しむ期間は長いです。香りはジャスミンと似た柑橘系ですが、甘みを加えた感じで、そこが妖艶な女性に比喩されるところでしょうか。Pa160216













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2010年9月 9日 (木)

上海より 7

万宜坊を出て、隣の重慶公寓を覗いてみる。スパイゾルゲと尾崎秀美がアメリカ人ジャーナリスト、その実、アメリカ共産党員アグネススメドレーと出会った場所だ。

守衛さんにチラ見されたけど、ちょっとだけ中に入って階段室を撮影。当時の洋風の建物の階段室は、ロの字型階段室になっており、吹き抜けの落ち着いた空間が作られる。

P9060153

重慶公寓を出て、はす向かいの復興公園(旧フランス公園)に入る。1930年当時は小動物園があり、ピンルーと姉真如が子供の頃、よくクジャクを見に行ったという場所だ。確かに万宜坊から歩いて5分と、とても近い。

Photo_2 復興公園。写真を撮り忘れたので、ネット上から借りてきた。この角度から見ると公園外の正面の建物が、手前のフランス式庭園を借景とした宮殿を意識したデザインだったのだと納得。

復興公園からタクシーで錦江飯店北楼に行く。錦江飯店は、松崎啓次が誘われて四川料理の宴会に来たところ、そこに丁黙邨とピンルーがいて、しかもピンルーが自分のことを李小姐(リ シャオチェ)と謎の自己紹介をしたところだ。

錦江飯店の西隣には旧フランスクラブ、現在のホテルオークラがある。旧フランスクラブの芝生の庭園は、終戦直前に李香蘭と張愛玲が対談をしたところ。→クリック 旧フランスクラブでの李香蘭と張愛玲の対談

一旦、ホテルで休憩し、再びバンドに向かう。バンドはすべての建物がライトアップされ、雲までも白く明るく照らす。不夜城とはこのことだ。おびただしい中国人観光客が繰り出している。内陸から上海へ来る中国人はさながら外国旅行をしている気分なのだろう。

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2_2

P9060157

バンドを通り過ぎて、昔の四馬路(スマロ)、今の福州路に入る。本屋、新聞社、文具などの文化系の通りだ。文房具屋という看板があったので覗いてみたら、書道の道具しか置いてなかった。なるほど、文房具とはこういうことだったのか。

福州路から旧市街地である豫園(よえん)までは、違法なのか合法なのか分からないが、バイクのタクシーがかなりの数出ている。バイクの後部座席に後ろ向きに二人分の席が設けられて、15円くらいで運行している。下の写真は後ろ向きに座りながら撮影。運転手がヘルメットをかぶってないのはもちろん、客席にシートベルトもないので、客は振り落とされないように注意しないといけない。

Photo_4

Photo_3

豫園に着く。昔の中国風建物が林立している。

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上の写真の建物で上海料理を食べた。場所は一等地だがサービスが今ひとつで、国営企業が経営しているのかもしれない。

お酒を飲みに再びバンドへ。行き当たりばったりで、パレスホテル(和平ホテル南楼)の屋上にあるクラブ風のバーへ上がってみる。Bar Rougeという名前で、確かに赤をイメージカラーにしていて賑やかだ。客は西洋人ばかりで、日本人はいなかったと思う。日本の本屋で売っているガイド本には載っていないから、普通の日本人が足を踏み入れることはないのかもしれない。

P9060168_2 Bar Rougeからみたキャセイホテルのとんがり屋根。エレクトロ系のハウスミュージックが、ほどよい音量で流れ続ける。

P9060172_2同じくBar Rougeから見た対岸の浦東のビル群。ライトアップで雲が白い。これだけビルを色とりどりに、というよりは派手派手に照らすのは日本人には理解しがたいものがある。これも1930年代上海のDNAのなせる技なのか・・・

全天の雲を怪しく白く光らせたライトアップは、午後11時半まで。

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突然灯りが消えた

うそをつき続けて

背伸びをしていたShanghaiが

いいとこ見せてたShanghaiが

上海に戻った

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おやすみなさい

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以上で「上海より」、を終わります。

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2010年9月 8日 (水)

上海より 6

上海法政学院の次に、テンピンルーの住んでいたアパートメント、万宜坊に行ってみる。

P9060147
ピンルーのいた部屋には誰かが住んでいるようだ。3階建てかと思っていたら、4階に小部屋があった。このペントハウスは一番下の天如さんの部屋だったのかもしれない。

写真を撮っていたら、向かいの家からおじさんが出てきた。日本人か?と聞くので、そうだ、と答えると、日本人がぽつりぽつりと来ているらしい。このおじさんは別に迷惑がっているわけでもないが、住んでいる方にしてみたら、自宅にカメラを向けられるのは迷惑かな、と確かに思う。

おじさんは一方的に言う。日本軍で悪いことをしたのは100人くらいなんだと、一番悪いことをしたのは朝鮮人なんだと、などなど。話はアフガニスタンまで飛んだ。

P9060149 (ピンルーの住んでいた棟の北側の棟)

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P9060151 (左側がピンルーの家の裏口)

思っていたよりも明るいタッチの外壁で、白壁にオレンジの屋根瓦とコーナーに埋め込まれた赤レンガがアクセントになっている。デザインも凝っている。当時としてはかなりおしゃれな感じのアパートメントだったのではないだろうか。中だけリニューアル工事をしている部屋が何部屋かあった。このあたり、ヨーロッパの住宅と同じだ。古くてもデザインと作りがいい建物であれば、中身をきれいに作り替えて永遠の命が授けられる。

P9060152 (万宜坊の隠れた主とみた)


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万宜坊に入ってすぐ左の部屋は、靴の修理職人のおじさんが住む。はにかみ屋だが腕は確かそう。どんな靴でも直してくれるだろう。

続く

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上海より 5

パラマウントの次に、ピンルーの学んでいた上海法政学院跡に向かう。移動はほとんどタクシーを使う。初乗りが安く、市内を数キロ走る分には200円くらいでおさまるので便利だ。

プラタナス並木がトンネルのように連なるラファイエット通り、現在の復興中路に面して、学校の建物は現存していた。以前、読売のテレビで見たときよりも明るい感じがする。どうも人が住んでいるようにも見えた。お金持ちの中国人が買い取ったのだろうか。この周辺は歴史保護区にもなっているようだ。

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上海法政学院をラファイエット通り側からみる。

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隣のレストランの敷地を通って、逆側を見てみる。学校としてはとても小さな建物だが、瀟洒な洋館だ。

Photo

隣のレストランのエントランス。上海料理「復興滙」(FuXingHui)になっている。友人連れのグループや、近所のサラリーマン風の人が昼食を食べに来ていた。

019 レストランの庭側に回り込んで撮影したもの。こちらはディナー用に使われているようだ。

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そのまた西隣には古い図書館跡があって史跡になっていた。現在は区の芸術館として使われている。1933年に実業家の葉鴻英からの寄付金によって造られ、15万冊を所蔵していたらしい。

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Photo

続く

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上海より 4

二日目。この日はイギリス租界からフランス租界を巡る。

P9060122

上の写真は南京西路。
下はSHANGHAI RESTORATION PRODUCTのジャケットの写真で使われていたアングル。

The_shanghai_restoration_project
SHANGHAI RESTORATION PROJECTの曲からピックアップして、ピンルーをテーマにして音楽ミックスを作ってあります
→クリック ANTHEMN FOR PINGRU

→クリック PARTY FOR PINGRU

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静安寺路の丁黙邨暗殺未遂事件の現場。丁黙邨とピンルーを乗せた車は、写真の右手から来て、こちら側に車を止め、向こう側のシベリア毛皮店に向かった。射撃手は、こちら側の歩道に潜んでいて車に向かって射撃した。

シベリア毛皮店のあった場所には現在は別のテナントが入っている。道路の反対側も大規模な再開発が行われていて、面影は全く失われている。とても明るい雰囲気のプラタナス並木のおしゃれな通りである。

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こちらはダンスホールのパラマウント。現在もダンスホールとして稼働しているが、いわゆるクラブカルチャーのダンスではなく、社交ダンスの方だ。台湾出身の映画人で、松崎啓次とピンルーと共通の友人関係にあった劉吶鴎(りゅうとつおう)が、ピンルーのわかれ話に遭遇してしまった場所だ。

ピンルーが中国人のボーイフレンドの友人から、「最近なぜ彼に手紙の返事をよこさないのだ。日本人とつきあい始めたといううわさは本当か?」などと問いつめられている場に劉吶鴎が居合わせてしまうのだ。それを松崎啓次が聞き、「上海人文記」に書きとめた。

以下が劉吶鴎が松崎に言った言葉の一節。

「ピンルー、すこし変だろう。こないだ、僕たちは大勢でパラマウントへ踊りに行ったんだ。ピンルーも一緒にだよ。階段を昇ろうとすると、ある男がピンルーを呼び止めるんだ。振り返ったピンルーの顔といったら、その前の瞬間まで陽気だったあの人とはまるっきり違うんだ。蒼白だ。そして僕の腕を取って「ここにいてちょうだい。どこにも行かないで」と言うんだ。仕方なく僕だけ残った。そして二人の会話を聞くはめになったのさ…」

P9060131 玄関ホールには往年の映画女優らの顔写真が飾ってあった。

P9060133 テンピンルーらは右側の階段を上がっていったのだろう。

続く

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上海より 3

9月5日の夕方からは上海万博へ。黄浦江の対岸から入場し、船で川を渡る。日本館に並ぶ長蛇の列をこの目で確認する。おそらく3時間くらい待つのではないだろうか。日本産業館も人気のようで、館内で手渡される日本産業館のロゴ入りビニール袋を下げている人がそこかしこにいた。
P9050114 (中国館)

日本館の行列に入るつもりは最初からなかった。北海道館というミニパビリオンが併設されていたので、こちらに入る。こちらは並ばずに入れる。中は北海道の紹介パネルなどの展示品やひまわり畑をバックにした写真コーナーなど、シンプルな構成。出し物を見せる舞台があり、北海道の方がちょうど裸踊りをしていて、少し気恥ずかしい気持ちになったが、踊りが終わった後中国人からは大きな拍手があった(気がする)。この拍手は私にとっては大きな意味があった。


「上海歎異抄」の記事で書いたような、支那人に敵視されていた日本、そして中国人が長蛇の列をなしてパビリオンに入ろうとする日本。我々の国日本はどう変わったのだろうか。そして支那、中国は…

話は少し飛ぶが、ホテルで中国のテレビ番組を徘徊していると、偶然抗日ドラマに遭遇した。おそらく日常的に流れているのだろう。今だに、「恐ろしい日本人」、という刷り込みがなされているのだろうか。字幕にも鬼子(グイズ)という言葉が出てくる。
P9060155 (中国国営テレビCCTV3で放送されていた抗日ドラマ。主役の子供が日本兵に捕まったシーン)

しかし、この少しだけ見た抗日ドラマに限っていうと、日本兵は最初だけ強く威張っているのだが、実はとても弱くて、滑稽なところもある、という展開だった。一人の日本兵が井戸に隠れていたのが、子供に見つかってしまい引っ張りだされて、ばつが悪い表情をする、というシーンが最後にあった。出てくる中国人も笑顔でいるシーンが多い。むしろコミカルな演出がなされていたといってもいいだろう。抗日ドラマといっても意外と軽いタッチになっているのかもしれない。あるいは、「ウルトラマン」や「水戸黄門」といったわかりやすい勧善懲悪モノとして視聴率を狙えるジャンルになっているのかもしれない。

P9050118 (EUと併設のベルギー館)
さて、中国館は別格として、日本館に限らず、フランス、ドイツ、スペイン、スイス、3D映像が秀逸らしいサウジアラビア館など、有名どころは皆混んでいる。しかしラオス、ベトナムなどなど、全く並ばずに入れるパビリオンも多い。ヨーロッパではベルギー館に入ってみた。ここも並ばずに入れる。お目当ては併設されているレストラン。かなり本格的で、本場のカフェと比べても遜色ない。ベルギービールをしこたま飲んで万博会場を後にする。


Photo (キャセイホテル ジャズバー)

そしてバンドに戻り、キャセイホテル(和平ホテル PEACE HOTEL 北楼)のバーに入る。ジャズバンドの演奏は終わった後だったが、逆に落ち着いて飲める。帰国後、ひょっとしてと思って西木正明の「夢顔さんによろしく」を紐解いてみた。そうしたら、このキャセイホテルのバーの止まり木に近衛文隆が腰を下ろし、スコッチを飲みながらテンピンルーを待つシーンがあった。さもありなん、という大人な雰囲気のバーだった。

続く

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2010年9月 7日 (火)

上海より 2

9月5日午後2時頃、ホテルを出て、日本人地区であった虹口(ホンコウ。当時の日本人の呼び名ではホンキュウ)の奥へと北上する。亜熱帯的なシャワーのような雨が時折降ってくる。虹口巡補房だったところが今も警察署として使われている。そこの前の歩道が工事で通れない。車道を歩くのだが、三角コーンなどで歩行者の安全を確保するような気配りは一切ない。これは他の工事現場でもそうだった。また、信号も安全を確保することを意味しない。自分の身は自分で守る、ということだ。

083 (ピアスアパート)

旧日本人倶楽部跡地に差し掛かる。大上海放送局が当初置かれていた場所だが、完全に取り壊され、別の建物になっていた。その先のピアスアパートはそのまま残っている。ここは1937年8月15日から数日間続く中国空軍の爆撃から、多くの日本人が避難してきた建物だ。第三国人である西洋人向けのアパートだったので、爆撃の標的とはならなかったのだ。

福田敏之著「姿なき尖兵 日中ラジオ戦史」によると、このピアスアパートの一階でレコード店を経営していた高木寛氏が、日本領事館からの依頼を受け、日本語ラジオ局「大東放送局」(1936年8月開局)の責任者をしていたようだ。

084 (昆山アパート)

その先に昆山アパートがあった。「上海人文記」を書いた松崎啓次の特務部上司であり、テンピンルーが大上海放送局に採用される際に口利きをした金子少佐が住んでいたところだ。洋風のアパートメントで、さきほどのピアスアパートと並び、イギリスとアメリカが共同統治していたころの名残だろう。第二次上海事変以後、虹口を日本軍が統治し始めると、西洋人はこれらのアパートを出て、蘇州河を南に渡り、二度と虹口には戻らなかった。

093 (旧福民病院)

北四川路に出て北上を続ける。これと言ってみるべきものの無い普通の繁華街となっている。右側に巨大な病院が見えてきた。上海市第一人民病院、旧福民病院である。当ブログにコメント頂いたテストパイロット氏の著書に書かれた頓宮寛(とんぐうゆたか)氏が開業した病院がここまで大きくなっている。日本人が上海に残したプラスの遺産と言えよう。

ちなみに、ピンルーの姉、真如は産後の肥立ちが悪く、娘ベイベイを産んだ後に、この病院で亡くなっている。

多倫路と名付けられた通りを過ぎる。虹口では数少ない垢ぬけた観光スポットとなっているようだが、若干「つくられた」感じがする。むしろ裏通りにいい感じの街が残っていそうな気もする。094 (多倫路。なにかの撮影をしていた)

さらに北上を続けると旧日本海軍陸戦隊本部が現れた。壁面の色を茶系のツートンにして全く別の雰囲気だ。ここは中国軍関係の施設として使われていたが、一階は商業系テナントが入っているので、一般の上海市民には、ここが日本による上海の軍事的統治のよりどころだったとは想像がつかないだろう。

少し路を東にそれ、山陰路に出る。ジャーナリストの松本重治やスパイとして処刑された尾崎秀美、終戦後に漢奸容疑を受けながら収容された李香蘭などが居住していた日本人向け住宅街が右手に現れる。095 (李香蘭の収容されていた興業坊入り口)

その向かいに魯迅の住んでいたアパート、大陸新邨(しんそん)があった。魯迅故居として中に入ることができ、当時の家財がそのまま展示されている。魯迅は福民病院の医師頓宮氏らの治療の甲斐なくここで亡くなっている。彼の息子は現在も80代で北京に住んでいる。案内をしてくれた男性がこの息子と二度ほど日本に行ったことがあると言っていた。

Photo (魯迅公園)

四川北路の突き当たりが魯迅公園。どちらかというと年配の方々が、嬉々として音楽にあわせダンスを踊ったり、楽器を演奏したりして楽しそうだ。普通の日曜日の過ごし方の一旦を垣間見れた。

この公園までアスターハウスホテルから3キロ以上歩き続けた。地図で散々みていた地区なので距離感が狂っていて、もっとコンパクトな地区かと思っていたのだが、しっかりと距離があった。陸戦隊本部を虹口のかなり北部に設置することで、日本の勢力範囲を北へ北へと拡大していく意思が感じられた。フランスやイギリス租界が西へ西へと拡大していった構図と似たものが日本人地区にもあったのだろう。

続く

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2010年9月 6日 (月)

上海より 

きのう、上海に来た。

Photo (アスターハウスホテルから見たブロードウェイマンション)

上海を語る多くの過去の作家、確か火野葦平も「麦と兵隊」だか「土と兵隊」でも書いていたが、海の色が変わることで上海が近づいてきたことを感じると言う。それは海の旅だからこその感慨であったろうが、空からの旅でも感じ取れたら、と眼下の海面を見渡す。

運よく、雲が切れ、島が点在する杭州湾上空に飛行機がさしかかると、瀬戸内海から続く紺碧の海が、次第に薄い緑色となった。それは急激に黄緑となり、そして黄土色、というより泥水そのものとなった。そこが海とも川とも見分けのつかない揚子江であった。

揚子江上空を左に旋回、飛行場を過ぎると右に旋回し、南側から浦東空港の滑走路へ進入する。新興住宅地の三角のとんがり屋根が軒を連ねる。成田上空で見た鼠いろの瓦屋根とは違い、明るいオレンジ色の瓦屋根が目にまぶしい。とても中国の住宅とは思えない。ベルギーやオランダの住宅にも見まごうデザインだ。こうやって、都市部では伝統的な家屋デザインが失われて行くのだろうが、現地の人の購買欲をそそるデザインなのだから仕方ない。

空港からドイツ製リニアモーターカーで上海郊外まで8分ほどで着く。時間帯によっては時速500キロを出すようだが、騒音対策だろうか、私の乗った時は最高速度300キロだった。終点の駅で降り、アスターハウスホテルを目指す。タクシーの運転手に「Astor House Hotel Please」と言うと全く通じない。地図を指で指す。運転手はずっと中国語で私に質問するが、その中国語が私にはまったく理解できない。

運転手が小さな声で地図を見ながら、

「プージャン・・・・」

と言った。

聞きおぼえがある。そうだ。アスターハウスホテルは中国語だと浦江飯店と書く。プージャンハンテンだ。日本にいた時に一回だけ確認していた。

私が大きな声で、

「プージャンハンテン!」

と言うと、運転手も元気に

「プージャンファンディエン!」

と繰り返す。ようやく行き先が通じた。

タクシーが走り出す。いきなりバイクと自動車の軽い衝突事故を見る。道の真ん中で言い合っている。こちらのバイクはノーヘルメットで、二人乗りに三人乗っているのも多い。二輪のタクシーのようなものだろうか。市内の高速道路に乗ると、そこでも追突事故の現場だ。この街で自動車を運転するのは少し難しそうだ。

ホテルに着く。もとイギリスのホテルだからなのか、ベルボーイがスコットランドのタータンチェックのスカートをはいている。なぜこのホテルを選んだかと言うと、1930年代に上海に渡った軍関係者、特務部員などがまずこのホテルに投宿したからだ。「上海人文記」の松崎啓次もそうである。それをなぞってみようかと。

冒頭の写真は部屋から見えたブロードウェイマンションである。よくガーデンブリッジ側からの写真を見るが、これは言ってみれば裏側である。李香蘭や川島芳子も泊ったことがあるといい、また日本軍特務の部屋もあったようだ。

Photo_2

この写真は泊った部屋。予約時はエグゼクティブシングルとなっていたが、実際はワンランク上の部屋だった。内部はリニューアルされていたが、当時のデザインをそのまま活かしているようだった。床も木のままである。この日たまたまダンスホールでは日本人女性と中国人男性の結婚式が行われており、ロビーも奇麗に花で飾られていた。

001 (アスターハウスホテル階段室)

上海にはじめてできた西洋型のこのホテルは1938年ごろから終戦まで、軍による接収もあったのだろう、日本のホテルとなっていた。そして、このホテルの2階のどこかに、テンピンルーがアナウンサーをしていた日本のラジオ局、大上海放送局があったという。彼女が働いていたかもしれないホテルである。

アスターハウスホテルにて

続く

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