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2010年9月 7日 (火)

上海より 2

9月5日午後2時頃、ホテルを出て、日本人地区であった虹口(ホンコウ。当時の日本人の呼び名ではホンキュウ)の奥へと北上する。亜熱帯的なシャワーのような雨が時折降ってくる。虹口巡補房だったところが今も警察署として使われている。そこの前の歩道が工事で通れない。車道を歩くのだが、三角コーンなどで歩行者の安全を確保するような気配りは一切ない。これは他の工事現場でもそうだった。また、信号も安全を確保することを意味しない。自分の身は自分で守る、ということだ。

083 (ピアスアパート)

旧日本人倶楽部跡地に差し掛かる。大上海放送局が当初置かれていた場所だが、完全に取り壊され、別の建物になっていた。その先のピアスアパートはそのまま残っている。ここは1937年8月15日から数日間続く中国空軍の爆撃から、多くの日本人が避難してきた建物だ。第三国人である西洋人向けのアパートだったので、爆撃の標的とはならなかったのだ。

福田敏之著「姿なき尖兵 日中ラジオ戦史」によると、このピアスアパートの一階でレコード店を経営していた高木寛氏が、日本領事館からの依頼を受け、日本語ラジオ局「大東放送局」(1936年8月開局)の責任者をしていたようだ。

084 (昆山アパート)

その先に昆山アパートがあった。「上海人文記」を書いた松崎啓次の特務部上司であり、テンピンルーが大上海放送局に採用される際に口利きをした金子少佐が住んでいたところだ。洋風のアパートメントで、さきほどのピアスアパートと並び、イギリスとアメリカが共同統治していたころの名残だろう。第二次上海事変以後、虹口を日本軍が統治し始めると、西洋人はこれらのアパートを出て、蘇州河を南に渡り、二度と虹口には戻らなかった。

093 (旧福民病院)

北四川路に出て北上を続ける。これと言ってみるべきものの無い普通の繁華街となっている。右側に巨大な病院が見えてきた。上海市第一人民病院、旧福民病院である。当ブログにコメント頂いたテストパイロット氏の著書に書かれた頓宮寛(とんぐうゆたか)氏が開業した病院がここまで大きくなっている。日本人が上海に残したプラスの遺産と言えよう。

ちなみに、ピンルーの姉、真如は産後の肥立ちが悪く、娘ベイベイを産んだ後に、この病院で亡くなっている。

多倫路と名付けられた通りを過ぎる。虹口では数少ない垢ぬけた観光スポットとなっているようだが、若干「つくられた」感じがする。むしろ裏通りにいい感じの街が残っていそうな気もする。094 (多倫路。なにかの撮影をしていた)

さらに北上を続けると旧日本海軍陸戦隊本部が現れた。壁面の色を茶系のツートンにして全く別の雰囲気だ。ここは中国軍関係の施設として使われていたが、一階は商業系テナントが入っているので、一般の上海市民には、ここが日本による上海の軍事的統治のよりどころだったとは想像がつかないだろう。

少し路を東にそれ、山陰路に出る。ジャーナリストの松本重治やスパイとして処刑された尾崎秀美、終戦後に漢奸容疑を受けながら収容された李香蘭などが居住していた日本人向け住宅街が右手に現れる。095 (李香蘭の収容されていた興業坊入り口)

その向かいに魯迅の住んでいたアパート、大陸新邨(しんそん)があった。魯迅故居として中に入ることができ、当時の家財がそのまま展示されている。魯迅は福民病院の医師頓宮氏らの治療の甲斐なくここで亡くなっている。彼の息子は現在も80代で北京に住んでいる。案内をしてくれた男性がこの息子と二度ほど日本に行ったことがあると言っていた。

Photo (魯迅公園)

四川北路の突き当たりが魯迅公園。どちらかというと年配の方々が、嬉々として音楽にあわせダンスを踊ったり、楽器を演奏したりして楽しそうだ。普通の日曜日の過ごし方の一旦を垣間見れた。

この公園までアスターハウスホテルから3キロ以上歩き続けた。地図で散々みていた地区なので距離感が狂っていて、もっとコンパクトな地区かと思っていたのだが、しっかりと距離があった。陸戦隊本部を虹口のかなり北部に設置することで、日本の勢力範囲を北へ北へと拡大していく意思が感じられた。フランスやイギリス租界が西へ西へと拡大していった構図と似たものが日本人地区にもあったのだろう。

続く

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