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2011年5月 6日 (金)

上海より 8

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(春の夜の旧アヴェニュージョッフル)

昨年の9月、鄭蘋如(テンピンルー)ゆかりの地を簡単に巡った(「上海より」参照←クリック )。今回は、ピンルーの碑ができた上海市郊外の墓園「福寿園」を訪れること、そして3年前ほどからの宿題をやり遂げることを目的とした。


その宿題とは、
2010年8月8日のブログ記事「テンピンルーとスパイゾルゲ」←クリック にあるとおり、次の文章の解明である。






(中略)

「東京に帰ったアンナはこの事件のことをゾルゲに報告した。ゾルゲは世論の力で死刑から救おうと考えた。日本の文化人や著名人の署名付きで近衛首相や上海駐留日本陸軍首脳、汪兆銘らに手紙を出させる話をつけた。

また、尾崎秀実らも知り合いの新聞記者のツテを利用して上海の新聞各紙に釈放が(注:ピンルーの釈放が)当然であるとの偽名の投書を掲載させる話をつけた」






上の文章は、戦中は毎日新聞記者、戦後は著述業となった永松浅造が書いた「ゾルゲ事件」からの引用だ。



ゾルゲの行動はおそらくあり得ないだろう。彼は一切の足がつく行動は控えていたはずだ。永松浅造氏は、ペンが走る癖がある。この辺は割り引かせて頂く。


私が注目したのは、ゾルゲ事件に荷担した元朝日新聞上海特派員、近衛内閣嘱託を務めた尾崎秀実(おざきほつみ)の行動の部分だ。


「知り合いの新聞記者のつてを頼り、上海の新聞各紙にピンルーの釈放が当然であるとの偽名の投書を掲載させた・・・・・」



財閥、軍閥、官僚、そして皇族らの結託した結果である日本の戦争。そしてまがりなりにも議会制民主主義の片りんがあった当時の日本ゆえ、これら支配階層は朝日新聞をはじめとした管理された報道により、選挙民を帝国主義に追随するよう誘導した。


この構造を、良きにつけ悪しきにつけ非凡な、また恐ろしくもユートピア的、破滅的な発想で壊そうと試みた尾崎秀実。尾崎がテンピンルーを救おうとしたのなら、それは単にかわいそう、ではなく、尾崎がピンルーのあずかり知らぬ間になんらかの情報面での便益を得ていたことの手掛かりになる。




手掛かりの一端は得られるのものだろうか。

可能性がゼロではないならば、まずは行動してみようかと。


今回ようやく上海図書館を訪れる機会を得た。ここには当時の上海で発行されていた膨大な新聞、雑誌の影印(複写)と実物が保管されている。日本人も、パスポートを提示し、滞在中のホテル住所等や電話番号をカードに記入していけば3ヶ月有効の利用者カードがその場で作成される。

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資料が多すぎてどこから手を付けていいのか分からなかったが、ピンルーが捕まった翌月の1940年1月1日から、処刑されたといわれる翌2月の末日までの新聞を、書架に並ぶ大手新聞社のものからら見ていくこととした。




その結果、投書欄がある新聞は皆無といってよかった。これは昨年訪れた京都の国立国会図書館関西館での調査でもある程度わかっていた。遺失物の告知や結婚、離婚などの告知など、日本の新聞にはない欄はあった。おそらく告知枠として売られていたのだろう。




そこで、投書欄を探すのをあきらめ、記事を見ていくこととした。鄭蘋如の名前を見つけ出すことはできなかった。そりゃそうかもしれない。もし名前があったら中国側の研究者がとうの昔に見つけ出しているはずだ。




私は方針を変え、

「それらしき記事」

がないものか、目をこらすことににした。

「上海より 9」に続く

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