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2012年1月13日 (金)

上海租界の街路名

以下は、映画の合間などに流されていた「日本ニュース」の第161号 1943年7月6日版のニュースの項目である。

1、上海共同租界 還付調印成立

2、吾が潜水艦 盟邦独逸訪問

3、寺内総司令官元帥に(大東亜建設譜)

4、ジャワ日本留学生訓練所(大東亜建設譜)

5、印度独立連盟 比島支部(大東亜建設譜)

6、バンコック国庫貯金銀行 富くじ発売(大東亜建設譜)

7,タイ芸術局直営女学校の勉強風景



冒頭に、上海共同租界の還付調印式成立のニュースがあった。1943年、昭和18年の6月30日、南京で調印が行われている。下の写真はその映像の一部である。

1
(南京市において、汪精衛中華民国政府と日本政府の間で上海租界返還の調印が行われた)

2
(左側が谷駐中国大使、右側が褚民誼(チョ・ミンギ)中華民国外交部長)


この時のナレーションは下記の通りだ。

「上海共同租界こそは、米英の飽くなき野望の象徴であり、また彼らの東亜侵略の基地でもありました。100年の久しきにわたる中国民衆塗炭(とたん)の苦しみも今は昔。

6月30日、南京において日華基本条約改訂に基づき、上海共同租界行政権回収に関する取り決め、および了解事項の調印式が、日本側谷中華大使、中国側チョ民誼外交部長との間にとり行われました。

今回の上海共同租界の撤収は、真に中国解放を念願する帝国が、大東亜建設の道義性と実効性を余すところなく表したものとして、意義深いものがあります」


1842年、阿片戦争で中国が負けてから100年、イギリスとフランス、そして後からやってきたアメリカに牛耳られてきた上海。その上海租界が、日本が英米と開戦し、上海の共同租界(注:英米租界)、そしてフランス租界を接収したことでようやく解放された、という趣旨のニュースである。



今回このような引用をしたのはちょっとした理由がある。上海に赴いた際、ついでに不動産バブル崩壊情報の真偽を確かめようと、物件調査をしてみた。そして上海特有の街路名についてちょっとした新たな知識に触れることができたのだ。

Ruijin_hotel
(今回宿泊した瑞金ホテルと庭園。朝の散歩では鳥の声が清々しかった)




この12月末から年始に3日ほど上海をそぞろ歩きをしてきた。宿泊した瑞金ホテルの近くに思南路(しなんろ スーナンルー)という、落ちついたプラタナス並木の通りがあった。古い屋敷を再生した洒落たカフェやレストランなどもある。旧フランス租界のど真ん中の街路である。
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(思南路のプラタナス並木。中国観光サイトから拝借)

日本へ帰国後、ネットでこの思南路の不動産を調べてみた。するとほどなく次のような物件広告の文章に出くわした。

「思南路原名马斯南路(Rue Massenet),始筑于1912年。就在该年8月13日,法国一位著名音乐家Massenet在巴黎去世。为纪念他,法租界公董局就将此路命名为Rue Massenet即马斯南路」

日本語訳

「思南路は原名を馬斯南路(マォスナンルー Rue Massenet ルー・マスネ)と言う。1912年に建設された。この年の8月13日、フランス人の著名な音楽家Massenet(注:マスネ)がパリで死去した。これにちなみ、フランス公薫局(注:こうとうきょく。フランス租界のフランス人による行政局)長が、この通りをRue Massenetと名付けた。それが馬斯南路である」

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(洋館が残る思南路)

マスネというフランスの音楽家を検索するとwikipedeiaに、下記の説明が書いてあった。

ジュール・エミール・フレデリック・マスネJules Emile Frédéric Massenet, 1842年5月12日〜1912年8月13日)はフランスの作曲家 

オペラ で最もよく知られ、その作品は19世紀末から20世紀初頭にかけて大変人気があった。後にほとんどの作品が忘れ去られてしまったが、1980年代以来、時折リバイバルが起っている。その中でも、特に「マノン」と「ウェルテル」は、発表以来、世紀以上にわたって途切れることなく上演され続けてきている。

引用終わり

この物件広告文からわかったことは、フランスの何らかのつながりがある人物や物事にちなんで、街路名がつけられるのだということ。その街路名に対し、発音の近い中国語の漢字が当てられていることだ。




この思南路を北へ向かって歩き、テンピンルーも子供のころ遊んだという復興(フーシン)公園(旧フランス公園)までゆく。すると公園から西に出る通り、香山路(シャンシャンルー)がある。この通りも静かな落ちついた並木道だ。この通りの物件をネットで調べていたら、やはり次のような広告文が出てきた。

「香山路原名莫利爱路(Rue Moliere),为1914年法租界公董局修筑,以法国戏剧家莫里哀命名。1943年汪精卫政权接收上海法租界时改名香山路」



日本語訳

「香山路(シャンシャンルー)は原名を莫利愛路(モリアイルー Rue Moliere ルー・モリエール)と言う。1914年にフランス公薫局が建設したので、フランスの作家の莫里哀(モリアイ)にちなみ命名された。1943年、汪精衛政権が上海フランス租界を接収したが、その時に改名して現在の香山路(シャンシャンルー)となった」


1941年12月8日、日本は英米に宣戦布告、オランダと蒋介石中華民国が逆に日本に宣戦布告。日本軍は即日武力を持ってして上海の英米共同租界を接収。当時フランスはドイツ傀儡(かいらい)のビシー政権が行政を行っていたためか、フランス租界も抵抗なく接収した。



そして1943年6月30日、日本は汪精衛中華民国政府に租界返還を行った。汪精衛政権がまず行ったことの一つが、街路名の改名であった。フランス語の当て字である莫利愛路(モリアイルー)は、フランスとは無関係の名前、香山路(シャンシャンルー)となった。租界内の全ての街路が同様に改名された。

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(冬の香山路)

香山路(シャンシャンルー)・・・・・・、この並木道を歩けば分かるが、当時もおそらく緑が豊かで、庭先の木々からは花の香りが感じられたはずだ。中国語名に改名するときの中国人行政官の思いがにじんでいるような気がする。まずは通りの名前から、欧米からの解放を始めるのだという思い。綺麗な通りのままでいてほしいという思い。とてもいい名前の通りだと思う。

日本軍の工作によりできた汪精衛政権は、内心忸怩(じくじ)たる思いで、傀儡(かいらい)政権の汚名を自らまといながらも、100年にわたる英米仏からの租界解放を実現させ、上海の中国回帰、一例としての街路名の改名を進めていたのだ。



私はテンピンルーの研究をしていて、かねてより、街路の名前が当時と現在で違ってしまっていることがとても不便に感じられてならなかった。街路名を把握するには漢字でまず二つ覚えないといけない。なおかつ、フランス語もしくは英語の街路名も覚えないといけない。全ての街路に三つの名前が存在するのだ。



そして、私は新しいほうの漢字の街路名は、戦後になって中国共産党政権が革命思想のもと改名したのだと思っていた。ところが違った。日本軍の保護下にあった汪精衛政権が名付けたのだった。歴史を知ることで、街路名が複数ある事実は受け入れることができるようになった。欧米支配者の名付けた街路に、後から漢字の当て字をする屈辱感をぬぐい去るのは当然のことだろう。



ところで、ネットで見ることのできる旧フランス租界の不動産広告文では、高級物件であればあるほど、かつてフランス語の街路名がついていたことを売りにしている物件が多い。かつての屈辱のあかしが、むしろ付加価値になる。歴史とはなんと皮肉なものなのだろう。

同時に、少なくとも上海の租界解放を果たした当時の日本。中国への新たな侵略者、という歴史的事実はある。しかし、欧米からの中国解放と、明治維新以来の日本的良さの伝播の思い、というものがもしかしたら一部あったのではなかろうか・・・?大東亜共栄圏思想の根っこの一本くらいには、そういう思いも込められていたのではないだろうか・・・?




1940年、「上海人文記」の「徐小姐のロケット(シュ・シャオチェのロケット)」の章で、映画プロデューサー松崎啓次は外連味(けれんみ)無く、支那の指導者たらんとする自分、そして指導者たる日本を描いた。

2012年、旧フランス租界を出でて、きらびやかな高層ビル街から一歩中国人街に歩み入り、その不衛生さと貧しさ、配慮の無さ、交通法規に対する無秩序さなど、21世紀の現在になってもいまだ解消されていない中国に触れるにつけ、そんな思いが一瞬頭をよぎったのも事実だ。

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コメント

秋乃 夕陽様

貴重なコメントを頂きありがとうございます。お返事が遅くなりすみません。しばらくこのブログは筆を置いて、管理をしておりませんでしたのでお詫びいたします。

さて、上海での実際のできごとのご伝聞を教えていただきありがとうございました。

過去に過ちを犯した、それは一体誰か。日本か、日本人か、日本の誰か、天皇か、民衆か。軍か、財閥か。素直に命令に従った兵士、将校は素直に言うことを聞くのが間違いだったのか、滅私し公に尽くす素晴らしき人物だったのか。様々に解釈できると思います。

現在の中国は周辺民族に対し、過去の日本と同じような行動を取り始めています。私は中国が日本の通ってきた歴史から学んでほしいと思っています。

東亜同文書院の第34期生 上海班 山内正朋氏(1938年卒業)が書いた「上海嘆異抄」をこのブログの2010年8月29日記事にまとめておりますのでぜひお読み下さい。http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post.html

当時の支那は、そこひ(目のくもり。目の障害)を患っていたのです。

その、そこひ患者の目を治療しようとした孫文を助けたのは日本人でした。これは一例です。

私は、当記事においては、こう書きました。

「中国への新たな侵略者、という歴史的事実はある。しかし、欧米からの中国解放と、明治維新以来の日本的良さの伝播の思い、というものがもしかしたら一部あったのではなかろうか・・・?大東亜共栄圏思想の根っこの一本くらいには、そういう思いも込められていたのではないだろうか・・・?」

すべて肯定できないにしても日本の行為の一部に、「そこひの治療」という思いがあったのではないでしょうか。当時の文献を読むと、率直にそう本当に思っていた日本人が大多数に思います。

傲慢にすぎるかもしれませんが、あれから80年経とうとしている今、現在の中国と日本を比べたときに、平和国家日本と世界を力で牛耳ろうとしている中国、という図式が見えてきます。過去の反省に立った現在の日本には、自らが行った行為の結果がどういう結末になったのか、を改めて中国に伝えていくべき役割があるのでは、と感じています。

私がこのブログで書いてきた思いはただただ、日中間で戦争を再び起こしてはならない、という思いです。


投稿: bikoran | 2016年2月 9日 (火) 23時41分

初めまして。
戦時中に上海に住んでいたという方のお話を聞く機会がありました。
その方のお父様は天皇機関説を唱えた方のお弟子さんで、東亜同文書院大学で教鞭をとっていたそうです。
家族は大学の近くにあったイタリア租界に住んでいたそうですが、自由に行き来出来る上海租界にも行っていた際に、そこの大通りで日本の将校が中国人にスパイだと言って、軍用犬をけしかけて酷い目に遭わせていたそうです。
お話をしてくださった方は当時まだ幼かった為、その方のお母様が「見ちゃダメ」とショッキングな現場から目を逸らさせる為に庇ったそうですが、中国人を日本人よりも下に見ていた当時の風潮からして、日常茶飯事の出来事として誰も可哀想とは思わなかったし、助けようともしなかったと言っていました。
だから、日本の中国侵略が「欧米からの中国解放と、明治維新以来の日本的良さの伝播の思い」だとは、私には到底思えないのです。
過去に過ちを犯した日本人の子孫として、真実から目を逸らさず、体験者の声を通して、誤りを正していきたいと思います。

投稿: 秋乃 夕陽 | 2015年8月28日 (金) 00時15分

蓮様

こんにちは。最近は仕事面でなかなか時間が取れません。書きたいことはあるのですが。

日中の関係は滔々と流れてその方向は変えようがないようにも感じますね。大変な時代が来そうな気がします。

投稿: | 2012年11月12日 (月) 19時32分

ブログが更新されるのを心待ちにしています。

投稿: 蓮 | 2012年11月12日 (月) 00時53分

潤様

最新の情報をいただきありがとうございます。上海特派員の方の記事ですね。
ドラマの話は3年くらい前からありましたが、立ち消えになったように思っていました。昨年すでに放映されているのですね。今年も新たに制作されると。
ぜひとも、鄭蘋如を単純な愛国烈士としてだけでなく、二つの祖国を持ったゆえの葛藤を持った女性として描いてくれたらと思います。また日本側にも平和を求めていた人物がいたことも。

投稿: bikoran | 2012年3月26日 (月) 11時37分

今朝(3/26)の産経WEB版です。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/120326/chn12032608180003-n1.htm

投稿: 潤 | 2012年3月26日 (月) 10時11分

蓮様

コメントありがとうございます。
欧米と同じく全ての道路に名前をついていると便利ですね。日本は大通りしかつけませんね。道でなく面でつながるムラ社会が反映しているのでしょうか

投稿: bikoran | 2012年2月27日 (月) 08時22分

道路名は解放後につけられたのだと思っていました。
新しい文章たのしみにしてまっています。

投稿: | 2012年2月27日 (月) 00時54分

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