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2013年3月の2件の記事

2013年3月17日 (日)

ポイントオブノーリターン5

クラーク・カー大使が香港滞在を短く切り上げ上海へ急ぐことになったのは、1937年末のあたりから、上海でのイギリスビジネス界への日本側の圧力が急速に強まってきたのと、日本軍による挑発が盛んになってきたためだ。

1937年12月5日、上海南方の街、蕪湖(ぶこ、ウーフー)を日本軍が空襲をした時に、3隻のイギリス商船が損害を受け、イギリス海軍レディーバード号にも砲弾の破片が当たる事件があった。一週間後、再びレディーバード号が挑発を受けただけでなく、ビー号も至近弾を受けた。この攻撃では、アメリカ海軍パネイ号が爆撃され沈没、乗組員に死傷者が出た(日本側は、偶発的な誤爆であると主張)。

一方、1938年1月4日には、上海で日本軍が行進しているときにテロリストが手榴弾を投げ込む事件も発生。日本陸軍上海憲兵隊は、共同租界内の管理強化をイギリスに要請していた。イギリスは、ヒューゲッセン駐華英国大使が日本軍機の機銃掃射を受けて帰国して以来約半年間、大使不在が続いていたため、さまざまな外交交渉で見劣りがしていた。そのような中でのクラーク・カー大使の早期着任要請だった。

1938年2月下旬に上海に着いたクラーク・カー大使は、情況分析に約1ヶ月かけた末に、蒋介石に会う準備を始めた。就任の挨拶ということになる。妻のティタも同行している。ちなみに、日本陸軍上海憲兵隊長の林秀澄が台湾から上海へ異動してくるのが3月1日付けなので、ちょうどこの頃のことだ。



クラーク・カー大使が蒋介石へ会うまでの旅程は次の通りだ。

上海を出て香港に到着、数日間を過ごしたあと、イギリス海軍の砲艦で広東へ。広東からは特別列車を仕立てて、800kmの鉄道の旅で杭州へ。杭州から飛行機に乗って、重慶空港に1938年4月9日に到着。空港からはセダンチェアーの馬車に乗って、急峻なガケを登り、中華民国の首都重慶の官邸街に到着。4月12日、公式に就任披露が行われた。

中華民国は本来の首都南京が日本軍に占領されていたため、重慶を首都と定めていた。

下の写真は重慶での就任披露での記念写真。おそらく蒋介石を除く重慶政府要人らだと思われる。最前列真ん中がクラーク・カー大使。Radical Diplomatより転載

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首都重慶で中華民国政府に挨拶を済ませたクラーク・カー大使は、今度は漢口(現在の武漢)にまで戻らなければならなかった。重慶には蒋介石はおらず、戦場に近い漢口で軍事的な指揮を執っていたのだ。クラーク・カー大使と妻ティタは、今度は揚子江を600kmも蒸気船で宜昌(ぎしょう)まで下り、そこから漢口への約300kmを飛行機で飛んだ。カー大使は、ソ連とアメリカの両大使と会談をした後、ついに4月24日、蒋介石と会談、夕食を共にすることができた。



蒋介石夫人の宋美麗はアメリカで教育を受けていたため、流ちょうな英語で通訳をすることができたことも幸いし、カー大使は蒋介石の考えに好印象を持ったようである。蒋介石側はクラーク・カー大使に対して、イギリスの対中支援が足りないと申し出るとともに、できるだけ長く漢口にいるようにうながした。英国大使がいる間は、日本軍が爆撃をしてこないだろうという算段である。逆に言うと、すでに漢口が、1938年春の段階で日本軍の爆撃の危機にあることを示している。



実際の漢口攻略戦と漢口爆撃は1938年8月から10月25日のことで、日本軍の占領で終わった。同時に、漢口爆撃の人的被害の写真がアメリカで大きくクローズアップされ、アメリカ人の反日意識が高まってしまう結果ともなった。

約5週間の長旅の末、5月1日にクラーク・カー大使一行は上海に戻ってきた。妻のティタにとってはとても重荷となった旅だったようで、彼女はその後の夫、カー大使への同行を拒むようになってしまった。30歳代半ばの彼女にとっては内陸中国で黄砂にまみれるよりは、上海のナイトライフを楽しむ方を取ったようだ。

一方、クラーク・カーは、漢口が日本の攻略作戦に晒されるまでに少なくとももう一度漢口の蒋介石のもとを訪れているようである。

The West Australian 1938年7月1日の記事にはこう書いてある。

Kerrvisithankow19380630

日本語訳

和平の仲介を否定

イギリス大使が語る

香港 6月30日 

駐華英国大使(サー・アーチバルド・クラーク・カー大使)は、本日、漢口へ向かう飛行機の中で、彼が和平の仲介をしているといううわさを否定した。彼はこう言った。「大使というものはポケットの中にいつも平和の旗を持ち歩いているわけじゃないんだよ。」


相も変わらずの和平仲介のうわさ記事だ。今度は英連邦オーストラリアの新聞に出た。英国にもなんとか和平に持ち込めないか、という期待感があり、それがこのような記事に現れるのだろう。

この訪問からほどなくして、蒋介石は漢口を脱出し、重慶を根拠地とせざるを得なくなる。

続く


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2013年3月11日 (月)

ポイントオブノーリターン4

Clark_kerr_and_tita_shanghai

写真は上海の英国大使館に赴任したクラーク・カー大使(右から二人目)と妻のティタ(その隣)「Radical Diplomat」 より転載

ここまでの新聞記事を見た限りでは、日本側は、イギリスに日中の和平仲介の役目を期待していた一方、中国側は中国側からの和平仲介は望んでいない、という印象操作をしようとしていたことがわかる。

ところが、クラーク・カー大使の伝記「Radical Diplomat」の87ページに、どうやらそうでもないような記述があった。

以下引用

Since July the Chinese had appealed for British efforts to galvanize international disapproval and push for economic sanction against Japan. In addition, China hoped that Britain would lead an attempt to broker peace. Chamberlain was reluctant to be seen to do either with any alacrity: he also padded away Chinese requests for military and financial aid.


引用終わり


日本語訳

中国は、7月(注:1937年。盧溝橋事件のあった時期)以来、イギリスが、日本への国際的な批判と対日制裁強化を主導するよう、主張していた。
それに加えて、中国は、イギリスによる日本との和平仲介を望んでいた。チェンバレン(注:イギリス首相)は、そのどちらも簡単にできるなどと思われたくはなかった。それどころか、彼は中国からの軍事的、財政的支援要求を断った。


赤字で示した部分の証拠となる事実は、この本には見あたらなかったが、中国側にも日中戦争当初は、早期和平の希望もあったようである。しかし、そのことを中国は悟られたくはないために、新聞記事では強く否定することとなったようだ。

また、クラーク・カー大使の思いとは別に、イギリス本国のチェンバレン内閣は、この時点で中国への肩入れを避ける傾向があったようだ。これは、極東における日英軍事力のバランスが圧倒的に不利であること、来るべきヨーロッパ戦線に集中すべきと判断していたこと、アメリカの参戦を待っていたことが理由であろう。

さて、1938年2月17日、クラーク・カー大使は香港に到着した。その夜の歓迎ディナーで彼は、蒋介石夫人宋美麗の兄で、政治的にも経済的にも中国国民党の5本の指に入る実力者、宋子文と会っている。

宋子文は、1940年以降、たびたび日本陸軍の今井武夫が和平交渉をした相手、宋子良の兄でもある。ただし実際には、今井武夫は偽の宋子良と面会をしていたふしもある(「支那事変の回想」今井武夫著による)。

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上の写真は左側が蒋介石、右側が宋子文。「Shanghai  A Century of Change in Photographs 1843-1949」より転載



クラーク・カー大使は、香港に長めに滞在して、多くの現地在住イギリス人から中国情報を仕入れようとしていたようだが、上海での緊迫した情勢は、それを許さなかった。上海の英国大使館からの電話にせかされて、その月のうちに彼は妻のティタと共に、上海に上陸することとなった。




1938年の2月といえば・・・・・

近衛文隆を政治的に葬り去った日本陸軍憲兵隊の林秀澄が、台湾から上海への赴任命令を受けたのも1938年2月であった。

 ↓参考ブログ記事 「上海防空戦 8」

台湾初空襲の緊張もようやくとけた2月末のことだった。林秀澄は辞令を受けた。

「1938年3月1日付けをもって、中支那派遣軍 憲兵隊付き少佐に任ず」

 

中支那派遣軍憲兵隊とは上海市域を担当する憲兵隊である。彼は3年の台湾勤務を経て、ようやく東京に帰れるものとばかり思っていた。それが上海だ。抗日の巣窟、事変の混乱もさめやらぬ魔都上海である。

 

林は頭がくらくらしてきた。しかし気を取り直して、上海での防諜と、抗日テロ対策に専念することを誓うのだった。

 

その日も上海では、鄭蘋如(テンピンルー)が日本のラジオ局、「大上海放送局」のアナウンサーとして、可憐な声を電波に乗せていた。同時に、ピンルーは抗日地下組織の運用メンバーにもなっていた。林秀澄が鄭蘋如の名を知るのに、それからさほど時間はかからなかった。

引用終わり

林秀澄とクラーク・カー。

この時点で、知らない者同士の二人は、やがて互いを強く意識せざるを得なくなる。

続く

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