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2013年6月 2日 (日)

ポイントオブノーリターン6

クラーク・カー大使の尽力もむなしく、1938年7月のイギリス議会は中国援助案を否決した。この時の中華民国側の落胆は相当なもので、「ソ連への結びつきを強化する」という、脅しに近い示唆もイギリスに対してなされる始末だった。

(このソ連へのアプローチの話は、以前にまとめた当ブログ記事 「上海防空戦 8」 を再読すると、あながち嘘ではないかもしれない。日本軍によって壊滅させられた中国空軍は、ソ連空軍の支援による立て直しを模索していた)

そのころヨーロッパでは、ヒットラードイツがチェコスロバキアのズデーデン地方を占領した問題について英仏独伊の4カ国がミュンヘン協定へ向けた会談を行っていた。その結果は、ドイツが既に占領したところは現状維持とし、その代わりに、新たな領土拡張を行わない、とするものであった。これは既に領土拡張を果たしたヒットラードイツの外交的勝利である。



中国大陸に置き換えると、日本のこれまでの占領地を認める代わりに新たな領土拡張は認めないという考えに結びつく。日本側はミュンヘン協定を肯定的にとらえ、中国側は外交的な警戒を強めたことは想像にかたくない。




そのような情況の中、1938年の10月14日、クラーク・カー大使は、長沙(ちょうさ)にいる蒋介石と会談するために上海を出発した。長沙は、中華民国政府のある重慶と、上海の中間地点にある都市だ(長沙の位置)。 蒋介石は、それまで軍事的な指揮をとる根拠地としていた漢口(現在の武漢)を、早晩日本軍が攻略することを見越して密かに脱出しており、長沙を新たな根拠地としていた。実際、10月12日、香港の北にあるバイアス湾に3万人の日本軍が上陸、香港を孤立させ、広東を占領、10月25日には日本軍は蒋介石が逃げた後の漢口を攻略した。

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(写真中央に蒋介石夫妻、左にクラーク・カー大使。Radical Diplomatより転載)

クラーク・カー大使の長沙滞在は、11月24日まで約1ヶ月続く長いものとなったが、蒋介石との最初の会談は11月4日になされた。会談内容は公式には残されていないが、彼の伝記「Radical Diplomat」によれば、クラーク・カー大使から蒋介石へ、反日テロリストの活動場所として、天津のイギリス租界を利用しないことを要求している。反日テロリストは、暗殺や爆発などのテロ行為の後に、中国警察や日本軍憲兵の影響力の及ばないイギリス租界へ逃げ込む事件が多発していたようである。おそらくこれは上海も同じ情況であったろう。

会談の二日前の1938年11月2日には、日本政府が「東亜新秩序」なる宣言を発表した。これは

「アジアはアジア人のものであり、欧米列強からアジア人の手に取り戻すべきだ」

という宣言で、満州、日本、中国が平和に手を結ぶことを呼びかけるものだった。蒋介石国民党陣営は、アメリカはもとより、イギリスからの支援もろくに得られない情況や、日本軍の圧倒的な軍事力の前に、日本との融和を求める声も出てきているタイミングだった。蒋介石は、クラーク・カー大使に対して、「もし日本が中国に勝てば、イギリスのアジアにおける地位は終わる」と警告し、危機感をあらわにしたようである。

さて今回のブログ記事「ポイントオブノーリターン」の目的の一つは、クラーク・カー大使が、近衛文隆を重慶に連れて行き、蒋介石、あるいは重慶側要人に会わせて日中和平の一助を担おうとした、という仮説の検証である。それは、繰り返しになるが、中山優氏が「近衛文隆追悼集」に寄せた下記の文章がヒントになっている。中山優氏は、満州建国大学教授で、当時の前の首相で父ある近衛文麿のブレーンの一人。父親文麿が長男近衛文隆の中国戦線慰問旅行の付き添いに指名した人物だ。

この慰問旅行は、1938年10月から11月にかけて行われ、満州、内モンゴル、南京、漢口、そして上海から日本へ帰国、というルートである。そして文隆が上海に滞在中にクラーク・カー大使から、おそらくは間接的に、誘いがあったとされている。

以下、「近衛文隆追悼集」より中山優氏の文章を引用

その頃(注:中国戦線慰問旅行をした1938年10月頃)、英国の駐支大使はカーという人であった。これが 日本の有力者に一度重慶を見せたい。そうして、国民党政府の真剣な実状を見てもらいたい。生命の安全は英国が保証するという ことで、丁度その頃上海に来ていた毎日新聞の高石真五郎氏にこの話を持ち込んだ。高石氏は行けぬが、文隆氏はいかがだろうということを、高石氏の部下のものがすすめて来た。文隆君は

「捕虜になってもいいから行きましょう」

という。私も食指が動かぬわけではなかったが、父君の依託もあるので、強いて止めて上海をつれ出した


引用終わり

このように近衛文隆が重慶に(あるいは蒋介石に会いに)行くチャンスがあったことは日本側の文献に2、3残されているのだが、ことの真偽は不明だった。今回、クラーク・カー大使の伝記「Radical Diplomat」を紐解き、クラーク・カー大使が実際に1938年10月14日上海発で、蒋介石を訪問しているが明らかになったことで、彼が日本人記者を同行させようとしていたことの信憑性が高まった。そして最初に名前が上がったのは、毎日新聞の高石記者だったが、毎日新聞社がこの話に乗らなかったのか、何かの都合が悪かったのか、次に近衛文隆に白羽の矢が当たった、ということだ。

外交交渉のために国の要人同士が会談するときに、マスコミが同行することは現代では当然のことだが、当時もそうだったようだ。前回のブログ記事でも引用したが、ザ・ウエスト・オーストラリアン紙の1938年7月1日にはこう書いてある。


日本語訳

和平の仲介を否定

イギリス大使が語る

香港発 6月30日 

駐華英国大使(サー・アーチバルド・クラーク・カー大使)は、本日、漢口へ向かう飛行機の中で、彼が和平の仲介をしているといううわさを否定した。彼はこう言った。「大使というものはポケットの中にいつも平和の旗を持ち歩いているわけじゃないんだよ。」

引用終わり

この記事は、クラーク・カー大使が搭乗した飛行機の中で、記者が聞いた話になっている。おそらく同行記者だったのだろう。


さて、偶然訪れた近衛文隆の蒋介石訪問、面談のチャンスは、付き添い人の中山優氏の慎重な判断によって実現しなかった。文隆はこの中国戦線慰問旅行から11月に日本に帰国した。


そして、翌年の1939年の2月に、今度は上海同文書院という日本人向け大学の学生主事という肩書きを得て、再び上海の土を踏むことになる。彼の悲劇的運命を決定づけた上海における日中和平への試みに、果たしてクラーク・カー大使が絡むのかどうか、を次回は検証してみたい。

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