« 2013年3月 | トップページ | 2017年4月 »

2013年6月の2件の記事

2013年6月 9日 (日)

ポイントオブノーリターン7

近衛文隆は、1939年の2月に上海の地をふたたび踏み、東亜同文書院の職員として働き始めた。これは単に失業中の彼が新たな就職先を見つけた、ということではなく、前の首相で父でもある近衛文麿の和平密使の一人として送り込まれた、のであろうと私は見ている。

近衛文隆の赴任からほどなくして、テンピンルー(鄭蘋如)が日本人の誰かの紹介を携えて近衛文隆の職場を訪れている。この紹介者は、同じく近衛文麿が和平密使として一足早く上海に送り込み、和平工作組織「小野寺機関」に属していた早水親重(はやみちかしげ)と推測される。このあたりは、当ブログ記事「テンピンルーの悲劇 前編」を参照いただきたい。

近衛文隆は、その後5月に、影佐機関の暗躍によって日本に強制的に帰国させられるまでの約4ヶ月弱、上海で和平工作に動くことになるが、その間に彼にとって二度目のとなる蒋介石訪問のチャンスが巡ってきたことを、日本の文献で見ることができる。

以下、繰り返しとなるが「近衛文隆追悼集」に寄せた早水親重の文章を引用する。

 従って話は、打開の方途(注:停滞している日中和平交渉の打開)を考えようじゃないか、という事になって別れた(注:東亜同文書院での早水親重と近衛文隆の最初の面会から別れた)。

 それを機会にたびたび会合する事になり、蒋介石氏と直接交渉を開く以外に方途無く、その方法等につき情報を持ち寄って協議したものであった。一方にはいわゆる影佐氏の梅機関等の汪精衛氏の活動も始まり、片や我らの動きもいつとはなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の彼に対するいたずら的謀略等もあった。

 また、当時英国の駐華大使たりし、パドリック・カー(注:原文のまま。本名はクラーク・カー)氏との会見で、「自分が斡旋するから直接交渉に重慶に行かれては」、との彼への示唆もあり、速やかに上京する事にした。

 五月下旬相次いで入京し、朝野に呼びかけ、当時参謀本部部員たりし、故秩父宮殿下にまで意見具申する等、共に情熱を傾け、一時好転の兆しも見えたが、かえって当局を刺激するところとなった。

引用終わり

上記の早水親重氏の文章からは、1939年4月から5月頃にかけて、クラーク・カー大使が近衛文隆に対して、自分が紹介するから蒋介石との直接交渉に重慶に行ってはどうか、という提案があったととれるので、今回はここを検証してみる。

4p3a0499

(写真は会食中のクラーク・カー大使、右が蒋介石、左に蒋介石夫人。夫人は給仕に何か注文をしているところであろうか。Radical Diplomatより転載)

クラーク・カー大使の伝記、「Radical Diplomat」の103ページに以下の文章が書いてあった。

Clark Kerr left for Chungking, whrere he arrivied on 19 April.
中略

Clark Kerr was naturally sympathetic to the Chinese resistance, but he was also now resident in Chungking, had met Chiang on the twenty-second and even been for a picnic the following week with the Generalissimo and Madame Chiang.
中略

He left Chungking on 19 of May, travelling to Hong Kong, where he hoped to sort out the practicalities of his proposed internment scheme. In Hong Kong he also had several meeting with Edgar Snow, Gunther Stein and others of the pro-Chinese left in the colony who strengthened his resolve on the issue.

 

日本語訳

 

クラーク・カー大使は、(上海から)重慶に出発、4月19日に到着。

 

中略

 

クラーク・カー大使は中国人に対して同情心を持つにいたっていたが、彼は今や重慶の住民ともなった。4月22日に蒋介石に会い、翌週にはなんと蒋介石夫妻とピクニックにも行っている。

 

中略

 

重慶を5月19日離れ、香港に立ち寄り、天津事件(注:天津のイギリス租界における日本側官憲の捜査権限についての圧力)の収集策を練った。彼はまた香港で、エドガー・スノーや、ギュンター・シュタインらの親中派と面談をし彼の解決策に賛同を得た。

引用終わり

ということで、早水親重の追悼文の、近衛文隆がクラーク・カー大使から重慶の蒋介石訪問を誘われたのが1939年4月から5月であるという記述と、クラーク・カー大使の伝記の4月19日重慶到着、5月19日重慶を離れる、という記述はタイミングが整合している。

以下、関連のオーストラリアの新聞記事を掲載する。

Clarkkerr_19390412peace_talk

日本語訳

英国大使の交渉

早期和平交渉のうわさ

上海(1939年)4月9日

東京駐在の英国大使ロバート・クレイギーは本日、上海訪問を短く切り上げ東京へ発った。駐華英国大使アーチバルド・クラーク・カーは、クレイギー大使との折衝後、重慶(中国西部の政権首都)へ出発した。ある重要な進展の可能性が噂されている。それは大使が早期和平を試みるという噂だ。

Clarkkerr_19390609peacetalk_deny

日本語訳

うわさを否定

ささやかれているイギリスの和平提案

東京(1939年)6月8日

駐華英国大使が、蒋介石に対して和平の道筋を開くために辞任を要求した、との噂が、今日の東京株式市場をかけめぐり、株式は全面高となっている。

上海(1939年)6月8日

駐華英国大使(アーチバルド・クラーク・カー)は、蒋介石将軍に和平の示唆をしてはいない、と公式に発表した。

以上、1938年の10月の蒋介石・クラーク・カー会談時と同様、日本側にはクラーク・カー大使に和平の望みを託す思いが記事となってあらわれており、イギリス側がうわさを即座に否定する図式が繰り返されている。



ここで横道に少し逸れるが、上記のクラーク・カー大使の伝記の中に、ギュンター・シュタインという名前が出たので、思い出した。以前の当ブログ記事「テンピンルーとスパイゾルゲ」で出てきた名前なのだ。そこで前の記事を読み返してみると、ギュンター・シュタインは、ゾルゲスパイ団の一員で、東京と中国を行き来して伝書係になっていた人物だった。ゾルゲスパイ団はクラーク・カー大使とも、日本の軍事情報について情報交換をしていたようだ。

以下、以前のブログ記事「テンピンルーとスパイゾルゲ」の中の文章を引用する。

上海のゾルゲ一派と日本のゾルゲ一派の間には無線連絡以外に、伝書使が行き来していたのも事実だ。

 

上に引用した永松の文章の中に、ゾルゲ一派の無線技師、マックスクラウゼンの妻、アンナが下着に隠してマイクロフィルムを長崎出港の船で上海に持ち 込む記述があった。映画のようなシーンであるが、ゾルゲ自身によって書かれた「獄中手記」(1962年みすず書房出版)によるとこう書いてある。

 

かくして、私はクラウゼン、クラウゼン夫人、ギュンター・シュタイン、そして彼女の女友達といった数名の者を、伝書使として使うことができた。1937年の初めから1938年の夏にかけて、私はこの連中を代わる代わる上海へ派遣して書類を運ばせた。

引用終わり


また、おなじく名前の出てきたエドガー・スノウは、共産主義を信奉するアメリカ人作家であり、後の毛沢東のプロパガンダにとって無くてはならない人物となった、この時期の彼は反日プロパガンダの片棒を担いでいた。




話を元に戻す。

今回、このように日英の文書を合わせ読むことで、クラーク・カー大使が近衛文隆に和平進展にプラスになるだろうとの望みをかけて、一回目は1938年10月に長沙にいる蒋介石に、二回目は1939年4月に重慶にいる蒋介石に会わせようとした、あるいは少なくとも中華民国政府を訪問させようとした、という仮説について、時期の整合性が裏付けられた。

私は、この二度目の蒋介石との会談への同行プランには、テンピンルーの推奨もあったと踏んでいる。英国大使館筋と日本側の人的関係は、中国権益と租界統治における対立的立場から難しいものがあったはずである。テンピンルーは、近衛文隆との交際を通じて彼の「人となり」を知る立場であり、また、父親が日本で教育を受けた中国人高等検察官、母親が日本人、そして英語を話せるという希有な人材であった。彼女の仲立ちがあったからこそのプランだったのではないだろうか。



しかし、日中和平の進展にいくばくかの望みを持っていたクラーク・カー大使は、その後1939年6月に入って、銃撃の恐怖にさらされてしまう。決して殺害には至らないのだが、恐怖を与える襲撃のやり方がなされたうようだ。下記に関連記事を掲載する。
Clarkkerr19390614_threats

日本語訳

大使への脅迫

クラーク・カー大使の安全確保を増強

上海(1939年)6月13日

駐華英国大使、アーチバルド・クラーク・カーの安全確保のため、特別警戒が取られている。これは、彼に対する殺害予告にもとづくものだ。中国人の武装警官が、彼の私邸のある和平通りに配置され、イギリス軍と警察官も増強された。大使がどこかに行くときは昼も夜も自動車とバイクに先導され、車内では防弾チョッキを着た武装警官にガードされた。

英国大使館は、先週の土曜日に思い当たることがあった。前回の脅しよりも今回の方が強いものだ。しかし、これが日本側の影響下にあるテロリストの行為なのか、天津租界の殺人容疑者を日本側に引き渡そうとしているイギリスに対する中国側の警告なのかを測りかねている。

この脅迫が行われた1939年6月は、影佐機関、ならびに上海憲兵隊長林秀澄らによる、近衛文隆や早水親重ら和平工作員の日本への強制帰国、テンピンルーと情報交換していた反戦和平派の花野吉平ら軍内文官の逮捕の流れがあった。


その後の影佐機関(梅機関)と、林秀澄率いる上海憲兵隊の傘下にあるテロリスト集団「ジェスフィールド76号」によるテンピンルー射殺の事実などを合わせて考えると、クラーク・カー大使への銃撃による脅迫は、日本側(影佐機関)による工作だと思われる。降ってわいたような、近衛文隆による蒋介石直接訪問および直接和平交渉プランは、影佐機関にとってはやっかいな障害物となったのだろう。



残念ながら、クラーク・カー大使による日中和平仲介につながる動きは、この銃撃騒ぎを境に全く見えなくなりなった。第三国を通じた日中和平はその後は行われた形跡がない。

そして影佐一派が進めていた「汪精衛・中華民国」、との和平が進められると同時に、「蒋介石・中華民国」、との戦争は継続される、という二重構造となった。そして、この構造は1945年8月15日まで続きくのだった。

| | コメント (1)

2013年6月 2日 (日)

ポイントオブノーリターン6

クラーク・カー大使の尽力もむなしく、1938年7月のイギリス議会は中国援助案を否決した。この時の中華民国側の落胆は相当なもので、「ソ連への結びつきを強化する」という、脅しに近い示唆もイギリスに対してなされる始末だった。

(このソ連へのアプローチの話は、以前にまとめた当ブログ記事 「上海防空戦 8」 を再読すると、あながち嘘ではないかもしれない。日本軍によって壊滅させられた中国空軍は、ソ連空軍の支援による立て直しを模索していた)

そのころヨーロッパでは、ヒットラードイツがチェコスロバキアのズデーデン地方を占領した問題について英仏独伊の4カ国がミュンヘン協定へ向けた会談を行っていた。その結果は、ドイツが既に占領したところは現状維持とし、その代わりに、新たな領土拡張を行わない、とするものであった。これは既に領土拡張を果たしたヒットラードイツの外交的勝利である。



中国大陸に置き換えると、日本のこれまでの占領地を認める代わりに新たな領土拡張は認めないという考えに結びつく。日本側はミュンヘン協定を肯定的にとらえ、中国側は外交的な警戒を強めたことは想像にかたくない。




そのような情況の中、1938年の10月14日、クラーク・カー大使は、長沙(ちょうさ)にいる蒋介石と会談するために上海を出発した。長沙は、中華民国政府のある重慶と、上海の中間地点にある都市だ(長沙の位置)。 蒋介石は、それまで軍事的な指揮をとる根拠地としていた漢口(現在の武漢)を、早晩日本軍が攻略することを見越して密かに脱出しており、長沙を新たな根拠地としていた。実際、10月12日、香港の北にあるバイアス湾に3万人の日本軍が上陸、香港を孤立させ、広東を占領、10月25日には日本軍は蒋介石が逃げた後の漢口を攻略した。

19414p3a0501

(写真中央に蒋介石夫妻、左にクラーク・カー大使。Radical Diplomatより転載)

クラーク・カー大使の長沙滞在は、11月24日まで約1ヶ月続く長いものとなったが、蒋介石との最初の会談は11月4日になされた。会談内容は公式には残されていないが、彼の伝記「Radical Diplomat」によれば、クラーク・カー大使から蒋介石へ、反日テロリストの活動場所として、天津のイギリス租界を利用しないことを要求している。反日テロリストは、暗殺や爆発などのテロ行為の後に、中国警察や日本軍憲兵の影響力の及ばないイギリス租界へ逃げ込む事件が多発していたようである。おそらくこれは上海も同じ情況であったろう。

会談の二日前の1938年11月2日には、日本政府が「東亜新秩序」なる宣言を発表した。これは

「アジアはアジア人のものであり、欧米列強からアジア人の手に取り戻すべきだ」

という宣言で、満州、日本、中国が平和に手を結ぶことを呼びかけるものだった。蒋介石国民党陣営は、アメリカはもとより、イギリスからの支援もろくに得られない情況や、日本軍の圧倒的な軍事力の前に、日本との融和を求める声も出てきているタイミングだった。蒋介石は、クラーク・カー大使に対して、「もし日本が中国に勝てば、イギリスのアジアにおける地位は終わる」と警告し、危機感をあらわにしたようである。

さて今回のブログ記事「ポイントオブノーリターン」の目的の一つは、クラーク・カー大使が、近衛文隆を重慶に連れて行き、蒋介石、あるいは重慶側要人に会わせて日中和平の一助を担おうとした、という仮説の検証である。それは、繰り返しになるが、中山優氏が「近衛文隆追悼集」に寄せた下記の文章がヒントになっている。中山優氏は、満州建国大学教授で、当時の前の首相で父ある近衛文麿のブレーンの一人。父親文麿が長男近衛文隆の中国戦線慰問旅行の付き添いに指名した人物だ。

この慰問旅行は、1938年10月から11月にかけて行われ、満州、内モンゴル、南京、漢口、そして上海から日本へ帰国、というルートである。そして文隆が上海に滞在中にクラーク・カー大使から、おそらくは間接的に、誘いがあったとされている。

以下、「近衛文隆追悼集」より中山優氏の文章を引用

その頃(注:中国戦線慰問旅行をした1938年10月頃)、英国の駐支大使はカーという人であった。これが 日本の有力者に一度重慶を見せたい。そうして、国民党政府の真剣な実状を見てもらいたい。生命の安全は英国が保証するという ことで、丁度その頃上海に来ていた毎日新聞の高石真五郎氏にこの話を持ち込んだ。高石氏は行けぬが、文隆氏はいかがだろうということを、高石氏の部下のものがすすめて来た。文隆君は

「捕虜になってもいいから行きましょう」

という。私も食指が動かぬわけではなかったが、父君の依託もあるので、強いて止めて上海をつれ出した


引用終わり

このように近衛文隆が重慶に(あるいは蒋介石に会いに)行くチャンスがあったことは日本側の文献に2、3残されているのだが、ことの真偽は不明だった。今回、クラーク・カー大使の伝記「Radical Diplomat」を紐解き、クラーク・カー大使が実際に1938年10月14日上海発で、蒋介石を訪問しているが明らかになったことで、彼が日本人記者を同行させようとしていたことの信憑性が高まった。そして最初に名前が上がったのは、毎日新聞の高石記者だったが、毎日新聞社がこの話に乗らなかったのか、何かの都合が悪かったのか、次に近衛文隆に白羽の矢が当たった、ということだ。

外交交渉のために国の要人同士が会談するときに、マスコミが同行することは現代では当然のことだが、当時もそうだったようだ。前回のブログ記事でも引用したが、ザ・ウエスト・オーストラリアン紙の1938年7月1日にはこう書いてある。


日本語訳

和平の仲介を否定

イギリス大使が語る

香港発 6月30日 

駐華英国大使(サー・アーチバルド・クラーク・カー大使)は、本日、漢口へ向かう飛行機の中で、彼が和平の仲介をしているといううわさを否定した。彼はこう言った。「大使というものはポケットの中にいつも平和の旗を持ち歩いているわけじゃないんだよ。」

引用終わり

この記事は、クラーク・カー大使が搭乗した飛行機の中で、記者が聞いた話になっている。おそらく同行記者だったのだろう。


さて、偶然訪れた近衛文隆の蒋介石訪問、面談のチャンスは、付き添い人の中山優氏の慎重な判断によって実現しなかった。文隆はこの中国戦線慰問旅行から11月に日本に帰国した。


そして、翌年の1939年の2月に、今度は上海同文書院という日本人向け大学の学生主事という肩書きを得て、再び上海の土を踏むことになる。彼の悲劇的運命を決定づけた上海における日中和平への試みに、果たしてクラーク・カー大使が絡むのかどうか、を次回は検証してみたい。

| | コメント (0)

« 2013年3月 | トップページ | 2017年4月 »