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2013年6月 9日 (日)

ポイントオブノーリターン7

近衛文隆は、1939年の2月に上海の地をふたたび踏み、東亜同文書院の職員として働き始めた。これは単に失業中の彼が新たな就職先を見つけた、ということではなく、前の首相で父でもある近衛文麿の和平密使の一人として送り込まれた、のであろうと私は見ている。

近衛文隆の赴任からほどなくして、テンピンルー(鄭蘋如)が日本人の誰かの紹介を携えて近衛文隆の職場を訪れている。この紹介者は、同じく近衛文麿が和平密使として一足早く上海に送り込み、和平工作組織「小野寺機関」に属していた早水親重(はやみちかしげ)と推測される。このあたりは、当ブログ記事「テンピンルーの悲劇 前編」を参照いただきたい。

近衛文隆は、その後5月に、影佐機関の暗躍によって日本に強制的に帰国させられるまでの約4ヶ月弱、上海で和平工作に動くことになるが、その間に彼にとって二度目のとなる蒋介石訪問のチャンスが巡ってきたことを、日本の文献で見ることができる。

以下、繰り返しとなるが「近衛文隆追悼集」に寄せた早水親重の文章を引用する。

 従って話は、打開の方途(注:停滞している日中和平交渉の打開)を考えようじゃないか、という事になって別れた(注:東亜同文書院での早水親重と近衛文隆の最初の面会から別れた)。

 それを機会にたびたび会合する事になり、蒋介石氏と直接交渉を開く以外に方途無く、その方法等につき情報を持ち寄って協議したものであった。一方にはいわゆる影佐氏の梅機関等の汪精衛氏の活動も始まり、片や我らの動きもいつとはなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の彼に対するいたずら的謀略等もあった。

 また、当時英国の駐華大使たりし、パドリック・カー(注:原文のまま。本名はクラーク・カー)氏との会見で、「自分が斡旋するから直接交渉に重慶に行かれては」、との彼への示唆もあり、速やかに上京する事にした。

 五月下旬相次いで入京し、朝野に呼びかけ、当時参謀本部部員たりし、故秩父宮殿下にまで意見具申する等、共に情熱を傾け、一時好転の兆しも見えたが、かえって当局を刺激するところとなった。

引用終わり

上記の早水親重氏の文章からは、1939年4月から5月頃にかけて、クラーク・カー大使が近衛文隆に対して、自分が紹介するから蒋介石との直接交渉に重慶に行ってはどうか、という提案があったととれるので、今回はここを検証してみる。

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(写真は会食中のクラーク・カー大使、右が蒋介石、左に蒋介石夫人。夫人は給仕に何か注文をしているところであろうか。Radical Diplomatより転載)

クラーク・カー大使の伝記、「Radical Diplomat」の103ページに以下の文章が書いてあった。

Clark Kerr left for Chungking, whrere he arrivied on 19 April.
中略

Clark Kerr was naturally sympathetic to the Chinese resistance, but he was also now resident in Chungking, had met Chiang on the twenty-second and even been for a picnic the following week with the Generalissimo and Madame Chiang.
中略

He left Chungking on 19 of May, travelling to Hong Kong, where he hoped to sort out the practicalities of his proposed internment scheme. In Hong Kong he also had several meeting with Edgar Snow, Gunther Stein and others of the pro-Chinese left in the colony who strengthened his resolve on the issue.

 

日本語訳

 

クラーク・カー大使は、(上海から)重慶に出発、4月19日に到着。

 

中略

 

クラーク・カー大使は中国人に対して同情心を持つにいたっていたが、彼は今や重慶の住民ともなった。4月22日に蒋介石に会い、翌週にはなんと蒋介石夫妻とピクニックにも行っている。

 

中略

 

重慶を5月19日離れ、香港に立ち寄り、天津事件(注:天津のイギリス租界における日本側官憲の捜査権限についての圧力)の収集策を練った。彼はまた香港で、エドガー・スノーや、ギュンター・シュタインらの親中派と面談をし彼の解決策に賛同を得た。

引用終わり

ということで、早水親重の追悼文の、近衛文隆がクラーク・カー大使から重慶の蒋介石訪問を誘われたのが1939年4月から5月であるという記述と、クラーク・カー大使の伝記の4月19日重慶到着、5月19日重慶を離れる、という記述はタイミングが整合している。

以下、関連のオーストラリアの新聞記事を掲載する。

Clarkkerr_19390412peace_talk

日本語訳

英国大使の交渉

早期和平交渉のうわさ

上海(1939年)4月9日

東京駐在の英国大使ロバート・クレイギーは本日、上海訪問を短く切り上げ東京へ発った。駐華英国大使アーチバルド・クラーク・カーは、クレイギー大使との折衝後、重慶(中国西部の政権首都)へ出発した。ある重要な進展の可能性が噂されている。それは大使が早期和平を試みるという噂だ。

Clarkkerr_19390609peacetalk_deny

日本語訳

うわさを否定

ささやかれているイギリスの和平提案

東京(1939年)6月8日

駐華英国大使が、蒋介石に対して和平の道筋を開くために辞任を要求した、との噂が、今日の東京株式市場をかけめぐり、株式は全面高となっている。

上海(1939年)6月8日

駐華英国大使(アーチバルド・クラーク・カー)は、蒋介石将軍に和平の示唆をしてはいない、と公式に発表した。

以上、1938年の10月の蒋介石・クラーク・カー会談時と同様、日本側にはクラーク・カー大使に和平の望みを託す思いが記事となってあらわれており、イギリス側がうわさを即座に否定する図式が繰り返されている。



ここで横道に少し逸れるが、上記のクラーク・カー大使の伝記の中に、ギュンター・シュタインという名前が出たので、思い出した。以前の当ブログ記事「テンピンルーとスパイゾルゲ」で出てきた名前なのだ。そこで前の記事を読み返してみると、ギュンター・シュタインは、ゾルゲスパイ団の一員で、東京と中国を行き来して伝書係になっていた人物だった。ゾルゲスパイ団はクラーク・カー大使とも、日本の軍事情報について情報交換をしていたようだ。

以下、以前のブログ記事「テンピンルーとスパイゾルゲ」の中の文章を引用する。

上海のゾルゲ一派と日本のゾルゲ一派の間には無線連絡以外に、伝書使が行き来していたのも事実だ。

 

上に引用した永松の文章の中に、ゾルゲ一派の無線技師、マックスクラウゼンの妻、アンナが下着に隠してマイクロフィルムを長崎出港の船で上海に持ち 込む記述があった。映画のようなシーンであるが、ゾルゲ自身によって書かれた「獄中手記」(1962年みすず書房出版)によるとこう書いてある。

 

かくして、私はクラウゼン、クラウゼン夫人、ギュンター・シュタイン、そして彼女の女友達といった数名の者を、伝書使として使うことができた。1937年の初めから1938年の夏にかけて、私はこの連中を代わる代わる上海へ派遣して書類を運ばせた。

引用終わり


また、おなじく名前の出てきたエドガー・スノウは、共産主義を信奉するアメリカ人作家であり、後の毛沢東のプロパガンダにとって無くてはならない人物となった、この時期の彼は反日プロパガンダの片棒を担いでいた。




話を元に戻す。

今回、このように日英の文書を合わせ読むことで、クラーク・カー大使が近衛文隆に和平進展にプラスになるだろうとの望みをかけて、一回目は1938年10月に長沙にいる蒋介石に、二回目は1939年4月に重慶にいる蒋介石に会わせようとした、あるいは少なくとも中華民国政府を訪問させようとした、という仮説について、時期の整合性が裏付けられた。

私は、この二度目の蒋介石との会談への同行プランには、テンピンルーの推奨もあったと踏んでいる。英国大使館筋と日本側の人的関係は、中国権益と租界統治における対立的立場から難しいものがあったはずである。テンピンルーは、近衛文隆との交際を通じて彼の「人となり」を知る立場であり、また、父親が日本で教育を受けた中国人高等検察官、母親が日本人、そして英語を話せるという希有な人材であった。彼女の仲立ちがあったからこそのプランだったのではないだろうか。



しかし、日中和平の進展にいくばくかの望みを持っていたクラーク・カー大使は、その後1939年6月に入って、銃撃の恐怖にさらされてしまう。決して殺害には至らないのだが、恐怖を与える襲撃のやり方がなされたうようだ。下記に関連記事を掲載する。
Clarkkerr19390614_threats

日本語訳

大使への脅迫

クラーク・カー大使の安全確保を増強

上海(1939年)6月13日

駐華英国大使、アーチバルド・クラーク・カーの安全確保のため、特別警戒が取られている。これは、彼に対する殺害予告にもとづくものだ。中国人の武装警官が、彼の私邸のある和平通りに配置され、イギリス軍と警察官も増強された。大使がどこかに行くときは昼も夜も自動車とバイクに先導され、車内では防弾チョッキを着た武装警官にガードされた。

英国大使館は、先週の土曜日に思い当たることがあった。前回の脅しよりも今回の方が強いものだ。しかし、これが日本側の影響下にあるテロリストの行為なのか、天津租界の殺人容疑者を日本側に引き渡そうとしているイギリスに対する中国側の警告なのかを測りかねている。

この脅迫が行われた1939年6月は、影佐機関、ならびに上海憲兵隊長林秀澄らによる、近衛文隆や早水親重ら和平工作員の日本への強制帰国、テンピンルーと情報交換していた反戦和平派の花野吉平ら軍内文官の逮捕の流れがあった。


その後の影佐機関(梅機関)と、林秀澄率いる上海憲兵隊の傘下にあるテロリスト集団「ジェスフィールド76号」によるテンピンルー射殺の事実などを合わせて考えると、クラーク・カー大使への銃撃による脅迫は、日本側(影佐機関)による工作だと思われる。降ってわいたような、近衛文隆による蒋介石直接訪問および直接和平交渉プランは、影佐機関にとってはやっかいな障害物となったのだろう。



残念ながら、クラーク・カー大使による日中和平仲介につながる動きは、この銃撃騒ぎを境に全く見えなくなりなった。第三国を通じた日中和平はその後は行われた形跡がない。

そして影佐一派が進めていた「汪精衛・中華民国」、との和平が進められると同時に、「蒋介石・中華民国」、との戦争は継続される、という二重構造となった。そして、この構造は1945年8月15日まで続きくのだった。

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コメント

連載再開ですね。
つづきを愉しみにしています。

投稿: 蓮 | 2013年6月14日 (金) 23時00分

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