李香蘭

2009年4月22日 (水)

続 「川島芳子は生きていた!?」

一応タイトルに、!と?を付けさせてもらいました。

(注:4月18日記事「川島芳子は生きていた」を見て に追記をいれております。青字の部分です。ご覧ください。)

2009年4月20日、中国のネットニュースサイトである、「人民網」に、川島芳子の記事が載っていた。人民網は、中国共産党機関紙「人民日報」のネット版である。つまり、国の思想、政策を国民に伝える宣撫、広報機関である。宣撫目的のため、中国人からも「題名と日付しか合っていない」と皮肉を言われる新聞のようであるが、政府、共産党の公式見解を伝えるメディアとしてやはり重要性があるとも見られている。

先日のテレビ朝日の放送と歩を合わせたような記事であったが、独自の内容もあったので、こちらで3つほど紹介したい。もしかしたら、テレビ朝日でも同じ情報を得ていたのかも知れないが、なんらかの理由で、あえて放送を控えたか、本当に時間が無かったか、そのような情報はそもそもなかったか、いずれにせよ放送されなかった部分である。

1. 李香蘭こと山口淑子氏は、「川島芳子以外の何者でもない」と語る?

テレビ朝日の放送では、画家でもある張鈺(ちょうぎょく)さんの描いた方おばあさんの絵をみて、「これはお兄ちゃん」(注:お兄ちゃんとは李香蘭から見た川島芳子の呼び名)だという山口淑子氏の発言を得ていた。しかし、もしこの絵を張鈺さんが、川島芳子の写真を見ながら描いたとしたら、似ていて当たりまえである。これは残念ながらなんの証拠にもなっていなかった。

ところが、人民網の記事では、張鈺さんが山口淑子氏に、方おばあさんの生活習慣や住居、茶室の装飾を伝えると、山口氏は、「それはお兄ちゃんだ」と言ったというのだ。となると話は別である。そして、取材者があらためて山口氏に「方おばあさんは、川島芳子でしょうか?」と訊ね、山口氏が「それ以外考えられない」と答えたというのだ。

山口淑子氏によって15分と制限された取材時間は、結局4時間に及んだという。しかし、山口氏が本当にそう答えたかどうか、我々には確認のしようがない。


2. 筆跡鑑定の結果、方おばあさんは、川島芳子だと・・・

張鈺さんが言うには、方おばあさんは、張鈺さんを描いた肖像画を一枚描いたらしい。そしてそこにはかすかに、”姥留念”(うばの記念、という意味)という三文字が書いてあった。吉林省の筆跡鑑定家である郭相武が、その三文字と、川島芳子が川島浪速に宛てた手紙の文字を比較したところ、癖が一致しており、その癖は、偽者が思いも寄らないものであり、同一人物だと認定したらしい。


3. テレビ朝日の放送では、寺に安置してあった方おばあさんの物と思われる骨片が、なんらかの妨害工作により入手できなかったとなっていたが、実際は、骨片を調査しており、その骨は完全に焼却されていたため十分なDNAが採取できなかったということである。

以上が、テレビ朝日の放送で提供された情報以外の部分である。そのほか、たとえば日本側の骨格鑑定調査の結果なども記載されている。歴史調査は往々にしていいとこ取りをしがちで、海外にそれを見つけると、お互いが知らないうちにキャッチボールをしていることがある。今回の中国側調査の結果は、ほぼ100%、方おばあさん=川島芳子ということのようである。

さて、冒頭にも書いたが、人民網は人民日報なる中国共産党機関紙のネット版である。その記事は、政府・中国共産党の意志、政策、思想を国民の間に浸透させる目的を持っている。この川島芳子の記事はいったいどういう意図があるのだろうか。

あるいは、三面記事的、娯楽的要素を持った記事なのだろうか。もしかしたら政治的な要素抜きに、本当にそうなのかもしれない。

記事は、しっかりと最後に囲みで川島芳子のプロフィールを以下のようにまとめている。あくまで川島芳子は中国にとっては悪人であることでは一貫している。

東方の魔女 川島芳子(1906〜1948)

彼女は敵を味方と取り違えて、日本軍国主義の暴威を頼り、清帝国復活の甘い夢を実現するために日本のスパイになった。“男装の女性スパイ”と称されて、満州傀儡政権を画策する日本と、国民党との間に立って、秘密兵器となった。日本の中国侵略戦争で重要な作用を発揮。満州事変、満州の独立などの重大な秘密活動をして、国内外を驚かせ、第一次上海事変で売国奴的な活動をした。日本の諜報機関の一枝の花。

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2009年4月18日 (土)

NHK土曜ドラマ「遙かなる絆」スタート

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NHKで毎週土曜全六回、夜9時から2時間ドラマとして放送する「遙かなる絆」。

これはお薦めです。原作本の「あの戦争から遠く離れて」を読み、満州に取り残された日本人孤児の実情を知ると共に、置き去りにされた孤児を我が子のように育てた中国人の養母、そして文化大革命の恐怖を知りました。実話にもとづくドラマです。ユンチアンの「ワイルドスワン」も文化大革命を知ることの出来る本でしたが、日本人の実体験にもとづくものは初ではないでしょうか。

演出は、「エトロフ遙かなり」の岡崎栄。

楽しみです。

(以下は、番組視聴後に記載)

で、さっそく第一回を見てみた。しっかりした作りのドラマということは予感させるのだが、第一回として、グッと引きつけるものがなかった。それは、主人公の孫玉福、つまり、残留孤児である城戸幹さんを、原作者である娘、城戸久枝さんが、「父」という三人称で解説をし始めるという番組構成に対する違和感が原因だと思う。

ドラマが始まり、子供時代のちっちゃな主人公、孫玉福(城戸幹さん)に感情を移入し始める。すると突然、現代の場面になって、実の娘役の鈴木杏さんが、孫玉福を「父はこのときはなになに」などと、解説し始める。

孫玉福、そして育ての母に感情移入しつつある私は、突然誰かに観察されて感想を述べられている気がして、なんともばつの悪い気分になり、「そうだ、わたしは視聴者、孫玉福は孫玉福、今の声は娘役の鈴木杏」と、冷静に、客観的な自分に戻らされてしまう。このドラマは、父城戸幹ではなく、娘城戸久枝に感情移入すべきなのだろうか。

原作を読んだ時は思わず涙したものである。原作では、第一部で、孫玉福が育ての母親の愛情をいっぱいに受けて、困難に立ち向かう様がノンフィクション小説のように書かれ、第二部で、娘であり原作者である城戸久枝さんが、父親の足跡をたどる、という完全分離の本になっていた。

テレビではどうやら、娘の目線を常に用意して、過去と現在を行ったり来たりするようである。第一回目は違和感があったが、次回以降どうなっていくか、続けて見てみたい。

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「川島芳子は生きていた!」を見て

コメント頂いたcountryさんのご好意に甘えて、ビデオを送って頂き、さきほど番組を全て見ることができた。

まずもって、この番組が科学的検証を重視しようとする姿勢には共感が持てた。同時に、いい悪いは置いておいて「川島芳子は生きていた」という前提のシナリオがあからさまでもあった。「川島芳子はやはり死んでいた。」では企画そのものが通らないし、この番組の製作に入れないからそれは仕方ないところもある。

前回の記事で、孫と書いた張鈺(ちょうぎょく)さんは、よく考えてみれば血のつながりがあるはずもなく、方おばあさん、こと川島芳子に孫のように育てられた人、ということだった。この張鈺さんを最初から最後まで登場させることで、番組の芯のようなものができていて、真偽のほどはともかく、わかりやすく見やすい構成になっていた。

私が最も注目し、唯一証拠足りえると感じたのは、川島芳子の処刑写真と生前の川島芳子の写真にもとづく骨格鑑定、法科学鑑定研究所による分析である。それによれば処刑された人物と川島芳子が同一人物である確率は1%以下、ということだ。これが本当なら、替え玉が川島芳子の刑死写真として使われたとみていいだろう。しかし、この鑑定の作業工程が少しだけ番組で見れたが、プロットする点をわずかにずらすだけで、骨格ががらりと変わる。また、なによりも、替え玉刑死写真の存在は、それだけでは、川島芳子が戦後ずっと生きのびたことの証明にはならない。

残念ながら、DNA鑑定と指紋鑑定は、材料の不足によって不可能だった。「川島芳子は生きていた?」の問いに対する答えは、「おそらく処刑を逃れた」、と言う意味に置いては、骨格鑑定がすでにイエスの確率が非常に高い、という結果を出した。それ以外の、張鈺さんの記憶による再現ドラマや、遺品や歌の披露、いつくかのインタビュー、来日して李香蘭に会うなどの番組構成は、生きのびた後の川島芳子を浮かび上がらせるという肉付けの部分となろう。

この肉付けの部分は、正直言って生きのびた川島芳子を確信させるものは無かった。いじわるを言えば、遺品として提示されたものは、骨董品と言えるものである。どこにでも骨董品市場がある。私も、李香蘭の1940年代のSPレコードを2枚と1920年代製作のグラモフォン(蓄音機)を通販で買ったことがあるが、李香蘭のレコードでいえばインド製のコピーが多く出回っていて、レーベルを見ればわかる。レコードには番号が振られている。コロンビアの「蘇州の夜」は100333bである。これは番組で出てきたレーベルでも確認できた。100333aならA面で「乙女の祈り」が収録されている。今回出てきたレコードは本物である。しかしそれが川島芳子から張鈺さんへ渡された物、という証拠はどこにもない。

また張鈺さんの持っていた蓄音機は非常に珍しい物で、初めて存在を知った。大量生産品にはあのような形のものはない。旧日本海軍では、造船所などの軍需産業に、半ば強制的にほぼ決まった品の寄贈をさせていて、その目録は国立公文書館アジア歴史資料センターに保管されている。その目録を見ると寄贈品のトップのほうに必ず蓄音機が入っている。他には卓球用具やサッカーボール、冷蔵庫や扇風機、おもしろいものでは相撲ふんどしも必ず入っている。長い船上生活での娯楽という意味があったのだろう。

今回見た蓄音機はいかりのマークが入っており、旧日本海軍への寄贈用に作った特注品の可能性がある。これは軍に通じるルートを持った人にしか手に入らない物だと思う。これを張鈺さんが持っているというのは、彼女の親、親戚あるいはもしかして方おばあさんが、旧日本海軍関係者につながる何かを持っていた可能性を示している。

(注:2009年4月25日追記)    改めて番組録画を見て調べてみたところ、この碇(いかり)のマークは旧日本海軍の碇マークとはデザインが異なり、旧日本海軍とは無関係なことがわかりました。

Japanese_navy_mark_3  こちらは旧日本海軍が使用していた毛布に印刷された碇マーク

Photo_3こちらは張鈺さん所有の蓄音機のサウンドボックス上の碇マーク。縦棒の途中に丸いふくらみが入っている

番組では、専門家の意見として「日本の海軍専用に作られた高級蓄音機」と説明されていましたが、サウンドボックスと呼ばれる、針のついている丸い装置、をスローで何度も見たところ、「瑞康洋行」(ずいこうようこう)という印字が読めることがわかりました。「瑞康洋行」という文字を挟むようにして、「瑞商」という文字も印字されているようです。中国語でスイスのことを瑞士と表記するので、瑞商はスイスの会社という意味でしょう。他の同社の蓄音機にも碇マークが同じ位置に入っており、この碇マークは商標マークだと思われます。写真では見えませんが、上部にアルファベットの「SONATA」と印字されており、ブランド名のようです。

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Photo_3この写真は16,500元(約28万円)で中国のネット通販で骨董品として売りに出ている据え置き型蓄音機の、サウンドボックスのアップ。MADE IN SWITZERLANDと印字してある。

瑞康洋行社は、1925年にイギリス国籍のユダヤ人、R.M.Josephなる人物が上海に起業したレコードおよび楽器を扱う会社です。1929年、アメリカ系の音楽関係大手、ブランズウィック社に買収されています。ということで、番組に出てきた蓄音機は、瑞康洋行社がスイスのSONATAに発注しスイスで製造され、瑞康洋行社が上海の上流階級向けに輸入販売していたものと思われます。希少価値のある品であることは確かです。

番組ではいかりのマークに注目し、「専門家によれば日本の海軍専用の高級蓄音機」とナレーションが入りました。私は正直申しあげると、このナレーションに引きずられたのと、「旧日本海軍に関係する蓄音機であってほしい。それが川島芳子と関係があったら面白い」という思いが合わさって、記事を書き進めてしまいました。あやふやな情報に引きずられた事例として、自戒をこめてあえてそのまま残しておきます。

1941年12月8日、日本が米英に宣戦布告すると、Josephは日本軍に逮捕され収容所に入れられやがて行方不明になりました。瑞康洋行社の洋館は、日本軍に接収され、日本軍高級将校が使用するようになったようです。現在は東湖賓館というホテルの一部として営業しています(下の写真。一般の宿泊はオフリミットの東湖賓館7号楼となっている)。

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道路向かいには当時の上海の裏社会を牛耳った杜月笙(とげっしょう)の別荘もありました。こちらは東湖賓館1号楼(ホテル本館)として一般の宿泊に利用されています。追記終わり。

ちなみに、番組で川島芳子との関係もとりざたされていた笹川良一は、上海憲兵隊特高課長の林秀澄へのインタビュー集「林秀澄談話速記録3」にも出てくる。それによれば、笹川は上海での鞄持ちとして児玉誉士夫を使っていた。児玉誉士夫は旧日本海軍に巣くって児玉機関を自称し、上海のガーデンブリッジ脇にあるブロードウェイマンションに事務所を置いていた。彼は海軍から物々交換用の物資を手にし、中国人から格安で航空機用の金属原料を調達、海軍に卸していた人物である。そしてブロードウェイマンションの最上階は、川島芳子が上海での居所としていた場所とも言われている。

余談になるが、児玉誉士夫は、戦後戦犯となっが、アメリカGHQとの何らかの取引により釈放されている。また旧日本海軍との取引で得た莫大な資産は、戦後、秘密裏に日本に持ち帰られ、自民党の前身である自由党結党の資金になったという噂もある。この辺は、実にアンタッチャブルな世界であり、日本の大手マスメディアには真相の掘り起こしができない領域だろう。

この番組で放送された一つ一つを掘り下げ行くことは、とても興味深いことだ。いくつか行われたインタビューなど、もう少し掘り下げて検証してほしい部分が多かった。この辺は、広いけど浅い、浅いけど広いテレビメディアから得られる情報の限界であろう。ヒントだけを次々と与えられる感じがして、気が急いてしまう。昨年、読売テレビが、「鄭蘋如の真実」というドキュメンタリードラマを製作した。この時も思ったが、これだけの調査にコストをかけたにもかかわらず、放送時間に収まらないのなら、テレビの枠に固執せず、文字メディアでも世に出していくべきだと思うのだが。

張鈺さん自身、中国残留孤児である日本人の母親と中国人の父親を持つ日中のハーフであった。私は、少し前に「あの戦争から遠く離れて離れて」※という、中国残留孤児の実話本を読んだ。文化大革命当時の中国の、異端的存在、つまり非共産中国的なもの、たとえば残留日本人や国民党的な存在を徹底的に弾圧してきた様子がよくわかる本だった。

この本を読むと、仮に川島芳子が替え玉によって処刑をのがれ、生きていたとして、その後の困難はかなりのものであったと想像がつく。川島芳子、こと金璧輝は日本的な存在であり、清王朝的な存在でもあり、国民党による漢奸裁判で死刑宣告されていたのに、「賄賂」によって生きのびた、という腐敗した国民党からの受益者でもあるのだ。

文化大革命的には、生きのびた川島芳子はまっ先につるし上げ、弾圧すべき存在だったはずである。彼女は生きながらにして死んでいたと言っても過言ではない。まったく表にでることは不可能であったろう。銃殺を逃れたものの、時間をかけて社会的には処刑されていたとも言える。文化大革命時代は住民同士が皆密偵のようになる。この嵐をなんとかやりすごし、1979年まで生きのびていたとしたら、替え玉処刑よりも、こちらの方が驚きだ。

替え玉処刑後の川島芳子の事実を知る立場にいた人たちは、自分の身を守るためにも川島芳子のことは口外してこなかったのだろう。真相は置いておいて、今の中国では「生きていた」とオープンに言えるようになったということである。

「川島芳子は生きていたのか?」の問に対する答えは、文化大革命後の中国の改革開放の進展によって、すくなくとも、

「処刑された」

から

「生きていたかもしれない」

へと変化しつつあるのである。

事実は一つしかない。しかし歴史は複数ある。
歴史は作られる、そういう事例の一つなのかもしれない。

「あの戦争から遠く離れて離れて」を原作とする実話ドラマが4月18日(土)21時から全6回、NHKで放送されます。http://www.nhk.or.jp/dodra/harukanaru/土曜ドラマ「遙かなる絆」公式サイトはこちら  原作が素晴らしいものだったので、おすすめです。

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2009年4月13日 (月)

川島芳子は生きていた?テレビ放送される

たまたまテレビを付けたら、李香蘭役の女優が出ており、また川島芳子の孫と自称する中国人女性も出ていた。この番組は前もって知らなかったのでもう終わりに近いところから見ることとなった。

この張さんは、日本語の「蘇州夜曲」を、李香蘭バージョンの歌い回しで歌っていた。耳で覚えた歌、という感じだった。そしてこの女性が東京に住む李香蘭(山口淑子氏)の自宅を訪ねた。日本にわざわざ古い蓄音機を持ってきていた。彼女が言うには、川島芳子は「方おばあちゃん」という名で通っていたようである。方おばあちゃんから渡されたという形見のレコード「蘇州の夜」も携えていた。この曲は1941年(昭和16年)11月に、映画「蘇州の夜」のサントラとしてコロンビアから出たレコードだ。Clumbiaの独特な赤いレーベルがしっかりと見えたので本物のレコードだろう。

川島芳子は、これを李香蘭に渡せば、全てがわかる、と言い残していたらしい。しかし、張さんがバネの弱くなった蓄音機のゼンマイを巻きながらまわすレコードを聴く李香蘭からは、特に目新しい発言はなかった。

川島芳子の生存説は1948年の処刑直後からある。つまり、もう60年もの間、生存していた、いや処刑されたと議論を呼んでいる。昨年から今年にかけてはひとつの大きな波が来ている。李香蘭は、川島芳子について、既に語れることは全て語っているのだろう。特に著書「李香蘭を生きて」ではかなり詳しく書いている。もはや李香蘭からは新たな事実は出て来ないと思う。もし語り尽くしていない事実を李香蘭が胸の内にしまっていたとしたら、今後とも公にはしないはずだ。

ひとつ、李香蘭の発言で私にとっては興味をひいた発言があった。川島芳子が李香蘭に、「オレを見ろ」だか「オレみたいにはなるなよ」だか、そのように言っていたようなのだ。これまで川島芳子の出てくるドラマでは、一人称がすべて「僕」だった。私はこれが実は結構引っかかっていた。男装をして男っぽく振る舞う川島芳子。たしかに格好はりりしい男装であるが、会話での一人称が「僕」となると、とたんにその男装がお遊びに聞こえてしまう弱さがあった。しかし、今回の李香蘭の発言からは、川島芳子は、自分のことを「オレ」とも言っていたようである。

さて、川島芳子は生きていたか?今回の番組を見てみても、結局なぞが残ったままだった。

私はやはり、益井康一が「漢奸裁判史」で書いた次の一節が全てを物語っているのかなと思う。すこし引用する。

執行官はひざまづくように命じ、やがて一発の銃弾が彼女の後頭部を貫いた。波乱に富んだ34年間の生涯を閉じた。係官の話によると、「彼女は貴婦人のように、眉一つ動かさず、誇り高く死んだ」と伝えられた。

北京の市民は、「3才の時、日本人の養女となり、日本人として育った以上、真の日本人なら誰でもするであろうことをしたまでだ」と言って、彼女に心から同情した。

彼女を惜しむ心理が後日、ちまたに、「刑死したのは替え玉で、本当の川島芳子は密かに脱走して生きている」という噂をふりまいた。

川島芳子の漢奸裁判史についての過去記事はここをクリック

※この番組に関しては、ビデオで番組を全て見てから再度投稿する予定です。

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2009年3月18日 (水)

女たちの中国に李香蘭がゲスト出演

Photo さきほどたまたまテレビを見ていたら、番組宣伝コマーシャルをやっていて、「女たちの中国」最終回を明日やるらしい。

「女たちの中国」へのリンクはこちら

日本テレビ系
3月19日(木) 19時から放送


そして、なんとゲストに李香蘭と書いてある。何が語られるか、興味の沸くところだ。戦前、戦中の生の話は今のうちに聞いておくしかない。

今回は残念ながら、テンピンルーは対象外だった。個人的には李香蘭からテンピンルーの話を聞いてみたい。知っていたのだろうか、知らなかったのだろうか。

→平成21年3月20日、録画した番組を見ましたが、基本的に8月に放映したものの再放送でした。李香蘭(山口淑子氏)の出番は、夏の放送のときに自宅で収録されたインタビューと全く同じものでした。新しい情報としては、甘粕の秘書をやっていた女性へのインタビュー、伊藤博文の妻の逸話などがありました。

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2009年3月 1日 (日)

続 植民地医療の光と影

前回の記事、「『蘇州の夜』を見て 植民地医療の光と影」 では、李香蘭の映画「蘇州の夜」の感想から進めて、日本による植民地医療の光と影、特に731部隊による「影」の部分にスポットを当ててみた。今回は、逆に、同仁会の活躍を通した「光」の部分を紹介する。

(下の写真は上海市郊外にある上海人民第五病院。1904年に上海市共同租界の工部局が西人隔離医院として設立、1939年に日本同仁会が接収し、戦後中国国有となって現在に至る)

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一次資料として、1938年秋に同仁会によって行われた、日本国内医療関係者向けの講演会の原稿資料を下記に掲載する。ここで取り上げたのは、1938年の上海旧市街地における中国人難民に対する医療、特にコレラの防疫に関しての講演原稿である。(クリックすると拡大します)最後のページでは日本人医師団の治療を受けた中国人難民が、気持ちばかりの謝意として、金魚、植木や小鳥などを持ってくる様が書かれている。

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同仁会は北京や天津、上海など中国各地12カ所で診療所を開いていたようである。上の記事によれば、従事者が約250名、経費が当時のお金で200万円、今のお金で10億円近くだと思われる。これだけの規模を難民相手に報酬無しで行ったということは、明らかに軍あるいは日本政府の補助を受けての占領政策の一環であったということだろう。

フランス租界や共同租界では1938年に発生したコレラ患者が2万人を数えたようだが、日本人地区である虹口(ホンキュウ)では数百名に収まったということが書いてある。日本人地区はフランス租界などに比べ、水洗便所が少なかったようだが、衛生面では進んでいたようだ。

また、この記事によると、九江や石家荘周辺の数十カ所の村では、中国軍が退却していった後に、隠蔽工作とともにコレラ菌散布の形跡を日本軍が発見した、とある。ちなみに支那派遣軍の調査によると、九江では中国民間人が500名ほどコレラに罹患しているようである。中国軍による細菌戦の実態が中国側から発表されることは皆無であり、中国側政府、民間とも将来にわたってその実体を追求することは無いのかもしれない。

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上の記事からは、同仁会医療団が、上海市の南市(ナンシー)、つまり昔の城内、現在だと観光地となっている豫園(よえん)のある旧市街地に診療所を構えかつ居住していたことがわかる。

この南市は、中国人だけが住むことの許された、まさに敵のまっただ中という場所であり、しかもほとんどが苦力(クーリー)などの雑役の仕事についていた貧民街でもある。上海事変では徹底的に日本軍に破壊されたところだ。

中国人12万人以上にコレラの予防注射をしたとある。5月に開設し、7月くらいになるとフランス租界や共同租界からわざわざ南市の同仁会診療所に来る中国人も出てきたようだ。

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20ページの上の段の真ん中あたりに、「我々が予防接種をすると、『日本人は毒を射す。之を射すと5,6年後、あるいは10年後には死んでしまう』、というデマを流す」云々ということが書いてある。このデマは中国中で共通のデマのようだ。

そのすぐ後には、面白いことが書いてある。このコレラ予防接種は強制にしたようで、一度予防接種をすると証明書を発行した。ところが、一人が何度も接種を受けて、余った証明書を注射が嫌いな中国人に売りさばく、という商売が発生した。今も昔も変わらない中国人のたくましい商魂である。

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22ページの下の段には、瓦斯壊疽(ガスえそ)の患者が多発していることが書いてある。私はこの症状の名前をテレビで聞いて覚えていた。2007年の中国四川省大地震の時である。倒壊した建物の重量のあるコンクリなどの下敷きになって外傷を負った脚や腕は、ガス壊疽を起こしやすく、救出後になって毒素が回って死に至る、という症状である。

南市も、四川省大地震の時と同じように、建物が戦争で破壊され、その下敷きになった人が多数出たのだろう。四川省大地震では阪神大震災の経験を生かし、ガス壊疽の症状の患者を日本人医師団が治療するニュースがあった。70年後の歴史の巡り合わせである。

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24ページの下の段には、毎朝患者が集まると、衛生や医療に関して、簡単な講義を開いていたことが書いてある。なかにはこれだけを聴きにきていた者もいた。そして治療の感謝として冒頭にも書いたように、お金のない難民達は、金魚や植木、小鳥などをお礼として持ってきたということだ。

医療は結果が全てであり、嘘が許されないがゆえ、最も感謝される宣撫分野であろう。しかし、南市にガス壊疽を起こす難民が発生するような建物の破壊は、そもそも日本軍が行ったことである。

そしてまた、寧波など数都市でペスト菌の散布を日本陸軍が実戦使用し、その防疫に同仁会の日本人医師が活躍するという壮大なマッチポンプにも、思い至らねばならないだろう。

 

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2009年2月21日 (土)

「蘇州の夜」を見て 植民地医療の光と影

Photo この「蘇州の夜」、記事にするモチベーションがあまり沸かなかったのでほったらかしになっていた。「私の鶯」、「支那の夜」が私にとってそれなりのインパクトがあったのに比べ、この「蘇州の夜」はかなり淡泊な映画という印象を残した。

主題は、日本が、中国に対し医療分野に置いて大きな貢献をしている。日本人の真心を知った中国人は日本に感謝し共存共栄を求めていく。

という、典型的な国策映画だ。李香蘭演じる梅蘭(メイラン)と佐野周二演じる主人公の日本人医師、加納とのかなわぬ恋愛が絡んでくるのだが、当初日本人に反発していた梅蘭が、やがて目が覚めたように加納に恋をするという「支那の夜」と似た流れである。

Photo_8 国策映画も3つめとなるとさすがに食傷気味となる。こんな会話が交わされる。

加納:「なぜそんなに日本人が憎いんだい?よろしかったら聞かせてくれないか?」

梅蘭:「私たちの生活をめちゃめちゃにしたからです。戦争が始まると、乱暴な支那兵が乗り込んできて、掠奪、追放、一家はバラバラに。おじさん達や妹がどこへ逃げたか。いまだに・・・」

加納:「日本は中国を救うために、君たちを救うために力を貸したんだ。東洋の幸福は東洋人だけで守らねばいけないんだ」


実際、中国兵も日本兵と同じく、食料などの調達のために戦場近くの農民から掠奪まがいのことをしていたようであるが、この会話からは、それをやっているのは中国兵だけであるかのような印象を与える。

さて、加納ら日本人医師の行っていた活動の一端が少し映像でわかる。ワクチン注射による予防接種である。これは大陸に進出した日本人(日本軍、民間人)に現地の伝染病が移らないようにするためが第一義であったと思われる。

Photo_2 映画の中で面白い格好をしたクルマが映った。車体にはVACCINATION VAN(ヴァクシネイション ヴァン) と書いてある。VACCINはワクチンであるからして、これは「ワクチン接種車」ということだ。日本人進出地周辺各地を巡回していたのだろう。Photo_6

Photo_7

参考までに、この「ワクチン接種車」はVACCINATION VANで検索すると下の写真が出てきた。イギリスの国内での予防接種の風景のようである。西洋医学の先進国ではこういった巡回予防接種が、1930年代ごろからすでに一般的になっていたようだ。

Vaccination_in_uk_2

1924年、上海では民間日本人医師の有志によって福民病院(現在も上海市人民第四病院として存続)が設立され、日本人、中国人、その他外国人分け隔て無く医療行為を施した。鄭蘋如(テンピンルー)の姉、鄭真如は、残念ながら亡くなったがこの福民病院で心臓病の治療を受けている。魯迅も臨終の間際まで、通訳をつけながら日本人医師からの治療を受けていた。

テンピンルーの下の弟、鄭南陽は上海にある満鉄公館に花野吉平らとよく遊びに行っていたようだが、そのつてもあったのだろうか、奉天にある満鉄経営の満州医科大学病院で研修を受け、戦後は上海で内科医院を開業している。この満州医科大学病院には中国各地から優秀な中国人医師の卵が集まり、日本人医師から指導を受けていた。戦後は、中国医科大学病院となり、最新の設備を備えた総合病院として各国からの留学生を集めるまでになっている。 Photo_9

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中国における日本人医師団による輝かしい功績と光。素晴らしいものがあるではないか!




ところが、この満州医科大学、当時中国人学生と日本人学生の間には厳然とした区別があった。中国人の教室は薄暗い半地下の部屋、食事は米は出さずコーリャン。日本人学生は明るい教室があてがわれ食事に米が出た。この区別、いやはっきり言うと差別、を知るにつけ、少し暗い影がさしてくる。

そして、この映画「蘇州の夜」では、加納医師とその部下の間でこんな会話が交わされる。

加納の部下:「こちらの人は注射となると、今にも死んでしまうと思っているのですね」

加納:「困ったものですね」

五味川純平の「戦争と人間」にもそんな文章があった。満州で勤務する日本人医師が、現地の中国人を集めて予防接種をしようとすると「殺される!」と騒いで皆逃げていってしまう、というのだ。なぜだろう。注射が嫌いなだけだろうか。

当時の日本人医師団の一部はさまざまな病原菌、毒物の注射などによって3000人とも言われる中国人とロシア人、捕虜となったアメリカ人を生体実験の末、殺していた。

私が「蘇州の夜」を見て思いが至ったのは、日本が大陸で行ってきた医療行為の光と影の両面である。

ドラマ「李香蘭」で、野際陽子演じる山口淑子が、ロシア人の親友リュバから、兄が731部隊(=関東軍防疫給水部隊、いわゆる石井部隊。当初は秘密を守るために石井の偽名である東郷を取って「東郷部隊」という暗号で呼ばれていた)に殺された話を聞く場面が出てきた。私は731部隊の生体実験の対象となったは中国人だけかと思っていたので、ロシア人と731部隊はなかなか結びつかず、この山口淑子氏の書いた731部隊のエピソードには唐突感があった。本心を言うと、信じたくない気持ちもあり、大変失礼ながら山口氏が作り話として挿入したのではないかとさえ思ったこともあった。 Photo_12

こちらのリンクを見ると 731部隊には中国人以外に、ハルピンなどに住んでいたロシア人、日本を空襲して撃墜された米軍捕虜も連れてこられていたことがわかる。

少し引用する。

問:はじめて解剖室に入ったときの死体、どんな人でしたか?

答:男性です。白系ロシア人です。ハルピンは白系ロシア人が多いんですわね。一見して色が白いんですね。28か30歳くらいでしたね。体格がええですわ。手なんかこんなに太くて毛が生えとるんですわね。胸毛もね。そりゃ男前でした。身長は1m80は楽にあったでしょうねえ。

(中略)

問:それで接種は誰がしたんですか?

答:そりゃもう解剖する先生です。

問:どういう風に接種されましたか?

答:えーとその時は静脈に。一番最初のはちょっと何の菌かわからんのですが。もちろん菌そのものはねばっこいから、薄めて。

問:そのときマルタのロシア人は抵抗しましたか?

答:抵抗しないような方法があるわけなんです。というのが「君はおとなしいから早く出してあげよう、それにあたっては予防接種しないといかんから」、と通訳がいうんですね。そすと喜んで手を出す。

問:しかし、おかしいと思いますよね?

答:そうですね、我々が出た後、きょろきょろしてますわね。

問:それで接種したあと外から観察するわけですね?

答:ええ。観察記録するノートがあるわけです。記録する科目がずーとあるわけです。それに何分になったらどういうようになって、何分になったらマルタが座り込んだと。で、何分で横になったと。

問:どういうふうに変化していったか覚えていますか?

答:うーん。打った菌を覚えてないからね。まず打ってから3、4時間後に顔の色がわるくなったね。それから座りこんだね、それでひざまづいて頭をかかえて、それが約30分くらい続きましたですね。それから横になって、背伸びして、またうつ伏になって、仰向けになったりして。早かったですね。731

この続きのこちらのリンクで上海から連れてこられた23才の中国人女性が生体実験される直前の様子が証言されているので、また少し引用する。

問:女性の方もいましたか?

答:おります。中国人。そで私が聞いたのに、「ニーナーチュラマー、あんたどっからきたんか」。わたしゃ案外中国語できたから。少年隊のときに中国語も教えますからね。外出なんかしたときいりますから。

問:で、聞かれたと。何と答えましたか?

答:上海。そで、「ニーショウハイユーマー、あんたに子供さんがおられますか」。「メイユラ」、ということはいないということ。「フーチンムーチンユーラーマー、お父さんお母さんいますか」。「いる」、と。その程度の会話はできます。

問:どんなことを聞かれました?

答:「まだ結婚はしてない」と、「どうしてきたんか」。「何かわからんけど逮捕された」。

問:いくつくらいの人?

答:それは若かったね。23くらい。というのは「ニーデチイネントーザイス」、ちゅうのが「あんた今年でいくつになりますか」、「アルスウサン」、ちゅうことは「23」ですからね。私の記憶では23。仕事の事は聞かなかった。

問:隔離室で会ったわけですね。その女性の方も裸だったんですか?

答:う? 女性は服着てた。

問:男性は裸で、女性は服着ていた?

答:そうです。

問:どんな服着てました? 囚人服ですか?

答:いや、囚人服じゃない。中国服。自分の着てきた服や思います。それで手に鎖。手錠じゃなくて時代劇に出て来るような幅の広い鉄の。その間に30センチか40センチの鎖があって。

問:それで普通の服を着ていて?

答:マルタ小屋では裸なんですよ。それを隔離室につれてくるときに、他の人の手前もあるから釈放するからいうて服着せるんでしょうね。私物に着替えさせるんですね。

問:おびえてましたか?

答:いや、あんまりおびえてなかった。釈放されると思っていた。自分は本当に出してもらえるんだろうかいうて私に聞いた。というのは先生が来るまでに時間があったから。

問:それで何と答えたんですか?

答:それですぐ予防接種をして釈放するから。ほで、お金なんかはどうなるんじゃろうかいうて。汽車にのらないかんから。

問:それで釈放されると思って?

答:信じきっとった。

問:名前覚えてますか? 名前聞きましたか?

答:チン・・・ショウレイ。レイという字は美しいというあの字ですな。チンはこざとへんのあれですわね。ショウは、それが思い出さんのですわね。

問:マルタだから名前が書いてあるわけではないですよね。それはお聞きになったんですね?

答:そうです。「ニーショマミンズ」「あんたの名前は」て聞いてそういうたんです。

問:それでその方も観察室にいれて、やはり注射ですか。静脈注射?

答:先生によって違いますわね、その人の時は注射するまではいなかった。私は。

問:その後観察にいったりもしなかった?

答:それは私はしなかった。その女性の場合は。・・・とても綺麗な方でした。色の白いねえ。髪の毛は黒で長い、それを三つに編んでた。一本じゃなくて、二つに分けて。

問:今でも顔を思い出しますか?

答:思い出します。なぜ私がそれを覚えているかちゅうと、私の兄弟は女ばっかし。そで特に意識にのこるんです。

問:脊の高さは?

答:そう高くはなかったね、私よりは高かったけど。やせて。中国人のあれというのはたいがいが先生もお会いになったと思うけど、やせてスーとしてますわね。ああいう感じです。クーニャンて感じですわね。映画なんかで柳のしたで扇子なんかしてるようなね。

問:話しぶりからね、教養があるという感じでしたか?

答:ありました。満州では家のことをファンズというんです。ニイというのは貴方ということ。それでニイファンズナーベンちゅうと、あなたの家はどこですかとい うことです。ところが中国大陸のほうになるとファンズじゃ通じないんです。ジャーなんです。ニイジャーナーリーとなるんです。

問:つまり最初の満州の言葉じゃ通じなかった、それで大陸の言葉では通じた?

答:ショマ、ショマいうて聞直すわね、向うがわからんと。何、何と。

問:それで上海ということとか判ったわけですね。しかし、本当はそういうこと聞いたらいかんのではないのですか?

答:いや、そりゃかまわんのです。そりゃもう許可なってますからね。落着かせるわけだからね。お前は殺されるいうわけじゃないんだから。イースーラなんていったらあんた殺されますよなんていったらそりゃ大変やろうけど。

問:まあ、そういうことも任務のうちだと?

答:いや誉めやせんけど禁じもしないという。

問:それで変なこと聞くようだけど、その若い女性見て、その時かわいそうだなとか思いましたか?

答:もちろんあります。これ何もわからんで、何時間後には解剖されるんやなあと、知らないということは恐ろしいことだなあ、と。

(引用終わり)

たどってみたら上のリンクの元記事はこちらのホームページからだった。 大分協和病院の内科医、山本氏のホームページである。彼の診ていた一人の患者さんが、731部隊の元少年隊員で、7時間ものインタビューをしていたのだ。このインタビューは1991年9月に行われている。

生体実験の対象となった人々は、「あなたはおとなしいから、釈放してあげる。その前に予防接種をする」と嘘を言われ、皆喜んで研究目的の致死量の病原菌の接種を受けたようだ。このような生体実験の対象は秘密保持のため、憲兵隊か特務機関が住民から集めるようなシステムになっていた。地下工作員の容疑などをかけて捕まえるのである。上に出てくる女性は「なんか分からんけど逮捕された」と言っている。工作員の容疑だったということだろう。23才、はるばる上海から連れてこられている。

日本陸軍と731部隊は、上に書いたような生体実験の結果をペスト菌散布という実戦に応用した。

このブログで以前「漁光曲」の記事 を書いた時、中国語歌詞の発音のフリガナを教えてくれた中国人留学生がいた。彼女の出身が上海の南に位置する寧波(ニンポー、ねいは)であった。ここではかつてペストが流行ったことはなかったが、1940年のある日、日本軍機が飛び去った後、急にペストが流行った。以下は、細菌戦裁判の寧波の部の引用である。



第7 細菌戦による寧波のペスト被害

1 衢州、義烏(市街地)、同農村部及び東陽市と広がるペスト流行の原因 となった衢州への細菌攻撃と同じころ、同じく浙江省の港湾都市、寧波に対してもペスト感染ノミが投下された。このため、寧波には突発的なペスト流行が起 こったが、これ以前、寧波でペストが発生した歴史事実はない。
 1940年10月下旬、日本軍機は寧波市(旧称朶県)開明街上空に飛来し、小麦などとともにペスト感染ノミを投下した。飛行機が飛び去ったあと開明街一 帯の商店の庭、屋根、水瓶、路上には小麦などが散乱し、生きている多量のノミも住民によって目撃された。

10月29日、最初の患者が出た。開明街の入り口の滋泉豆汁店や、隣家の王順興大餅店、胡元興骨牌店及び中山東路(旧東大路)の元泰酒店、宝昌祥西服店、さらに東後街一帯で死者が相次いだ。

2 患者及び死者は日本軍機がノミ等を投下した地域の住民に限られていた。汚染区の地域は、北は中山東路に沿って224番地から268番地、西は開明街に 沿って64番地から98番地まで、南は開明巷に沿い、東は東後街から北太平巷に接して中山東路224号へ続く一帯である。汚染区内商店43戸、住宅69 戸、僧庵1戸の計113戸、人口591人であった。  (後略 引用終わり)


下に掲げた3連の書類写真は寧波でペストが蔓延したときに杭州日本領事館が中支警務部長事務代理をしていた上海総領事経由で松岡外務大臣に宛てた報告文書である。日本軍の非占領地にペストが発生したことを強調している。つまり自然発生のペストに見せかけた文書である。しかも支那側と協力して防疫活動をしているということだ。自分でペストを流行らせ自分で防疫する。なかなか興味深いマッチポンプの一例である。(クリックすると拡大します)

1

二枚目の最後のほうには、満州の大連からペストワクチン500人分を持ってくるようなことが書いてある。おそらくハルビン近郊にあった731部隊でペストワクチンが大量生産され、満鉄経由で大連に送られてきていたのだろう。

2

3

私に「漁光曲」の歌詞の発音を教えてくれたこの若き中国人女性。日本が大好きな人である。彼女は自分の故郷に日本軍がペスト菌をばらまいたことを知っていたのだろうか、知らなかったのだろうか・・・。私には聞く勇気がまだない。ただ、私が「日中の戦争中の歴史を学んでブログに書いている」と言ったときに、彼女はすこし表情が固まり、無言になった。

暗い影の歴史を知る行為は常に未来のためにあるべきである。


これは私が歴史を調べ書くときの信念です。


731部隊で活動していた日本人医師の多くが戦後、731部隊の研究成果を引き渡すことを取引条件としたアメリカ当局によって罰から逃れることができた。こうして731部隊を生み出した我々日本人に無反省が許された。その延長線上に、1980年代の薬害エイズ患者の発生があるのではないか。

731部隊長石井四郎の側近であった内藤良一の設立したミドリ十字社による、HIV汚染血液を使った、悪影響があると分かっていながらの輸血。それはまさに731部隊で病原菌を注射され、どうやって死んでいくか、その様を裸でガラス張りの部屋の中で観察された生体実験者「マルタ」を想起させはしないだろうか。

731部隊のことを語るのは「自虐史観」というのだそうである。過去の失敗を学び未来に活かす、それのどこが自虐なのだろうか。自虐上等、私にとってそれは自愛以外の何ものでもない。


2010年2月7日追記

1937年9月23日、上海北部の揚子江を上陸してきた日本陸軍の田上部隊に対して、中国軍はホスゲンガス弾(窒息性毒ガス弾)を実戦使用しています。以下、下記のような従軍記者の記事を見つけましたので引用します。

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上海九月二十三日発 読売特派員 牧 信

中略

田上部隊本部付近でボスンという聞き慣れぬ砲弾の炸裂する音が鼓膜をふるわせた。「変な音だなあ」と並み居る兵達が顔を見合わせて怪訝な胸を波打たせた時、プーンとガスの匂いが鼻をついて来た。「毒瓦斯だっ」。一時にわが戦線はどよめき立ったがこの匂いは間もなく消えた。するとまたボスーンと中空に炸裂の音がしてプーンと不気味なガスの匂いが戦線を這った。いよいよ敵が毒瓦斯弾を使いはじめたのだ。ホスゲン瓦斯弾である。我が軍を窒息せしめようという人道上許すべからざる手段に訴えて態勢の挽回を図ろうとしたものらしい。だが、敵はこの毒瓦斯もその使い方を知らず遂に効力を発揮せずに我が軍はマスクを用いるまでもなかったが、化学戦の幕はここに切って落とされた。

後略

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「支那事変戦史」皇徳奉徳会編 昭和12年12月15日印刷 674ページより

この記事を読むと、中国軍は毒ガスを使う意志があった。そして実際に日本軍より早い時期に使った、ということです。私は、中国軍も日本軍も、戦況と準備の具合によっては、同じような行動を取るのかもしれない・・・、中国軍が日本人に対して細菌戦を行っていた可能性もある・・・、それが戦争というものなのか・・・、と感じました。また中国空軍が1937年の段階で日本本土空襲を企図していたことも知ると、単にその時の戦力のバランスによって加害者と被害者が変わるだけなのか、とも感じました。

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2009年2月14日 (土)

「支那の夜」 と桃の花にまつわる話

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最初の写真は、上海市北部、閘北(こうほく ジャベイ)と呼ばれる上海事変で徹底的に破壊された中国人街で撮影された桂蘭の実家のシーンである。庭にあった梅の木が一本だけ無傷で残っており、そこを訪れた桂蘭が香りをかいでいる。平和で幸せだった昔を思い出し、回想シーンへと続く。 細かいことを言うと、桜や桃と違い梅は、花が枝から一つ一つ出てくるらしいので、映像を見る限りはこれは梅であろう。

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次の写真は回想シーンの中で、桂蘭が実家の桃の花を愛でるシーンである。りっぱな造りの住宅と庭が映し出され、まだ生きていた母親も登場する。桂蘭が中国語で母親に「桃花」(タオホワ)と言っていたのでこれは桃だろう。桃の花は梅と違い枝から二つペアで出てくる。当記事後半に、「支那の夜」では造花が使われたという証言を記載したが、このシーンも撮影スタッフ手作りの造花を枝につけて撮影された可能性がある。

前回記事にコメント頂いたyanagiさんから教えて頂いた「人面桃花」(じんめんとうか レンミェンタオホワ)という漢詩の意味を調べてみた。こちらのブログを参照した。

去年今日此門中
人面桃花相映紅
人面不知何処去
桃花依旧笑春風
      

(訳詞)

去年の今日 この門のなかで見た
美しい娘の顔は満開の桃花に映じて紅に染まっていた
いま あの娘は何処に行ってしまったのだろう
桃花は旧に変わらず美しく咲いて春風にそよいでいる

人面桃花とは、美しい女性の例えで、悲恋の後、自ら命を絶った女性が、相手の男性の願いにより復活する話である。中国では有名な8世紀からの漢詩のようだ。

この桂蘭の実家における桃の花のシーンはストーリーの流れからは少し唐突な感じがした。なぜに必要なのかと。これは観ている人に「人面桃花」の漢詩を連想させることを狙っているのかもしれない。匪賊の襲撃により一度死んだ長谷がラストで復活、また長谷が死んだと思いこみ入水自殺しようと川に入った桂蘭が岸に戻る、というストーリーを暗示させているのではないか。この漢詩は日本ではほとんど知られていないので、中国の観客を意識したものと思われる。

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さて、主題とは別のエピソードだが、この蘇州での新婚旅行シーンにおける桃の花には、四方田犬彦氏著「李香蘭と東アジア」にややショッキングな後日談が載っている。

以下引用

 山口淑子はわたしを前に語った。

「その人はわたしに会うと、『李香蘭さん、あなたが『支那の夜』で持っていた梅の花は、あれは造花でしたですよね』と、わたしにいきなり言ったのです。わたしが何のことだかわからなくて、何も言えないでいると、その人は、実は自分は蘇州で撮影が行われているとき、それをずっと観ていたのです、と言ったのです」

 山口淑子はそこまで言うと、少し休んで、それから一気に自分が最近会ったという老女のことを話し出した。彼女は韓国人で、どうしても東京に行ったら李香蘭に会いたいという強い希望を抱いており、ある組織を通じて面会を求めてきたのだった。

 その人はなんでも教会の牧師さんの娘だったそうです。住んでいたのは京城から南にいった海の近くの町でした。その日は友達と一緒に新しい洋服を買ってもらったというので、うれしそうに街角を歩いていたのですが、いきなり巡査に連行され、大勢の女たちがいるところに収容されたというのです。16か17の頃ですね。そのまま家に帰らせてもらえず、大連まで汽車に乗せられ、そこから船で上海に行かされると、しばらくは陸軍病院で日本兵の血に汚れた包帯を洗う作業ばかりさせられた。その後、蘇州の慰安所に送られ、将校専属の慰安婦にさせられた。抵抗すると、日本刀で斬りつけられて血だらけになりました。

 

Photo_3(「蘇州夜曲」の3番、”君が手折りし 桃の花”とを歌うところでちょうど長谷が造花?の桃の枝を折る)

 それでも監視の兵隊とはいつしか親しく口を聞くようになるのですね。あるとき親しくなった慰安所付きの兵隊が、おい、今日は休みだ、近くで映画の撮影をしているから連れて行ってやろうというので、出かけてみた。すると、李香蘭さん、あなたが桃の花を持って、長谷川一夫と話をしている場面をちょうど撮影しているところだったのです。わたしは撮影を、大勢の群衆の後ろのほうからじっと見ていました。それはあなたが長谷川一夫のために梅の枝を折って手渡すという場面でした(注:実際の映画では上の写真のように、造花?の花のついた枝を長谷川一夫が折って李香蘭に渡すシーンだと思われる。花は「蘇州夜曲」の歌詞を意識して梅でなく桃を想定したと思われる)。

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 けれども時期が時期で、梅の花はすでに散ってしまい、どこにも咲いていない。しかたがないので誰かがその場で梅の花を造花でこしらえて、準備をしているのです。黒山の人だかりのなかで、たまたまわたしがいるすぐ近くで、その人がせっせと造花を作っているのを、わたしはずっと眺めていました。それは本当に偶然に与えられた休みの日の出来事だったのです。

山口淑子はここまで語ると少し間をおいて、いくぶん強い調子で言った。「年だってほとんど違わないのに、同じ場所に居合わせている一人がスターで、もう一人が慰安婦だなんて、どうしてこんなことがありえたのでしょう。わたしはその人のことをついこないだまで、何も知らなかった。けれどもその人はわたしのことを、ずっと考えていたのです。あの時の梅の花が造花だったということを。わたしが戦争を憎むのは、このためです」

以上引用終わり



山口淑子氏はこの出来事がきっかけだったのだろうか、その後「アジア女性基金」の設立発起人の一人となり、従軍慰安婦問題に取り組んだ時期があった。しかし、この基金からの募金を韓国の元慰安婦達は韓国側支援団体の指示により、一部を除きほとんどの女性が受け取らなかった。残念ながら山口淑子達の心は通じることもなく、基金は解散した。


この韓国人老女の話が仮に事実だとすると、当初は従軍看護婦として中国へ連れていかれたようである。その後、将校付きの慰安婦に変わったようだ。「抵抗すると日本刀で斬りつけられて」とは、せっかく来た女性に対する行為として信じがたいが、看護婦として募集がかけられ、後に慰安婦となるよう要求された、あるいは給料の多寡によって自らそうなった、という可能性があろう。


また、この話が示す通り、休日には気心の知れた日本兵と小旅行くらいはできたようである。この辺の話は、米軍が終戦直後に元慰安婦から聴取し記録したミャンマーでの慰安婦の記録とも合致する部分だ。



2013年1月19日追記

戦後29年経ってルバング島から無事帰還した日本兵士、小野田寛夫さんの書いた証言を引用されているブログを見つけたのでリンクさせておく→今こそ知るべし「小野田寛夫 私が見た従軍慰安婦の正体」

安倍首相など自民党は、従軍慰安婦についての軍の強制性は無かった、と主張している。その件に関して調べる時に参考となる証言だった。小野田さんは、強制性は無かったと主張されている。中国韓国の一方的な主張は眉に唾をせねばならない。

また、本日の産経新聞ネット版の報道によると、李香蘭(山口淑子さん)らの「アジア女性基金」の対象となった元従軍慰安婦は236人いて、これまで非公表だったがそのうちの61名は償い金を受け取っていたことがわかった。3割程度の方が賛同していたことになる。この人道支援を受け取った方は、韓国内の支援団体から村八分にされて排除されたらしい。当の本人が和解してしまっては、支援団体(実質的な反日団体)の存続に意味がなくなるということだろう。

 


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2009年2月 8日 (日)

驚くべき言葉の隠されていた「支那の夜」(「蘇州夜曲」)

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もともと「支那の夜」というタイトルの128分もの大作映画であったが、それが戦後、支那という言葉が出てくる部分や、中国側が不快に思いそうな部分を大幅にカットして、92分に短縮し「蘇州夜曲」というタイトルとした。その「蘇州夜曲」が、チャンネルNECOにて放送されたというわけだ。絶版になってしまったビデオ「蘇州夜曲」と同じものである。

短縮せざるを得なかった事実も一つ歴史であり、それには理由があったわけだ。今回見た映画は、「支那の夜」ではなく、「蘇州夜曲」である。しかし大筋のシナリオ、主題は変わっていないと捕らえ、また「歴史に目をつぶらず未来に活かす」という思いをこめて、以下原題のまま「支那の夜」と書かせていただく。

さて本題に入る。この映画に対する私の注目点は三つあり、まず最初に、テンピンルーの丁黙邨暗殺未遂事件との絡みの件の確認、二つ目が戦争宣伝国策映画の代表的作品として知られるこの映画がどれくらい国策的ストーリーなのか?三つ目が、山口淑子氏自身も再三にわたって悔悟の念を述べる有名シーンである長谷による桂蘭殴打の場面である。

テンピンルーとの絡みについては前回の記事「「支那の夜」と「ラスト コーション」の類似性 宝石店にて」を参照いただくとして、二つ目の注目点の戦争宣伝国策映画としての「支那の夜」である。「私の鶯」が、表向きは満州事変正当化映画だったが、この「支那の夜」は、表向き、上海における平和的現状維持正当化映画だった。

Photo_3 第二次上海事変が終わって2年たった繁栄する上海で、

「日本人、中国人、平和に、決して争わず仲良く暮らしましょう、その指導には日本が当たります。安心して、信頼して、日本についてきて下さい」

という映画であった。少なくとも表向きは。戦争の拡大、遂行ではなく、日本が主導権を握る平和の維持が当時の上海における日本の国策だったということが逆引きでわかる。これは、影佐機関が裏で画策する汪精衛の非戦主義政権樹立と連動した映画だったということも見えてくる。

さて、長谷による桂蘭殴打シーンである。このシーンは唐突にはやってこない。十分すぎるほどの伏線を敷いていた。

一つ目の伏線。それはまず桂蘭の前で支那人をあざける言葉を吐いた日本人少年を日本語で反撃し叩いてしまう桂蘭のシーンから始まる。幼い子供を殴る桂蘭に対し、それを見ていた長谷は桂蘭を叱らない。

二つ目の伏線。長谷にほのかな恋心を持つ三浦とし子は、長谷と街中に出てショッピングをしている。彼女は長谷が連れてきて、かたくなに心を開かない桂蘭に長谷が買ったおみやげを渡そうとする。すると、桂蘭はをそれを振り払って床に落としてしまう。Photo

それでも、日本軍により家を破壊され両親を失い、孤児となってしまった桂蘭が可哀相だと世話を焼く長谷。桂蘭が熱を出すと必死に看病する。すると桂蘭が中国語で寝言を言い始める。それはやがて、日本語となり、「長谷さんは私を殴らない。私が悪いことをしても殴らない。私はそれがつらい、苦しい」という言葉となる。(一つ目の伏線、子供を叩く部分はコメント頂いたCosmopolitanさんに教えてもらいました。「短縮版「蘇州夜曲」ではカットされてしまっています)

三つ目の伏線。桂蘭は両親と住んでいたを家を訪れ(上海市北部の実際の戦災跡地を撮影している)、無惨にも崩れ落ち瓦だけが残る実家の跡を見て、「こんなにしたのは誰なの?!私は恨みます!」と言い、日本軍の行為を非難する。桂蘭が日本人に対してかたくなな態度をとり続けるのが当然という流れを作っている。実家を見に行った後、なかなか長谷達のもとに戻らない桂蘭。方々探した長谷の仲間達も心配している。長谷は皆に迷惑をかけていることに責任を感じ、もう桂蘭の世話はあきらめようと言う。

兄を中国軍との戦闘で失っている三浦とし子は、自分の長谷への恋心を隠しながら、「桂蘭は愛情に飢えて、ひねくれてしまった可哀相な人なのだから、世話をし続けてあげましょう。桂蘭を幸せにできるのは長谷さんだけです」と言葉をかける。(この三浦とし子のせりふは上戸彩「李香蘭」での児玉英水の隠された恋心 を彷彿とさせる切なさがある)

そんな中、ふくれっ面をして帰ってきた桂蘭。「長谷さんに借りがあるから戻ってきただけです」捨て台詞を言う。ホテルに同宿している長谷の仲間の女性が滋養にいいということで葛湯(くずゆ)を持ってくるが、桂蘭は「もう騙されないわ」と言って葛湯を払いのけ、湯飲みが落ちて割れる。その瞬間、長谷の堪忍袋の緒が切れて、桂蘭を叱るべく平手打ちするわけだ。

ここまでの伏線があれば、父親代わりを自認する長谷が、仲間に迷惑をかけている我が子代わりの桂蘭を叱るのは不自然ではない。頬の殴り方が、すこしビンタにしては強すぎたかなとは思うが、叱るシチュエーションとしては違和感がなかった。そして、桂蘭は自分のわがままに気づくのと、父親のように真剣に叱ってくれたこと、またむしろ叩いたことを反省する長谷に誠実さと愛情を感じる、という流れも、変わり身が早すぎるとはいえ理解の範疇にある。しかしそれは、私が日本人であり、桂蘭を日本人の養父に養われる娘として見ているからだ。Photo_4

なぜこれが問題になったかというと、中国人側に受け止める方として受け止めきれないものがあるからだ。桂蘭が象徴する「中国」を殴って叱り、長谷が象徴する「日本」が指導する。殴られた方はその指導者を慕い、ずっと一緒に生きていくことを誓う。つまり武器で中国を懲らしめ、指導者の立場に君臨する日本軍を当然と思わせるシナリオだからだ。しかもそれを平気で「中国人」女優、李香蘭が演じていると。

さらに、男性の立場で言わせてもらうと、自国の女性が自国の男性に目もくれず、支配的立場の外国の男性を慕いなびき、心を奪われる様は、本能的に「見ちゃいられない!」ような情けなさを感じるものである。日本の敗戦後に進駐してきたアメリカ軍人に、日本の女性が群がっているのを、見ちゃいられなかったのではないか?ということである。

そんなこんなで問題シーンとなった。

ここで終わりならそれで終わりである。

ところが、この殴打シーンの続きを見ていて、私は予想外のせりふに遭遇した。

桂蘭を殴打したあと、長谷はうなだれていすに座り、こう言うのだ。

「桂蘭、僕はとうとう君を殴った。僕の負けだ。

自分の力を信じすぎた罰だ。

僕は滑稽(こっけい)なうぬぼれ屋だ。

許してくれ。

そしてどこへでも君の好きなところへ行ってくれ」

さて「支那の夜」では、表面的には桂蘭は中国を代表し、長谷は日本を代表している。

そこで、「桂蘭」を「中国」と、「僕」を「日本」と入れ替えてみる。

Photo_2

「中国よ、日本はとうとう中国を殴った。日本の負けだ。

自国の力を信じすぎた罰だ。

日本は滑稽なうぬぼれ屋だ。

許してくれ。

そしてどこへでも中国の好きなところへ行ってくれ」

「殴った」、を「攻撃した」と入れ替えるともっとしっくりくるだろう。この言葉を日本の敗戦後ではなく、上海を武力制圧した1938年から2年経ち、上海統治も軌道にのりつつあった1940年の段階で言っているのだから、驚異的な予言である。これほど簡潔に中国での日本軍の実情を表した言葉はない。すぐれた反戦メッセージである。

さらに付け加えると、上にも書いたが、長谷による殴打の前、桂蘭が破壊された実家を訪れるシーンで「こんなにしたのは誰ですか!」というせりふ。この時点までに桂蘭に感情移入してしまっている観客は、日本軍による攻撃に嫌悪感を持つのが自然だ。

「支那の夜」は、確かに国策映画である。上記の長谷による反省のせりふの後、すぐに桂蘭が「悪いのは私・・・」というように長谷にしなだれかかる。やはり長谷が正しいのだ、つまり日本が正しいということに中国が気づく、というストーリーに瞬時に戻ってしまう。しかし、裏のシナリオでは、反戦への思いを想起させ日本軍を否定するようなシーン、せりふを隠していたのだ。

国策映画の一言で切って捨てるなどとんでもない。

「支那の夜」恐るべし、制作者、さすがである。

(Windowsパソコンをお使いで、ブラウザーをIE8にバージョンアップ出来る方はIE8をお薦めします。写真が綺麗になり中のキャプションも読めるようになります。Macの方はそのままで綺麗に見ることができます)

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2009年2月 6日 (金)

「支那の夜」と「ラスト コーション」の類似性。宝石店にて

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以前「テンピンルーを最初に演じた女優、それは」という記事を書かせてもらった。2008年8月2日、愛知大学での研究発表を聴講してきたときのことである。その時に、関西学院大学の西村准教授が鄭蘋如(テンピンルー)の研究発表を行い、その発表の中で「支那の夜」の一部を上映した。私はその映像を見て、瞬間的に既視感に襲われた。これは映画「ラスト コーション」のシーンそのものではないかと。

1940年封切りの映画「支那の夜」(現在のタイトルは「蘇州夜曲」)。そして2007年ベネチア映画祭で金獅子賞を取った「ラスト コーション」。その両映画の宝石店でのシーンが私の中でぴったりと重なったのだ。

それをもう一度確かめたかったのだが「支那の夜」はビデオが絶版になっている。確認のしようが無かった。ところが、今こうして自分の部屋のテレビで「支那の夜」が見れようとは。チャンネルNecoに感謝したい。

上の写真の通り、やはり私の既視感は間違いではなかった。

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Photo_3 「ラスト コーション」はご存じの通り、テンピンルーのかかわった丁黙邨暗殺未遂事件をモチーフに、張愛玲が書いた短編小説「色 戒」を原作とする。冒頭三連の写真は、そのストーリーの中でもクライマックスにあたる部分である。しかし日中のハーフであったテンピンルーが持っていたであろうアイデンティティの相克はこの小説「色 戒」、そして「ラスト コーション」には描かれてはいない。小説は張愛玲の個人的な背景がベースになっている。

一方「支那の夜」に原作があるわけではないが、丁黙邨暗殺未遂事件は1939年12月21日。まさに「支那の夜」のシナリオ作成が行われていた頃である。またテンピンルーを題材とした松崎啓次の「上海人文記」が出版されたのも1940年のことである。松崎啓次がシナリオ作成に協力したことは十分に考えられる。

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2007年秋、「ラスト コーション」が世に出たことで、テンピンルーの存在が一躍クローズアップされた。しかし、抗日と親日の間を揺れ動く、どちらに取ってよいのか最後までわからない桂欄を見るにつけ、むしろ「支那の夜」の方が、テンピンルーを象徴的に描いたと言ってよいのではないだろうか。そしてそれはとりもなおさず、テンピンルーを最初に演じた女優は李香蘭、こと山口淑子だった、ということである。 日中の狭間で揺さぶられたピンルー。李香蘭は自分がピンルーを演じたと認識していないかもしれない。しかし、ピンルーを演じるに最もふさわしかった女優、それは李香蘭を置いて他になかった、ということは確かであろう。

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