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2008年1月14日 (月)

日中戦のはざまで 鄭蘋如(テンピンルー)の悲劇 後編

(注:長文記事です)

張愛怜の「色 戒」を原作とする映画Lust Cautionのヒロインのモチーフとなった実在の日系中国人女性、鄭蘋如(テンピンルー 郑苹如)の悲劇についての続編です。

Photo_10 1939年5月8日、蒋介石の追手に迫られた汪精衛は、ハノイを脱出、上海にやってきた。影佐機関と上海憲兵隊は、抗日テロ対策だけでなく、汪精衛の護衛にも気をもむ毎日となった。

その少し前のこと、丁黙邨と李士群が、「半年で抗日テロを根絶やしにしてみせましょう」と、外務省の清水書記官の紹介で、影佐の前任者である土肥原中将に秘密組織の提案をしてきた。1939年の2月上旬のことである。土肥原の後を継いだ影佐は渡りに船のその提案に乗った。

翌月、上海ジェスフィールド通りの76番地にてこの秘密組織は産声を上げた。その住所から、この秘密組織は以後「ジェスフィールド76号」と呼ばれるようになった。影佐機関は、この76号にかき集めた拳銃300丁ほどを与え、また阿片取引などで得た軍資金(当時のお金で30万円)を毎月支給するようになった。日本軍としては、CC団や藍衣社によって次々と親日中国人らが暗殺されていくのを放っておく訳ににはいかなかった。76号を実働部隊として、テロに対しはテロで対抗することとしたのだ。頭目は丁黙邨、副が李士群である。

1939年3月7日、日本の憲兵隊は、CC団の大物で抗日遊撃隊の司令官、熊剣東の身柄を拘束した。憲兵隊は彼を76号へ引き渡し、寝返らせる目的をもって拘留を続けることとなった。ある日、彼の妻、唐逸君が万宜坊の鄭蘋如(テンピンルー)の家を探し出し、大勢の武装した護衛を連れてやって来た。

事のいきさつはこうだ(注:多くは2009年9月に女流作家、楊瑩(ヤン・ユィン)が行った、ピンルーの妹天如さんへのインタビューを参考にした)。

唐逸君は、いつ釈放されるか全くめどのつかない夫を救い出すために、つてを頼って敵側である76号の李士群に話しをつけた。李士群は組織の長である丁黙邨に伝えた。拘留中の熊剣東が親日側に転向すれば釈放することは一向にかまわない。実際、憲兵隊や76号が捕らえたCC団や蘭衣社系の反日分子も、転向が確実になれば大勢が釈放されており、76号に忠誠を誓って活動していた。丁黙邨は、熊剣東の釈放に、特別な条件を付けた。その一つがこうだった。

「いつも日本人と一緒にいて、綺麗で、ある人は日本人だと言い、ある人は中国人だと言う、いささか76号には都合の悪い状況を作る、その女性に私は会いたい」

この女性こそがテンピンルーである。「76号に都合の悪い状況を作る」の意味であるが、ピンルーの父、主席検察官の鄭越(ていえつ テンユエ)が、76号によるテロ行為に対し、起訴をもって対抗している状況、そしてピンルー自身も日本側からの情報収集により76号の活動に不利な状況を作っている、このあたりを指すものと思われる。

唐逸君はピンルーの履歴を既に調べていた。彼女は丁黙邨に言った。

「彼女は一時期あなたの学校の学生でした。私たちはよく知っています。この関係を使えば、私はこの女性をあなたに会わせることができます」

こうして唐逸君はピンルーに面会に来たのだ。妹天如が耳をそば立てている中、唐逸君はピンルーに向かって口を開いた。

「あなたの身分は”暴露”されていますよ」

天如は、「この”暴露”という聞き慣れない言葉が耳から離れない」とインタビューで答えている。

唐逸君は続ける。

「私はやむを得ずここに来ました。夫を救出したいのです。遊撃隊も夫を必要としています。私は、敵側のボスを見つけました。名前を丁黙邨といいます。丁はあなたに会いたいと言っています。あなたの学校の校長(注:実際は理事長)だった人です。この人にすぐにでも会ってもらえませんか」

ピンルーは突然の話にあっけにとられた。確かに民光中学校に通ったことはある。しかし丁黙邨が理事長をやっていたの時にはピンルーはいなかった。顔見知りでも恩師でもない。

「丁黙邨は実にあなたの家族のことをよく調べ上げています。当然お父さんのお仕事のことも。会った方がいいですよ。さもなくば、お父さんの毎日の出退勤は危険なことになりますよ。そしてあなたの家族も」

ピンルーは言葉を失ったままだ。

「考えておきます・・・」

そう答えるのが精一杯だった。

「連絡を待ってますよ」

熊剣東の妻はそう言い残して再び護衛を従え帰っていった。

ピンルーはCC団の上司である嵇希宗(けいきしゅう)にこのことを伝えた。嵇希宗はCC団の上海方面の責任者の一人、陳宝驊(ちんほうか)に相談した。CC団も蘭衣社も、ジェスフィールド76号からの圧迫に危機感を募らせていた。6月頃から76号の襲撃は激烈を極め、CC団、蘭衣社とも「丁黙邨と李士群に対する制裁令」を度々出した。陳宝驊は早く成果を出すようプレッシャーを受けた。

「丁黙邨は危険すぎる。しかも防御は鉄壁だ」

そこに今回のピンルーの話である。

「ピンルーにこの話に乗らせよう。丁黙邨と親密になり、その立場を利用して油断した丁黙邨を消すのだ・・・。」

彼は嵇希宗に指令を出し、嵇希宗はピンルーにこの話しに乗るように伝えた。

「会うだけだ。丁に会うだけで熊剣東司令官は救出され、家族も安全になるのだ」

ピンルーはそう自分に言い聞かせた。彼女は用心のために、知り合いとなっていた上海憲兵隊特高課の藤野に丁黙邨の紹介を頼んだ。藤野はピンルーの監視役を勤めていたが、日常からピンルーに安心感を与えるような付き合い方をしていた。一緒に映画を見に行くこともあったという。彼女はジェスフィールド76号が、日本憲兵隊の管理下にあることを知っており、あえて藤野を通すことで安全を確保しようとしたのだ。

そして陳宝驊の指示に沿って、第二段階として嵇希宗からピンルーに対し、丁黙邨暗殺計画がもたらされた。親しくなった丁黙邨を、怪しまれずに暗殺場所までおびき出せというのである。それまで情報収集が仕事だったピンルーは、暗殺とは無縁であった。彼女は断った。すると嵇希宗は言った。

「あなたに日本人の血が流れていることはみんなよく知っている。しかし、あなたは愛国者ですよね?抗日の愛国者ですよね」

ピンルーは再び自分に言い聞かせることとなった。

「おびき出すだけ・・・」

怪しまれずにおびき出すにも順序がある。ピンルーは丁黙邨と、心の通わない交際を重ねていくこととなった。

ピンルーの弟南陽が戦後に丁黙邨漢奸裁判で提出した告訴状によると、丁黙邨はピンルーにこのようなことを言ったようだ。

「あなたのお父さんは、なぜ和平運動に参加しないのですか?」

和平運動とは汪精衛が提唱したもので、抗戦停止を求める国民党内での運動である。抗日戦争をやめ共産党に対抗する事を最優先するというものだ。これは日本側にとって都合がよかった。しかし、汪清衛の国民党内のライバルである蒋介石は、さらなる抗日テロで答えた。この抗日テロに対抗するため、ジェスフィールド76号が誕生することとなったのは前述したとおりだ。

「もし言うことを聞かないなら、76号の人がお父さんの命を奪いに来てしまうかもしれませんよ」

丁黙邨はたたみかけた。

彼のこの言葉には真実味があった。1939年7月22日、次のような事件があったのだ。ジェスフィールド76号は、日本憲兵隊の了解を得て、抗日新聞の「中美日報」社を襲撃、新聞社職員に死傷者が出た。この事件に対して上海第二特区高等法院の裁判長、郁華は11月22日、76号の実行犯に死刑判決を言い渡した。それを逆恨みしたジェスフィールド76号が、翌日の11月23日、我が子と一緒に人力車に乗っている郁華裁判長を射殺したのだ。

日本側は上海の司法分野の要職に就く人材をすべて親日に転向させる意志を持ち続けていた。その意向を受けて、76号は次のターゲットをピンルーの父親、主席検察官である鄭鉞(ていえつ)に向けてきたのだ。76号は自分らが思い通りに行動するためにも、上海の租界を担当する裁判長や検察官を武力をもって親日に転向させる、あるいは暗殺によって消していこう、と考えたのだ。 

この事件について、影佐機関長影佐禎昭が陸軍阿南次官へ提出した「丁黙邨側工作報告 第十二次」には次のように報告されている。

高等第二法院裁判長郁華を処罰せる件

被殺人    郁華

日時     本月(注:1939年11月)23日午前

地点     フランス租界善鐘路202号弄内

罪状     該人の事件処理は極めて不公平にして、

        我が方より共産党に利用せらるること

        なかれと警告せるに、敢えて訂正せざる

        ため厳重なる制裁を加えたり

処置状況  人員を派遣して射殺せり

この報告では、射殺制裁の理由を、郁華裁判長が共産党に利用されていること、としているが、これはカモフラージュということになろう。

妹天如さんによると、この郁華事件のあと、ピンルーは父親に今自分がやっていることを洗いざらい話したようだ。父親鄭鉞は、かねてより娘がなにか事情を隠していると感じ、厳しく接していたが、この後父と娘の関係は良くなったと語っている。

丁黙邨が出した熊剣東釈放のもう一つの条件である、CC団遊撃隊の副司令官、張瑞京を76号に身代わりに差し出すことが、やや強引に実行に移された。ある日、熊剣東の妻、唐逸君の罠によって張瑞京は錦江飯店におびき出され、76号が調合した睡眠薬を飲まされ76号に拘束されたのだ。

(2010年6月16日追記:1939年12月25日付の現地新聞「新申報」に「工部局警務報告」というタイトルの記事があるのを京都にある国会図書館関西館にて見つけた。上海共同租界内における前月の犯罪発生状況が記載されていた。その中に「麻酔薬剤服會先後出動十八次」(睡眠薬を利用した事件に関し18回の捜査)、とあった。1939年11月に確かに睡眠薬を使った犯罪があったことがわかった)

こうして監禁された張瑞京だが、彼はもともと李士群と旧友だった。監禁3日目には転向を表明、76号のために隠密に活動を開始した。そしてCC団がテンピンルーを利用して丁黙邨を暗殺する計画を知る立場にあった彼は、その計画を包み隠さず李士群に暴露したのだ。

ジェスフィールド76号が出来たとき、李士群は部下の数も少なく、年長者でもある丁黙邨にトップの地位を譲らざるを得なかった。彼はそれから半年以上も我慢した。しかし今や彼の勢力は増大した。そしてなによりも、影佐機関に対して忠実で素直な性格の彼は、日本側の受けが丁黙邨より格段にいいことを知っていた。張瑞京が李士群に漏らした計画は、丁黙邨を76号から追い出し、自分がトップの座につくためには、思いがけないチャンスに映った。

Photo_3 1939年の12月21日のことだった、影佐らは汪精衛やその側近を上海「六三花園」という老舗の日本料理屋(左の写真)に招き、忘年会を行うこととなった。汪精衛の動く時は常に警護にあたっていた憲兵隊特高課長林秀澄は、汪精衛の側近である丁黙邨がいつまでたっても来ないことが気になった。彼の部下から電話が入った。その日午後6時20分ごろ、丁黙邨が六三花園に向かう途中の静安寺路にて襲撃されたというのだ。しばらくすると丁黙邨が真っ青な顔をして宴席に駆けつけてきた。彼は何本か電話をかけ終わるとようやく落ち着いたようだった。

その日、ピンルーは丁黙邨から連絡を受け、上海の西にある知人の家での昼の食事に誘われていた。ピンルーはそれを嵇希宗に伝えた。彼らはチャンスとみた。彼らの計画は、ピンルーが妹へのクリスマスのプレゼントとしてシベリア毛皮店のコートがほしいと丁黙邨にねだり、一緒にこの毛皮店まで行く。すると待ち伏せしている嵇希宗の仲間の陳彬(ちんひん)、そして彼の雇った殺し屋の二人が銃撃するというものだ。

夕方になった。

「虹口で日本の人たちとの忘年会がある。そろそろ行かないといけない」

と丁黙邨はピンルーに告げた。彼女はついに実行の時が来たと感じた。丁黙邨をなんとかシベリア毛皮店に連れて行くのだ。Siberianfurstore_2

Photo_3

ピンルーは丁黙邨にクルマで家まで送ってもらう途中、プレゼントのことを言ってみた。丁黙邨は少しだけ逡巡したが承知した。丁黙邨はピンルーとクルマで、静安寺路のシベリア毛皮店に向かった。店の反対側にクルマを止めた。イギリスが統治する共同租界はクルマは左側通行なので、上の地図で言うと左側から来て店の向こう側に止めたことになる。二人は道路を渡って店の中に入った。彼は長居は危険と判断した。ピンルーに好きなものを選ぶように言ってお金を置き、彼女を店に残してすぐにクルマに駆け戻った。外で待ち伏せする陳彬らは思ったよりも早く店を出てきた丁黙邨に不意を突かれた。二人のヒットマンのうち、一人の銃は不発だった。もう一人があわてて撃ち始めるが、防弾装備のクルマに当たるだけだった。クルマに飛び乗った丁黙邨は無事現場から脱出した。そしてだいぶ遅れてこの忘年会に出席したというわけだ。



なお、この事件について、当時の新聞記事を元に筆者独自の推理を記事にしたのでご参照ください→「暗殺未遂事件の新聞記事より」


一方、76号のボスの座を争う丁黙邨のライバル、李士群は部下をシベリア毛皮店の周辺に配置させて、成り行きを監視させていた。すべては予定通りだった。彼は六三花園の忘年会の席で、遅刻する丁黙邨を見てほくそ笑んだ。

「これで丁黙邨を追い落とせる・・・」

ピンルー自身は、暗殺の失敗を受け止めるのにしばらく時間がかかった。震える手で妹天如らに渡すプレゼントにリボンを付けると、なんとか自宅に戻った。すでに家には丁黙邨から電話が入っていた。

「お姉さんを自首させなさい。例え私が許したとしても部下が許しません」

今や事態を把握した丁黙邨はそう言うと電話を切った。

宴会が終わり、林秀澄が帰宅すると、部下の藤野分隊長が電話をかけてきた。藤野が言うにはピンルーが事件のすぐ後、藤野に電話をかけてきたらしい。

林秀澄談話速記録Ⅲによると、次のような会話が交わされたことになっている。藤野が言う。

「林さん、聞いてみますと今日はとんでもないことが起きたようですね」

「うん、おきた。鄭蘋如の野郎がね」

「いや、その鄭蘋如が私に先ほど電話をかけてきて「藤野さん、私のやったことはいいことでしょうか、悪いことでしょうか、藤野さんどう思いますか?」

と言うんです」

藤野はピンルーに言う。

「自分がいいと思っていればいいんだし、悪いと思っていれば悪いし」

ピンルーは、

「私は今どうしたらいいか困っている。日本側に対しても悪いし、支那側に対しても悪くて。今支那側から追っかけられている。家にも帰れない」

と藤野に切羽詰まった気持ちを伝えた。

藤野から連絡を受けた林は、

「鄭蘋如の居場所はわからんか」

と聞く。

「いやそれはピンルーが居場所をおしえてくれない」

林は指示した。

「そうか、それならしょうがない。しかし結局日本側にこれから頼るところがあるとすると、藤野君、君の所以外に鄭蘋如が頼ってくるところは無いと思うから、鄭蘋如を捕まえるなんておくびにもだすなよ。鄭蘋如から電話がかかってきたら大いに同情して、「おれの方で役に立つことがあったら何でも世話をしてやるから言ってこい」、というようにして、つかず離れず、彼女との接触だけは絶たないようにしてくれよ」

林秀澄によると、藤野にとって寝耳に水の事だったと言いたいようであり、ピンルーは自分でも悪いことをしてしまったと反省しているように書かれている。しかし、計画を知っていた李士群が自分を密偵として雇っている藤野にこの計画を伝えていた可能性は高い。藤野が知っていたらそれは林も知っているということである。

また、周到に準備してきたピンルーがいまさら、「自分のやったことはいいことでしょうか、悪いことでしょうか」などと憲兵に尋ねるはずがない。この部分は「ピンルーには罪を犯した後ろめたさがあった」としておきたい林秀澄の意図があるのだろう。

ちなみに、狙撃時、陳彬の拳銃は故障して不発だったようであるが、妹の天如さんは、この故障は故意だったのではないかと疑っている。その疑いの行きつく先を私が想像するとこうだ。

・・・・・・76号の長である丁黙邨を本当に殺してしまうと、その捜査は徹底的になされ、芋づる式に計画がばれる可能性がある。すると李士群の真の目的が公にならないとも限らない。また、日本側も76号に二人の船頭は不要だと判断しつつあり、丁黙邨を別組織で使いたがっている。そこで丁黙邨はあえて殺さない。それには敵側実行部隊である嵇希宗と仲間の陳彬(ちんひん)と取引する必要があった。李士群は嵇希宗と陳彬ら実行部隊を今後とも76号側が逮捕しないことと引き換えに、丁黙邨の暗殺は未遂とする取引をした。

丁黙邨を生かしながら追い落とすにはどうするか。テンピンルーと丁黙邨の男女関係を暴露するだけで十分だ。敵側女スパイに籠絡され、しかも愛情関係のもつれにより殺されかけた、という作り話をマスコミにリークするのだ。それだけでも部下の信任は失われ誇り高い丁黙邨は76号にいられなくなるだろう。

さらに、影佐機関が、のどから手が出るほどほしかったテンピンルー拘束の罪状も、暗殺未遂の共犯者として得ることができる。そして人質同然となったピンルーの釈放を餌に、いよいよ本丸であるピンルーの父、主席検察官鄭鉞(ていえつ)の親日への転向を引き出すのだ・・・・・

どうだろうか。この流れだと、嵇希宗と陳彬の二人、あるいはCC団そのものがテンピンルーをかくまったり、掴まった後の釈放のための行動を起こさなかったことの納得がいき、同時に二人が事件後も76号サイドから報復を受けることなく逃げおおせたことも理解できる。(注:2010年5月9日追記:柳沢隆行氏の「鄭蘋如」によると、嵇希宗は1942年6月に76号に拘束され、なんと丁黙邨の口利きで釈放されている。嵇希宗は1940年春頃に 76号を追い出されて失意の丁黙邨のCC団への取り込みに成功していたようである。また陳彬は1940年7月に汪政権が作成した逮捕令に入っておりその後逮捕銃殺されたようである。ただし両者とも丁黙邨暗殺未遂事件が理由ではなく和平運動の障害となる人物とみなされてのようである)

また、この事件は日本側の了解済みとも疑われる。なぜなら、毎月書かれる影佐機関の「丁黙邨側工作報告書」に、この事件の記載が全くないのだ。報告書のタイトルとなる組織の長が暗殺されかけた事件にもかかわらずだ。日本側にとっては、この事件は内密に処理され、歴史的には無かったものとしたかったようだ。純粋なテロ行為だったら当然、全組織をあげての対抗措置が執られるはずだが、その後CC団や蘭衣社への報復的反撃が行われた形跡が記録されていない。あったのは、丁黙邨を76号の外に出し社会福利部を新設しそこの長とする、76号は李士群を唯一の長とする、という人事異動だけであった。

さて、帰宅したピンルーは両親、弟の南陽らと相談した。妹の天如によれば、嵇希宗は逃げた方がいいと言う。しかし家族共々76号から安全に逃げおおせるのは不可能だ。陳彬のアドバイスは自首すれば刑は軽くなる、というものだった。ピンルーは最後は自分で決断した。家族の安全を最優先とし、自首することにしたのだ。

12月25日、家を出る前にピンルーは、3年前に亡くなった姉、真如の娘倍倍(ベイベイ)を膝の上に抱いた。ベイベイは泣きやまない。泣きやんだら彼女は家をようと決めた。やがてベイベイが泣きやんだ。ピンルーの膝の上でベイベイがにこにこ笑う。午後3時、ピンルーは家を出て行った。

晴氣慶胤(はるけよしたね)の「謀略の上海」によれば、彼女は日本人地区の虹口に逃げ、籠絡(ろうらく)した複数の日本軍人にかくまってもらったとなっている。一方、松崎啓次の「上海人文記」によれば、日本軍報道部時代の日本人の知人である大沢にかくまってもらったとなっている。後者が近いだろう。晴氣慶胤をはじめ、犬養健など影佐機関員の書いた著書はすべて、ピンルーはかたっぱしから日本人をハニートラップに引っかける毒蛇のような女、というスタンスで書かれている。これはピンルーのキャラクターに対する印象操作、戦後の戦犯逃れの一種だと思われる。

家を出た後、ピンルーは信頼していた憲兵隊の藤野に何度か相談の電話をかけた。

台湾国民政府所蔵、「中調局当案資料」によると、事件後、鄭家にはいくつかの電話がかかっている。一つは妹天如さんも言っている丁黙邨からのもので、「自首しなければ家族全員の命を奪う」という脅迫。

もう一つは藤野から母親木村はなへの電話だ。

「ずっと前から娘さんがスパイだとわかっていました。多くの報告がありましたから。大和民族の血統があるので捕まえていなかったのです。ただ、今回の行動だけは予想外でした」

などと語ったらしい。

なぜこのタイミングでこういう電話をあえて家族にかけるのだろうか。「予想外」と言っているが、逆に「筋書きを知っていた」、あるいは「積極的に関与した」ということをカモフラージュするためにも思える。

年も明けようとするころ、李士群は予定通りの行動に出た。

「浮気が原因で愛人の女スパイに殺され掛かった丁黙邨」

としてマスコミにリークしたのだ。夕刊紙は「桃色テロ」としてかき立てた。丁黙邨からは忠実な部下が一人、二人と離れていった。丁黙邨、李士群両方ににらみのきく周仏海の取りなしを得て、丁黙邨は汪精衛政府内の社会福祉部長ポストを約束され、76号を出て行くことになった。

年も明けるころ、藤野が使っている連絡所をピンルーは突然訪ねた。日本人にかくまわれていた家を出来てきたのだ。自首だった。林秀澄は「林秀澄氏談話速記録Ⅲ」の中で、

「こういうところはやはり支那人との接触で大事なところだと思うのですが、藤野君にあらかじめ連絡をしないでいきなり鄭蘋如が藤野君の使っておる連絡所に突然やってきたわけです」

と語っている。

ここの意味はずっとよくわからなかった。「ピンルーに対して「藤野は信頼できる憲兵だ」と思わせる日々の付き合いが成功した、これによって、ピンルーを呼び出すことに成功した」ということを言いたいのかと思うが、実際は脅迫による自首である。ピンルーは76号の監督者の立場にある藤野に最後の望みを託して、自首する先を藤野にしたのである。

自首がいつだったのかであるが、林秀澄によれば年が明けてしばらくたった日のこととある。しかし妹天如さんによると、12月25日に自首のために家を出たとなっている。この時間差は、ピンルーが隠れていた期間、あるいは本当に自首をするか彼女が逡巡していた期間だった可能性がある。

0030_2 母親が戦後の丁黙邨の漢奸裁判で提出した告訴状によると、事件後、家を出ていくピンルーにダイヤ、毛皮コート、金器、小切手などの財産を持たせていたようだ。長期の逃亡資金か捕まった際の保釈などに役立てば、ということだったのだろうか。1946年の張振華の著書には、処刑に立ち会った林子江がダイヤを持ち去ったという記述がある。

さてピンルーを突然迎えることになった藤野である。藤野は上司である林秀澄に、ピンルーの処置をどうするか電話をかけた。

「林さん、これはどうしますか」

林秀澄はすぐに身柄確保を指示し、ジェスフィールド76号のリーダー格である李士群と丁黙邨に連絡、日本側で処置するか、中国側で処置するかを投げかけた。そのときに、「日本軍の軍律会議にかければおそらく死刑ですよ」と付け加えることを忘れなかった。林はおびき出す役割を担っただけのピンルーを日本の軍律会議にかけても、死刑までもっていくのは難しいと知っていたのだろう。ジェスフィールド76号の扱いにした方が処刑するのにも有利で、日本憲兵隊の責任は免れると判断したと思われる。

李士群は事件の当事者である丁黙邨に判断をゆだねた。丁黙邨は土壇場で未練が出たのか即答できなかったが、最終的には「汪精衛衛側で厳しく処分します」という答えだった。76号はその日のうちに藤野少佐の連絡所にピンルーを引き取りにやってきた。

中国側のある説によると、暗殺失敗後、ピンルーは丁黙邨をあくまで殺そうと、一人でピストルを持って12月26日に家を出てゆき、 藤野と一緒に76号に向かい、76号内部で李士群の手配によって逮捕された、とも書かれている。しかし、これでは暗殺にならない。その場で76号の反撃を食らうのはあきらかであり、また家族への報復も容易に想像できる。この説はありえないだろう。

ピンルーは結局、藤野の連絡所で76号に引き取られ、76号幹部の管理する屋敷(現上海交響楽団のある建物)に監禁された。当初76号でも扱いは柔らかく、汪精衛側に役立つ情報を取れないか、転向させて利用できないか可能性を探っていた。しかし彼女は転向しなかった。

主席検察官である父親テンエツのもとには、さっそく親日政権側につけば娘を釈放する、という取引の話が日本側から持ちかけられた。ピンルーからは獄中から、「私は大丈夫。心配しないで」という短い手紙がテンエツのもとに届いていた。妹天如さんによると、一時テンエツは、この取引を受け入れ、上海を離れようと妄想していたと語っている。しかし、残酷な決断だったが、彼はこの取引を拒絶した。母親木村はなも泣く泣く同意した。汪精衛側にとって、その時点でピンルーの監禁を続ける意味がなくなった。処刑が決定された。

林秀澄は「林秀澄談話速記録Ⅲ」で、テンピンルーの処刑について、「汪政権が汪政権樹立の門出の血祭りに死刑に執行を行った」と書いている。汪精衛に責任を負わしている。組織上、処刑の最終決済は汪精衛が行うが、その意志決定過程において、汪精衛政権を護衛する義務のある影佐機関、そして上海憲兵隊の意向が働いていたのは間違いないだろう。

監禁中の責任者は林子江という蘭衣社から転向した幹部があたっていた。1940年2月中旬のある寒い日、処刑が決まると林子江はピンルーを抵抗なく連れ出す口実として映画を見に行く話を持ち出した。ピンルーは久々の外出ということで精一杯のおしゃれをし、化粧をして林子江とクルマに乗り込んだ。クルマにはなぜか日本人憲兵が同乗していた。クルマは映画館のある繁華街にさしかかった。しかしそこでは止まらなかった。次第に荒涼とした景色の郊外へと向かった。そして徐家匯(Zikawei)の刑場が近づいてきた。彼女は気づいた。自分は処刑されるのだ。それはとりもなおさず、父親が信念を曲げなかったということだ。ピンルーは父を誇りに思った。

クルマから出ることに若干の抵抗を示すピンルー。指示を出す林子江は元蘭衣社だ。彼女は叫んだ。

「林先生(リンシェンシャン)!」

林子江だけでなく、先に現地にいた林秀澄もビクッと驚いた。林秀澄は、中国人から上海語で「リンシーサン」と呼ばれていた。彼は自分の名前をピンルーが言ったと思ったのだ。

二人の男がピンルーの両脇をかかえ、彼女は車外に出された。

やがて覚悟を決め、刑場で静かにひざまずくピンルー。宣告文が読まれ後頭部に銃が突きつけられた。眼前には自分が落ち込むであろう四角い壕が大きく口を開けている。

「中国人として・・・、私は悪いことをしたのでしょうか・・・」

林秀澄が通訳を通して聞いた言葉である。処刑が確実に行なわれるかどうか、林秀澄は76号側の行動に一抹の不安を持っていた。彼はそれを見届けるために、先に刑場に到着していたのだ。

「顔は傷つけないでください」

「林秀澄談話速記録Ⅲ」によれば、「顔は傷つけないでくださいとかそのようなことを言っておったと通訳から聞いた」と、ピンルーの最後の言葉として林秀澄が供述している。最後の言葉としてはやや不自然な言葉にも感じる。

また「林秀澄談話速記録Ⅲ」には、人づてに母親はなからの捜索願が何度も憲兵隊に届いたとある。しかし、鄭家に対して、ピンルーの命と引き替えに主席検察官テンエツを汪精衛政権の法務部長に据えるという取引がすでに鄭家に対して提案されていたので、母親を含む家族はピンルーがジェスフィールド76号に捕らえられたと知っていたはずだ。したがって、母親が捜索願を出すことはないだろう。釈放願い、あるいは助命嘆願であろう。

また、処刑後、林秀澄は同じ日本人として、ピンルーの母親にどう報告するか悩み、死の報告はなるべく遅い方がいいだろうということで、林がジェスフィールド76号に頼み、偽の手紙を書かせたとある。「汪精衛の機関に入って広東に派遣されが、病気になったので当分広東から動けない」という内容の手紙だというのだ。しかし、鄭家には処刑後すぐに、遺体の引き渡しとテンエツの親日政権への寝返りを条件とする取引が再度持ち込まれているので、この手紙は無意味である(香港ATVによる妹、鄭天如さんへのインタビューより)。こちらの林の発言も取引提案のカモフラージュだろう。

3

林がそんな時間かせぎの隠蔽工作をしているうちに「誰が知らせるのか、娘の遺体はいつのまにか家族のもとに帰っていった」と「林秀澄談話速記録Ⅲ」に記述されている。しかし彼女の墓碑は残っていない。もし遺体が戻っていたのなら、遺族である母木村はなと妹天如さんは黙っていないだろう。

ピンルーの甥、鄭国基氏は南京ラジオテレビ集団のインタビューにこう答えている。

「鄭家の銀行口座はピンルー逮捕後に封鎖されてしまいました。ある日本人が遺体引き取りのためのお金を出してくれたのに、それを引き出すこともできませんでした。鄭家は極度の貧困に陥ってゆきました。祖母(注:木村はな)は遺体の引き取りにお金を要求されましたが不可能でした。木村はなは孫(注:国基氏ら)を育てるために街頭の野菜くずを拾うほどでした」

ということである。

結局ピンルーの遺体は家族のもとに帰らなかった。

ピンルーが丁黙邨と知り合うきっかけとなった熊剣東の釈放の件はどうなったのだろうか。いつ釈放されたのかは定かではない。親日側に転向し釈放された後の熊剣東は、汪精衛政権側の軍事委員会委員を皮切りに、黄衛軍総司令官、上海市保安司令部参謀長、税警総団長など、終戦まで汪精衛政権側を支える重要ポストに就いた。終戦後はすぐに蒋介石側に戻り、上海行動総指揮部副司令官となり日本軍が引いた後の治安維持にあたった。1946年8月、共産軍との銃撃戦で死亡とある。

「われらの生涯のなかの中国」(みすず書房)によると、元全日空社長岡崎嘉平太の語りの中で、このような一節がある。

「汪政権のとき、熊という姓の人でね、それが彼の家にいっぺん来なさいというんで、行ったんですよ。そうしたら「日本は何を考えてんですか」とこう言うんだ。「私は毎日重慶と無線連絡しているんですよ。私の屋根の上には、隠れているけどもアンテナがあるんだ。汪政権が重慶と関係ないように思われてると、とんでもないことです」

この「熊」という姓の人、が熊剣東だろう。蒋介石側から汪精衛側に寝返っていたとしても、それはポーズにすぎず、逆に重慶側に情報を流していたということのようだ。そのおかげでか、終戦後は漢奸にもならず蒋介石に迎えられたのだろう。

最後に2007年9月にピンルーの妹、鄭天如さんが、香港のテレビ局ATVに答えたインタビューの一部を紹介したい。

「ある日、お姉さんが夜中うなされた後に、母にこんなことを言っていました。

”媽媽(マーマ)!媽媽(マーマ)! わたし昨日の夜、とっても怖い夢を見たの。

ある人について歩いていくと、大きな壁があったの。

その壁には亡くなった人の名前がいっぱい書いてあった。

その中に私の名前があったのよ”」

ピンルーが悪夢におびえていた様子を聞いたようである。

そして、父テンエツが親日政権側に寝返ればピンルーの命は助けてやる、という取引条件が持ち出された時のことを、涙ながらに最後に語っている。

「彼らは日本語を話していました。

なにかとんでもない状況だとわかりました。

彼らは父に言いました。

私のお姉さんの命と交換条件だと。

父はその時、とても悩んでつらそうでした。

その様子は表現のしようがありません。

それはもう、母もまったく同様です。

その時が過ぎ去りました。

みな沈みきっていました。

お姉さんと同じ学校の仲間達、いわゆる愛国者達は、

まるで知らぬ振りでした。

私たちの家に来る人など一人もいませんでした。

2月の、冷たい雨の降る日でした。

ある夫婦が二人でやってきました。

彼らは姉と同じ建物に監禁されていて釈放されたのです。

名前を言っていましたが、私は忘れてしまいました。

その時受けたショックが原因です。

彼らは私の父に言いました。

私のお姉さんは、

処刑されたと・・・

私たちの家族には、いつのまにか矛盾が生じました。

お姉さんが、

私よりも、

年下になってしまったのです・・・・・

父はだいぶ歳をとっていました。

私の小さな時からすでに歳をとっていました。

だけど父は申し出を受け入れようとしませんでした。

お姉さんが亡くなった後、一人の弁護士が家に来ました。

彼は別の交換条件を言いました(注:遺体の引き取りと、日本側政権への転向の取引交渉だと思われる)。

2度、言いました。

父はまた悩んでいました。

そして、それも断りました」

終わり

追記  

3_2 ピンルーには姉、妹、二人の弟がいました。もともと病弱だった姉真如(1912生)は娘の王蓓蓓(ワンベイベイ。上の写真でピンルーに抱かれている子供。台湾在住)を生んだ後の1934年、体調が回復せず福民病院で22才で亡くなりました。

上の弟海澄(1916年10月28日生)は1936年~1937年に名古屋飛行学校で操縦を学び、帰国後中国空軍に入りました。1944年1月19日、重慶での訓練飛行中に墜落死してしまいました。27才でした。彼の子供がしばしばインタビューを受けている鄭国基(1939年9月生まれ)さんです。

下の弟南陽(1919年1月3日生)は1936年~1937年に日本の成城学校で語学を学び医学研修に備えました。帰国後、上海東南医学院(現安微医学院)を卒業、1945年満鉄経営の奉天南満医大で研修、戦後万宜坊の自宅で小児科医を開き、評判のいい医者となりました。中華人民共和国成立後は崋山病院(復旦大学付属病院)に勤務、1980年代初頭にアメリカへ移住、2003年、84才で没しました。 Photo_3Photo_2

妹の天如(1923年生。のち改名し静芝)さんは、ピンルーが亡くなった後も続く誘拐の危険からのがれるために中国空軍基地のある成都へ避難。そこで操縦士の舒鶴年(じょかくねん)氏と知り合い結婚。(舒鶴年氏は1918年生。国民党空軍所属。1956年7月21日の馬祖上空での中共空軍機とのジェット戦闘機同士の空中戦で功績あり勲章を得ている)。天如さんは終戦後も日本人である母親への差別が続くのと、共産党が中国を支配し、国民党の庇護が受けられなくなるため、母親はなを連れて1948年12月台湾に渡りました。台湾国府監察院で父の友人の秘書となり、その後渡米、現在もロスアンジェルスに在住しています。

母親はな(1986年生)は、天如さんに終身守られ、台湾で1966年1月5日、80才で亡くなりました。亡くなったときに蒋介石より「教忠有方」(教えが忠実で正しい)という書の入った額をもらいました。この額は2009年に上海郊外の墓園、福寿園(ピンルーの碑がある)に寄付されました。

父鄭鉞(テンユエ ていえつ)は、真如に続き最愛の娘ピンルーを失い、失意の中、癌が悪化1943年4月8日に亡くなりました。テンエツとはなのお墓は天如さんがロスアンジェルスで守っています。

追記2 鄭蘋如の読み方ですが、様々な動画で発音を聞くと、中国人の発音では、「チュンピンルー」「チェンピンルー」「チョンピンルー」、台湾人の発音だと「ツェンピンルー」「テンピンルー」などと聞こえます。ピンインでは、Zheng Ping Ruのようになりますが、当の中国人が、日本人にとってはいろいろに聞こえる読み方をしているのが現実です。このブログでは日本で鄭蘋如が知られるきっかけとなった小説「夢顔さんによろしく」の読み方を実質的なスタンダードとして「テンピンルー」としました。それは「北京」をピンインではBei Jingのように書き、中国人は「ベイジン」に近い発音をするのに、日本ではスタンダードな表記として使われている「ペキン」で、表記するのと同じことです。また、日本語読みで統一すべきとして、「ていひんじょ」、あるいは「ていひんにょ」としているものをたまに見ますが、「北京」を「ほっきょう」とは読まないのと一緒です。

あとがき  ピンルーの故事を、李香蘭の記事にからめ記事にしようと思ったのは、李香蘭とピンルーにある種の共通点を見いだしたからです。李香蘭は日本人の両親を持ちますが、生まれも育ちも中国であり、中国の学校に通い、中国に愛情を持っていました。しかし抗日運動のさなか、それまで理解し合っていたと信じていたクラスメイトとの間に深い溝を発見して愕然とするのです。彼女のはじめてのアイデンティティクライシスでした。彼女はその後も必死に中国人を演じましたが、出演映画の脚本が中国を侮るものであったりその矛盾に苦しむことになりました。

ピンルーは中国人の父と、日本人の母を持ち日本で生まれましたが、中国で育ちました。平和な時代には日系であることは意識の表面には上がってこなかったものと思われますが、日中戦争が始まり、親しくしていた中国人の間に抗日の機運が高まると日系人としての偏見に苦しんだと想像できます。上海で影佐機関員として動いていた国会議員犬養健の著書「揚子江は今も流れている」にも、「ピンルーが学校を欠席しがちになるすべての要因が整って行った」という記述があります。彼女は少なくともまわりからある種の注目の目で見られたのではないでしょうか。どういう行動に出るのか、どう考えているのかと。ピンルーにとって日本軍の中国侵略はとんだ迷惑、自分の日本人の血とは切り離しておくべきもの、一刻も早く引き上げてほしいもの、と捕らえていたはずです。

私はピンルーが抗日組織に入り、命を落とすリスクをおかしてまで働いたことに、「まわりから完全なる中国人として認められたい」、という同化の思いが強く働いたのではないかと推測しています。また、日本人である母親木村はなの思いはピンルーと同じかそれ以上のものがあったでしょう。ピンルーの抗日組織加入は母親の意思も反映したはずです。祖国にアイデンティティの一端を持ち、単身で現地に溶け込んで生きていこうとする海外居住者は、祖国の行為に敏感になります。それは自分が有無を言わせず祖国を代表してしまうからです。これは私自身が海外の学校で、外国人の中でただ一人の日本人として学んでいた時の経験から、そう確信しています。私が母親はなの思いを代弁すると、「お願いだから日本軍よ、早く日本に帰って下さい」となります。これが集団移住者の場合は逆です。満州をはじめとした中国各地での日本人移住地区では、強力な日本軍に駐留してもらい守ってほしかったはずです。これが泥沼化した日中戦争のひとつの要因だと思います。

ピンルーに関する中国人のサイトを見ると、すべて彼女を抗日の英雄として書いてあります。上海市青浦区の公共墓地福寿園には抗日烈士としてデザインされたピンルーの彫像が近々できるようです。そして中国の愛国教育の題材になるようです。彼女は死して完全なる中国人として認められた、ということでしょうか。しかし私はピンルーは一般的な中国人の「抗日」とはどこか違う、もっと複雑なものを抱いていた気がしてなりません。

李香蘭やピンルーにとってとてつもなく厚く重いものであった国境そして国籍。第二次大戦当時のヨーロッパもそうでした。今ヨーロッパでは国境の意味はとても薄くなっています。東アジアでそれができないはずはないと思います。

李香蘭は今でも多くの人々に夢や希望を与え、多くの人に愛されています。テンピンルーは残念ながら人々から愛される機会は与えられませんでした。しかし彼女が、日中双方を愛し、日中間の平和を誰よりも望んでいたと私は信じています。

8_2 左から、10才ごろのピンルー、母木村はな、長女真如、三女天如(のち静知)、次男南陽、父鉞(えつ、ユエ)、長男海澄。

参考文献  

下記の文献にピンルーに関する記述がありました。しかし内容は細部がバラバラです。中国語で書かれた文章ではピンルーは抗日の英雄として書かれ、日本人の書いたものでは「とんだ食わせ物」というタッチで書かれているものが多いです。今回の記事はこれらの文章から最大公約数的な情報を抽出し、また個別に書かれている情報の中でも信憑性の高そうなものを入れ、それらを私の類推によって繋ぎ合わせて書きました。一次資料はピンルーに会ったことがあるか、あるいは会った人から直接情報を得ていた人が書いたものとしました。二次資料は参考文献を調べて書いたと思われるものとしました。

○一次資料

・「上海人文記」松崎啓次(1941年出版で、著者は民間映画人。ピンルーについて最も古い文献です。戴志華という仮名で登場します。映画の原作をも目的としていたようで、ストーリーに脚色はあると思いますが、ピンルーに実際会っているし会話もしており、彼女の内面を「偏見と予断なく」描いています。国会図書館で閲覧できます)

・「近衛文隆追悼集」近衛正子(1959年出版。文隆の妻正子が編纂。文隆の多くの友人知人からの追悼の文集です。彼が内外の多くの人から好かれていたことがわかります。小野寺機関の早水重親の追悼文もあります。国会図書館で閲覧できます)

・「歴史の証言」-満州に生きて 花野吉平(当時の上海で日本軍に属しながらも反軍、和平派です。ピンルーから機密情報をもらっていた記述があります。鄭家とは父親テンエツ、ピンルー、弟南陽と交流があった記述があり、家族ぐるみのつきあいがあったようです。国会図書館で閲覧できます)

・「林秀澄氏談話速記録Ⅲ」 木戸日記研究会/東京大学教養学部(上海憲兵隊特高課長 林秀澄氏へのインタビュー記録です。ピンルーによる暗殺未遂事件から処刑されるまでの大部分はこちらを参考にしました。事件直後の丁黙存から事情聴取していること、ピンルーの処置に対しての指示を出していること、処刑に立ち会っていることから、少なくとも暗殺未遂事件の大きな流れについてはおおむね信憑性があると判断しています。但し、自叙伝でもあり、憲兵隊特高課長としての立場で話されていますので、全体的には自慢話、ピンルーは悪者になります。誤りも堂々と述べると信憑性が増すという例です。国会図書館で閲覧できます)

・「上海テロ工作76号」晴気慶胤(初版は「謀略の上海」というタイトルです。著者は影佐禎昭の腹心の部下で、ジェスフィールド76号設立の実務担当者。林秀澄とは幼年学校時代からの親友。国会図書館で閲覧できます。その後の数多くの小説の参考書となりました。しかし、彼は丁黙存狙撃事件当時は日本にいたのでその部分の記述は第三者からの情報です。また、林秀澄氏と同様、日本軍人としての立場に立ってピンルーを描写していますので、あくまでピンルーが悪者になります。処刑の場面の描写はある中国人歴史家は、林秀澄の口述と比較し、「晴氣の描写はどんな阿呆でもわかる嘘」、と書いています。)

・「 揚子江は今も流れている」犬養健(著者は影佐機関構成員であり当時の国会議員。古書です。丁黙存狙撃事件の部分はは晴気の著作と似た内容になっています。ピンルーの描写はまるで援助交際を求める少女のような書き方になっています。林秀澄がこの本を「林秀澄談話速記録Ⅲ」で次のように評しています。「例の「揚子江は流れる」か、「揚子江は今も流れている」とかいうのを犬養健氏が書いたのがございます。あれを嘘八百だとお読みいただければなんでもないんですが、あれを本気にしてお読みになりますと事実は嘘なんでございますから(後略)。)

・「二つの国にかける橋」吉田東祐(著者は影佐機関と小野寺機関構成員両方に属した民間人で、CC団とも交流があった情報員でした)

・「鄭蘋如妹妹的述説」楊瑩(書籍ではありませんが、ピンルーの妹、鄭天如(鄭静知)さんの回想インタビューをまとめたもので、ネット上にあります。ピンルーに最も近い一次史料です。日付等に若干の記憶違いはあるようです。これ以外に多くの中国語サイトがありますが、ピンルーの誕生年を1918年としたサイトはその時点で調査不足でコピー&ペーストに過ぎず信用できません)

○二次資料

・「一个女間諜」(一人の女スパイ)許洪新(2009年出版の中国語図書です。これまでの研究成果を集大成した史料になります。私はこれを機に中日辞典を買いました。著者はこれまで出た全ての中国語史料と、妹天如さんや甥鄭国基さんへのインタビューを中心にまとめ、日本語の晴氣、犬養、林、西木の著書を参考図書として掲載しています。)

・「夢顔さんによろしく」西木正明 (ピンルーと近衛文隆との関係がノンフィクション小説として書かれています。部数としては最も出ています) 

・「阿片王」佐野眞一(上海を舞台に日本が軍資金確保のため大量の阿片を売り膨大な利益を上げていたことが書かれています。ピンルーの処刑場面を「林秀澄氏談話速記録」を引用、要約して記載しています)

・「近衛家の太平洋戦争」近衛忠大(近衛文隆の親族の方が上海での文隆について書いています)

・「オールドシャンハイ」パン・リン(中国人の書いた翻訳本です。杜げっしょうというオールド上海の裏社会を牛耳った男がテーマです。ピンルーに関しては晴氣の作品を参考にした中国側文献のいくつかを、史料としているようです。古書)

・「漢奸裁判史」益井康一(戦後の中国における漢奸裁判に関する新聞記事を多数保存していた元毎日新聞記者である著者が、丁黙邨の項目を設けピンルーの事件について記述しています。裁判での丁黙邨の逃げ口上をかいま見ることができます。補記で晴氣に話を聞いたとして、晴氣の著作を引用しています。国会図書館で閲覧できます。)

・「憲兵日記」山田定(著者は上海憲兵隊滬西分隊の隊員。ピンルーの記述はありませんが、上海の憲兵がどんな仕事をしているかかいま見ることができます。賭博を日本側の資金源にしていた記述もあります。古書)

・「ある情報将校の記録」塚本誠 (影佐機関構成員。ピンルーの直接の記述はありませんが、林秀澄氏の部下として周辺情報を記述しています)

・「バルト海のほとりで」小野寺百合子(小野寺機関の小野寺信の妻。ピンルーの記述はありませんがピンルーと一緒に活動した小野寺の人柄がわかる本です)

・「成瀬巳喜男」スザンネ・シェアマン(ピンルーの記述はありませんが、ピンルーが関与した丁黙邨暗殺未遂事件を題材にした1941年の日本映画「上海の月」についての記述があります。古書)

・「回想の上海」岩井英一(ピンルーの記述はありませんが、「近衛文隆の上海から追放に手をかす」という章で文隆の帰国の経緯がかいま見れます。本の趣旨は自慢話です)

○ネット上の二次資料として下記があります。

・論文「引き裂かれた身体 張愛玲「色 戒」論」/東京大学非常勤講師 邵迎建

・論文「張愛玲における時代と文学」/共栄女子短大教授 池上貞子

・論文「陳立夫氏へのインタビュー 三民主義青年団、CC団の呼称、及び日本人への提言」/大阪教育大学 菊池一隆  ピンルーの属した三民主義青年団とCC団のことが、CC団の頭目陳立夫氏へのインタビューとして書かれています。

○また、以下の中国語サイトを参考にしました。検索にかければこれ以外に数多く出てくるはずです。中国語はexcite翻訳にかければおおよその意味がつかめます。

・「76号ー汪偽特工口述秘史」(北京師範大学歴史学教授 故、蔡徳金氏が上海刑務所に服役していた汪精衛側スパイ、馬嘯天、汪曼雲から聞き取った内容を編集した物がネットに掲載されている。http://vip.book.sina.com.cn/book/chapter_54932_38917.html)

・記者鄭振鐸が「週間新聞」に寄稿した鄭蘋茹についての1945年10月6日号の記事(彼ははピンルーの住んでいた万宜坊に住んでいたことがあり、自宅前をよくピンルーが自転車で通っていたそうです)

・鄭振鐸によって書かれた「蟄居散記」の「一人の女スパイ」に対する評論家、葵登山による書評

・葵登山による著作「張愛玲 「色戒」」の紹介記事

・中国側がジェスフィールド76号について書いた「魔窟76号」の要約記事

・ CCTV(中央電視台)が鄭蘋茹についてルポルタージュの形でテレビ放送し、ネットに一部掲載しています

・その他、映画「ラスト コーション」を機に書かれた中国語新聞記事多数。

○ピンルーについて書かれている小説

・「ゾルゲ事件」永松浅造(当時の毎日新聞記者。ピンルーが国際共産組織のスパイだったとの独特の説があります。国会図書館で閲覧できます)

・「七十六号の男」 陳舜臣 (「紅蓮亭の狂女」という本の中の一章として入っています。中国語がわかるだけあって、鄭振鐸などの中国語史料や、犬養などの日本語史料を中心に両国語史料を調べて1964年11月に書かれています。丁黙邨暗殺未遂事件は李士群の陰謀があったという説を採り、ノンフィクション小説風になっています)

・「戦争と人間」 第12巻 五味川純平(晴氣の著作を参考にしたと思われる記述が6行だけでてきます。古書)

・「ジャスミン」辻原登(文中で著者が言っているように、晴氣の著作「上海テロ工作76号」と、益井康一の「漢奸裁判史」が参考図書として紹介されています。途中が非常に冗長ですがラストだけは、そう来たか、という展開です)

・「上海リリー」胡桃沢耕史(小説の中でピンルーの事件が出てきます。晴氣の「上海テロ工作76号」を参考にしているようです)

・「上海バビロン」平野純(犬養健の「揚子江は今も流れている」と晴氣の「上海テロ工作76号」を参考にしたと思われ、大胆に想像して書いています。古書)

・「シャンハイ伝説」 伴野朗 (巻末に参考図書を載せていますが、明らかに晴気と犬養の著作を参考にして一部全くそのまま文章を使いながら、参考図書の中に「上海テロ工作76号」と「揚子江は今も流れている」を載せていません。意図的に外したものと思われます)

○また、2008年7月21日放送の、日本テレビ制作「女たちの中国 第二弾」と、2008年8月16日放送の、読売テレビ制作ドキュメント「日中戦争秘話 鄭蘋如の真実」から、出典のあきらかな部分を参考に、一部記事を加筆修正しました。

2009年9月に、女流作家楊瑩(ヤンユィン)が行った、ピンルーの妹天如さんへのインタビュー記事が中国語サイトににあります。最も身近にいた妹の発言を尊重し、2010年3月に後編記事を大幅に加筆修正しました。

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コメント

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投稿: | 2014年9月 6日 (土) 10時53分

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