ピンルーの親友、花野吉平(2)
花野吉平の人となりを判断するには、すこし彼の独白を聞いてみるしかないだろう。彼の著書「歴史の証言ー満州に生きて」を前回に引き続きひもとき、数回に分けて見てみたい。
花野が陸軍の文官として仕事を始めてまず驚いたこととして、職業軍人の腐敗と堕落を上げている。「地位を獲得した将官の相克と、名誉欲のための暗躍と陰謀、その政治力学、どこから戦争指導力が出るのか不思議になった」と述べている。「天皇を擁する宮廷、政治家、それに便乗する各界分子の指導力の無さ、天皇の統帥権に疑問を持った」ようである。
この辺は、彼の著書の至るところににじみ出てくる。花野はその理由をこう書いている。
「なぜ、以上のようなことを強く述べなければならないかというと、日本の動向や情報は抗戦中国人からも質問され、教えられることが多いのである。
日本軍閥の派閥葛藤の研究、二二六事件、政治の舞台に踏み出した武力集団、天皇および天皇制と宮廷政治、近衛の信頼度、日本の官僚政治、社会構造、軍服の元帥たる天皇ヒロヒトの写真まで持ってきて、戦争を命令した天皇の中国観やその力量なども質問してくる。日本人の私が思索できなかった角度からの問題までも知る。
日本が真に停戦を希望するなら、戦争の張本人たる天皇が、なぜ自ら書簡を作成しないのか、それは戦争責任者として当然のことではないか、それができないというのは、日本の政治社会では天皇はロボットなのか、我々中国人には理解できないという。
私は知る限りのことを腹を割って答えたが、答えられない問題も多かった。中国の仲間も日本のこと、中国国内における現状の情報を提供してくれた。これを信じるかどうかの判定は難しい心理的みさおの問題である。一歩誤れば、日本の反動派は私を敵に利するスパイの刻印を押すだろう」
ピンルーも花野に質問したのだろうか。
花野は、特務部総務部分室第一班(思想班)の同僚、早水親重(はやみちかしげ)の小野寺機関への異動の経緯をごく短く書いている。
「ある日、近衛首相の秘書細川護貞が、近衛文隆、海軍の小野寺中佐らと蒋介石との直接交渉の話を香港に持ち込んでくる。早水はそれと行動を共にする。以後、早水は思想第一班を離れ、別行動となった」
そして、自分が逮捕監禁された時のことを続けている。
「ある日、憲兵将校が三木班長と私を訪ねてきて、汪兆銘対策の意見を聞きたいという。影佐の目標とその人間性を信頼しない私としては、それが謀略に終わる危険性を説明し、第一回軍務会議で報告して以来、この班が作業準備してきた事実を語った。汪兆銘を新設南京政府主席にすることは、中国の漢奸に仕立て上げるもので、日中戦争停止を念願とする我々の意志とは反する。影佐機関には参加できないことを伝えた」
「その翌日、所属変更の通知が来た。駐支派遣軍司令部、片山中佐の指揮下となる。それから一ヶ月ほどたった夕方、共同租界のアジトにいた私は上海憲兵隊に逮捕される」
「片山中佐は、私が逮捕される前に帰国する飛行機の手配もしてくれたが、自分だけ脱出することはできなかった。後で参謀本部支那課長の今井武夫に会ったときに、片山に命じた通り、日本に脱出していたら逮捕されなかったのだと言われる。三木班長も一緒に逮捕された。憲兵隊の塚本誠少佐は影佐の子分であり、西義顕(にしよしあき)、伊藤吉男、矢野征記、犬養健は影佐機関に関係し、志を魂を売ることになる」
「塚本誠からは、軍の秘密を敵に売った売国奴であり、スパイであり、民間人に流言した非国民として銃殺に処す!とドヤされる」
さて、犬養健はピンルーを男から男を渡り歩く女として描いた「揚子江は今も流れている」という本を書いた、中国通を自認していた議員である。そんな彼も花野にかかると「影佐に志と魂を売った男」となるようである。
また、影佐に抜擢されていた塚本誠は「ある情報将校の記録」(1998年 中公文庫)という、理知的な文章を書く人として認識していたのだが、花野のことを逮捕令状無しに逮捕して、銃殺だ!と怒鳴り散らしていたようである。人間、自叙伝には綺麗な話しか書かないものだと再認識する。もちろん、今私が参考にしている史料も花野吉平の自叙伝であるので、割り引いて読まないといけないのだが、花野の文章にはほとんど自慢話が出て来ない。がんばったけど失敗した、捕まった、そういう話と、当時の天皇を頂点とする日本全体に対する批判、自分の反省の話ばかりである。この辺が、自慢話と責任逃れの言葉を羅列させるだけの軍人とは違うところだ。
また、中国側サイトでは、ピンルーが片山中佐の秘書をしていたという記述や、日本側協力者としての今井武夫の名前を散見することができる。この片山中佐という人物はなかなか日本側史料には出て来なかったのだが、ここで初めて見ることとなった。花野の逮捕時の上司だった。そして今井武夫が片山を通じて花野の逮捕を防ぐために日本への帰国便の便宜を図ろうとしていた、ということらしい。「花野が無事に日本に脱出してほしい」、というピンルーの思いがあったのでは?というのはうがちすぎだろうか。
彼は逮捕後の話を続ける。
「軍法会議もなく抗戦ゲリラの熊剣東その他6名ほど、獄舎内で知り合った中国人が銃殺された。日本人だからといって安心するなと言われた。多くの先輩知人の助命嘆願もあったが、約一年間獄舎に監禁される。一度の取り調べもないのである。1940年3月の汪兆銘南京国民政府の創立翌日、釈放され上海から追放される」
「獄中生活の間に同僚の日本人が自殺し、蘭衣社工作員が漢奸政権と日本憲兵隊に3名銃殺される。鄭蘋如もその一人である。犬養健は「文芸春秋」に中国のマタハリとして憲兵隊情報資料で彼女のことを書いているが、私は別原稿で記述したいと思う」
「私の獄中に発生した戦慄すべき事件を聞き、敵は抗戦中国にあらずして限りない悪徳を積み重ねる日本の指導階級、権力を握る日奸どもにあり、それとの闘争の決意を固める。軍の組織と権力を私物化し、自己の論功と私欲のために地獄の谷間に平気で国策の名において我々をおとしめたのである」
花野はピンルーが、漢奸政権(注:汪精衛配下のジェスフィールド76号を指すだろう)と日本憲兵隊に銃殺されたと書いている。これは微妙な言い回しである。定説ではジェスフィールド76号に銃殺されたことになっている。どっちなのか。両方なのか。私の見立てでは、銃殺を実行したのはジェスフィールド76号だが、裏で指示したのは日本憲兵隊、ということを花野は言いたかったのだと思う。
この記事の最後に、影佐が打ち立てた汪兆銘政権に対する、花野の意見を見てみたい。
「期待したほど民心がついてこず、抗戦中国には影響力が無いことを知ると、日本軍閥得意の、(とても飲めないような)条件を次々に出して、負け犬扱いにしてしまう。この無責任な態度には人間的な恥ずかしさを受ける」
「汪兆銘は、名古屋大学病院の一室で日本の背信を憤りつつ、「没有信」(信が無い)の一言を残して寂しく死んでいったが、この汚名を払うすべもない。日本の悪行は中国ばかりでなく、アジアの各民族に、これに似たような事件を暴露し、日本民族の面目を失墜していることを銘記しなければならない。
今日では、戦争反対とか平和という言葉が人間としての建前のように語られているが、あの頃は政府や国家が民族を狂わす注射薬や投薬を与えたために、悪疫患者というより殺人鬼と化し、平和を考え、戦争停止を語る者は国賊として生命の危険にさらされることを覚悟しなければ行動はできなかった。それは相手も同様である」
さて、戦後、蔡徳金が、元ジェスフィールド76号メンバーから口述を引き出し「汪偽特工総部口述史」という著書を書いたが、その中で、テンピンルーがCC団の命令によって、花野吉平や早水親重ら反戦和平派を動かして、汪精衛政権樹立の妨害をした、といううような事が書いてある。しかし、花野の上記のような意志堅固な言動、行動をみるにつけ、やはり花野の内発的行動とみるべきで、それにテンピンルーが情報提供などで協力をした、ということだろう。
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