ピンルーの親友、花野吉平(3)
中支派遣軍特務部内の総務部分室は、菅野中佐のもと、4班あった。第一班が花野吉平や早水親重(はやみちかしげ)の属する思想班、第二班は宗教・結社対策、第三班は中国人から接収した財産管理、第四班は学校と維新学院の運営にあたっていた。
余談であるが、中支派遣軍特務部の初代部長は金子俊治少佐である。日本側の手によって中国語ラジオ放送局「大上海放送局」が1937年12月、新設されることになり女性アナウンサーを募集した。テンピンルーの母親木村はなが金子少佐のもとを訪れ、ピンルーの採用を金子に依頼している。金子の推薦もあり、特務部放送班の責任者、浅野一男少佐がピンルーを中国語アナウンサーとして採用している。
話を元に戻す。花野吉平のいた特務部総務部分室第一班は、上海フランス租界と共同租界にアジトを一カ所ずつ置き、蒋介石の国民政府軍、中国共産党の新四軍(しんしぐん)の印刷物を収集し、翻訳、諜報兼通訳などの活動をしていた。早水親重は渉外を担当し、日本の海軍、領事、民間会社、報道機関、金融機関との連絡をしていた。花野は、租界内アジトを拠点に現地中国人に対する情報収集・宣撫活動を行った。
花野は四川路橋の横にある新雅飯店というホテルに長期宿泊し毎日アジト通いした。租界内のアジトで抗日中国人と語り、租界で働く日本人を尋ねて夕方、バンド公園を通り、ガーデンブリッジを渡って日本租界のアスターハウスに行くのが日課だった。
アスターハウスは日本では帝国ホテルのような英国系の由緒あるホテルであったが、上海事変後日本軍が接収してからは、軍靴の泥が絨毯にこびりつき、日本刀を下げた日本人将校が闊歩するようになった。思想班は三木班長と花野、そして早水の三人で夕方ここで落ち合い、連絡や打ち合わせを行った。
日本人地区、虹口(ホンキュウ)にある「月の家」や「東語」などの日本料亭は、日本人高級将校、御用商人の巣となり、芸妓は○○少将夫人、××大佐夫人と呼ばれて乱痴気騒ぎとなり、酒乱の将校が芸妓の顔を軍刀で切ることもあるような隠微な世界と変わる。
花野の上司、菅野中佐も例に漏れず、陸軍大学を出たので将校となり、家には妾を置き、御用商人を軍属にして下働きさせ、阿片を密売した金を機密費とし、中国人接収財産を運用、工作費と称して私財を蓄えていた。
花野は満州国の国家公務員をしていた頃には全く知らなかった世界が、軍に所属することで間近で見ることができたのである。
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