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2008年11月23日 (日)

漢奸裁判史 梁鴻志

漢奸裁判史の3人目は梁鴻志(りょうこうし)とする。彼は南京の親日政権、維新政府の主席を経て、汪精衛の国民政府の立法院長を務めた長老である。

以下、益井康一の「漢奸裁判史」より、抜粋要約、引用する。

3

梁鴻志は幼いときから秀才の誉れ高く、大柄な身体で、酒を飲むほどに天下国家を論じる風格は、「梁大人」(りょうたいじん)と呼ばれ親しまれていた。父が長崎領事代理をしていた関係で日本に留学(注:原文では留学となっているが、実際は6才から2年間長崎で過ごした)して以来日本との縁が深くなった。


1945年10月、彼は蒋介石の秘密警察「軍統」に自首した。翌年の5月、江蘇高等法院検察所で初審を迎えた。被告席に現れた梁鴻志は藍色の長衫(チョウサン)に高い気品を示し、黒い布靴を履いていた。起訴の要点に付き次のように弁明した。


問  維新政府の軍隊をなぜ作ったのか

答  綏靖軍(すいせいぐん。のちに汪精衛国民政府軍に編入)成立当初の兵力は一万名余りでこれは地方の治安維持のためだ。のちに兵力を拡充したが、目的はあくまで匪賊の掃討だった。

問  主要交通を日本軍にゆだねたが

答  交通幹線はことごとく破壊されており、日本軍はこれを修復して軍用にした。このため占領地の市民は交通難におちいり商業は衰え、生活不能になったので、鉄路協定を結び、民間人の利益になるようにした。


問  食料統制は

答  日本軍の軍需により各地に配分することができなくなったので、日本軍と協同して調整した。


問  華興銀行はなぜ設立したか

(注:岡崎嘉平太が日銀より派遣されて設立した日本軍の国策銀行。正式には華興商業銀行という。岡崎嘉平太は花野吉平と同じく上海陸軍特務にもともと属しており、鄭蘋如(テンピンルー)の家族とも親密な交流があった。ピンルーの甥、鄭国基氏は、ピンルーの処刑後、彼女の母木村はなが上海錦江飯店北楼に住んでいた岡崎を何度か尋ねたとことを鮮明に覚えている、と語っている)


答  中国人商人に便宜を図り、日本軍の金融操作を免れるため設立した。華興銀行券は2000万元の予定で600万元を印刷したが、発行は307万元である。儲備(ちょび)銀行創設後は全部回収した。

(中略)

問  戒煙局設立はなぜか


答 日本軍は中国人にアヘンを吸わせる毒化政策を取った。戒煙局はそれを抑止し、アヘン吸引者を登記させた。


問 汪政権について

答 最初から非常に疑っていたが、ついに従った。

(中略)

問 なぜ五色旗(注:五族共和を目指す満州国旗に似た国旗)を採用したのか


答 私は青天白日満地紅国旗にするつもりだったが、日本軍が反対したので、やむを得ず五色旗にした。


問 綏靖軍(すいせいぐん)はいつ成立し、どんな編成だったか

答 1939年春で、兵士の大部分は投降者からなり、応募はごく少なかった。4個師団で、1師団わずか2、3千人である。

(中略)

問 いつ被告は投降したか

答 戦勝前に自首書を提出、蒋介石主席の命令通り8月15日南京におり、交替を待って10月20日自首した。

(中略)

1946年6月21日、判決が下された。午後2時45分傍聴席がびっしり埋まった法廷へ裁判長が入廷してきた。梁大人は藍色の長衫を着て、きわめて物静かな態度である。裁判長が判決主文を読み上げた。


「梁鴻志は、日本軍に通謀し本国に反抗した罪で死刑に処す。終身公権を剥奪し、全財産は家族の生活必需品を除き、没収する。」



64才の老人は、言葉すら出なかった。が、しばらくして、

「今すぐ、家族に会わせてほしい」

と言った。

裁判長は、

「今日は面会させることが出来ない。日を改めて許そう」

と申し渡した。そして梁鴻志は両手を二人の看守に取られて倒れそうな力の無い姿で引かれていった。


傍聴席の一隅で判決を聞いていた梁の夫人と娘は、死刑と聞いてワッと泣き伏し、抱き合って泣きわめいた。さながら気でも狂ったかのようであった。そして看守に引かれて法廷を去ってゆく夫と父の後を追って外に飛び出した。


恥も外聞もなく必死になって梁鴻志に追いすがる、狂乱の二人の女性を、看守達はもてあました。いくたびか払いのけ、いくたびか振りちぎってやっとこの嘆きの主人公を囚人車に押し込んだ。1946年6月の新聞大公報には、看守に両腕を取られて連行される父と、泣きわめきながらそれを追う娘の写真が掲載されている(冒頭の写真)。


取り残された夫人と娘は、法廷外の広場に突っ立ったまま泣きわめいた。傍聴人が黒山のように母娘を押し包んだ。新聞記者が駆けつけてきた。

夫人が絶叫した。

「夫が在任していた時は、米が一石120、130元だった。それが今は5万元にも上がっている。夫は善政を施していたのだ。それを死刑にするとは・・・。私も一緒に死刑にしておくれ」



多くの見物人は放心したかのようにいつまでもこの母娘を取り囲んでじっと見つめていた。その年の11月9日午後1時半、上海の堤藍橋(ていらんきょう)監獄内の刑場に響いた一発の銃声。梁大人は草の中に声もなく倒れ伏した。病弱の身をイスに腰を下ろしたまま、わずか60センチの距離から発射された弾丸は、後頭部から口腔を貫いて、無惨に顔を砕いた

以上が、日本占領下の上海につかの間の平和をもたらした汪精衛国民党政権の、立法院長の最後である。

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