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2009年3月21日 (土)

演劇の主演をしていたテンピンルー

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2008年8月の読売テレビによる「鄭蘋如の真実」という番組で、ピンルーが学校の新劇の主役を行ったときの写真が放送されていた。「新劇」というのは、日本のそれまでの歌舞伎や能に代表される、伝統的な、古い演劇ではない、という意味でつけられた演劇のジャンル名である。


中国もやはり、それまでの音楽と舞が中心の京劇に飽き足らない演劇人が、西洋の演劇を学んだり、より近い日本に渡ってきて、新劇を学んだ。東京の築地小劇場が拠点であった。それは中国に持ち帰られ、「話劇」となった。音楽や踊りでなく、「せりふ」で観客に訴えるから「話劇」、ということであろう。ということで、ピンルーがやっていたのは、日本風に言えば「新劇」、中国では「話劇」である。

瀬戸宏著「中国演劇の二十世紀(中国話劇史概況)」によると上海では、1931年の満州事変頃から、すこしずつ学生演劇が盛んになったようである。それまでは左翼系の演劇が多かったようだが、国民党の圧迫もあって勢いを失っていく代わりに、国防演劇というのが盛んになった。

演劇の主題をそれまでの「階級闘争」から、「反帝国主義」「抗日」「反売国奴」などの置いたものである。国防演劇を演じた劇団の多くは学生劇団だった。これらは1935年ごろから本格化したようである。

001_2   (写真は「図画時報(Eastan Times Photo Supplement)」一面に掲載された、演劇の主役のときのピンルー)

ピンルーが話劇の主役をやったのが、読売の放送では16才の時、とキャプションが付けられていた。ピンルーの生まれた年は1914年なので1930年頃のことだ。ピンルーがプロレタリアの労働者運動に荷担する演劇の主役を張るとは思えないので、西洋の翻訳劇か、創作の国防演劇を行ったのだろう。(2009年7月10日追記:中国の歴史研究家、許洪新氏の著書「一人の女スパイ」によると、菊池寛の「父帰る」の翻訳劇の女主人公を演じたようである。1931年当時は、ピンルーは上海の大同大学附属中学(6年制)の話劇団のメンバーだった。)

映画「ラスト コーション」でも、学生演劇団にワンチアチが入団し、国防演劇を演じるシーンがあった(冒頭の写真)。この「ラスト コーション」は張愛玲の小説「色 戒」を原作としている。「色 戒」の中国語原文では、「在学校里演的也都是慷慨激昂的愛国歴史劇(学校で演じたのは憂い嘆き激昂する愛国歴史劇ばかりだ)」となっている。

「色 戒」のワンチアチと実際のピンルーでは、学校で演劇を行っていたこと、また、CC団や蘭衣社の本格的な地下工作員になっていたわけではなく、末端のメンバーであったなど、最初に感じたよりは状況が似ている。

Photo_3 (雑誌「良友」は当時の上海で最も部数の出ていたグラビア雑誌)

彼女は、美貌の女スパイ、などと言い表されるのが通常である。しかし、中日英の三カ国語が堪能だっただけでなく、演劇の主役をつとめたり、雑誌の表紙に出たり、ラジオ放送でのアナウンスや歌の披露など、マルチタレントな一面も持っていたといえる。

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