映画「間諜 海の薔薇」
松崎啓次著「上海人文記」の「徐小姐(シュ・シャオチェ)のロケット」 ←クリック の章では、スパイの嫌疑が最後まで晴れなかったヒロイン、徐梨娜(シュ・リナ)が日本に旅行したところで終わっている。
また、これを原作とする映画「上海の月」では、やはりスパイの嫌疑のあった許梨娜(シュ・リナ)が、日本へ連れて行ってくれと言って終わっている。
松崎啓次のプロデュース映画を調べていたら、「間諜 海の薔薇」という1945年2月22日封切りの映画をプロデュースしていたのがわかった。なかなかに興味を引くタイトルである。
「上海から姿を消した美貌の踊り子、果たして彼女は何者か?」
思った通り、女スパイの映画である。
物語は、アメリカ潜水艦、艦橋には一輪の赤い薔薇を描いた"Sea Rose"「海の薔薇号」が、日本近海に突如浮上するシーンから始まる。「海の薔薇号」は連合国側の諜報本部である。その司令塔にいる極東情報本部長Lee少佐からの司令により、上海のイギリス租界にいる美貌のダンサー、実態はスパイであるエルザが、日本にやってくる。
エルザは、中国人とフィリピン人の混血で、中国語、日本語、英語、そしてタガログ語を使いこなす。「東洋人にして東洋人を忘れた女」として、日本人の敵となる。日本国内ではアメリカのスパイはすでに憲兵隊によって一掃されていたが、唯一残ったのが、神戸の教会管理人ハイランドと、その部下でユダヤ人のグルーシュタインである。
日本に帰国している日系二世の富谷は、エルザの美貌に魅せられ、他の無警戒な日本人とともに、アメリカのスパイ活動に協力してしまう。何人もの不用意な市民からの情報によって、スパイ達は、日本人乗員を大勢乗せた護送艦隊の行動予定を伝送することに成功する。そこへ、日本憲兵隊が活躍をし、逆に「海の薔薇号」を含む米潜水艦を撃沈する結果となる。エルザは変装して逃げるがついに捕らえられた。しかし、やがて東洋人の自覚を持つに至って彼女は、温情により許される、というもの。
「上海の月」以上に、いかにも、というストーリー展開であるが、それもそのはず、サブタイトルとして、「憲兵司令部指導」という文字がつくらしい。台本の最初のページに、製作意図として、「決戦下国家防諜の盤石(ばんじゃく)を期すゆえんを強調し、国民の防諜精神を喚起せんとするものである」と書いてある。
「上海の月」から5年経つと、検閲だけではなく、脚本を書く段階から憲兵隊が「指導」に入るようになったわけだ。また、防諜の相手が蒋介石中国から、アメリカに変わり、女スパイが日中混血ではなく、中国とフィリピンの混血になっている点が、日本の主要な戦いが中国大陸から太平洋戦線そして日本国内に変わりつつあることを示している。
上海の美しい女スパイが日本にやってくる。確かに、「上海の月」の続編という気もしなくはない。ただ、松崎も劉吶鴎も、徐小姐がスパイだとは断定していなかった。いや、スパイではないと思いたがっていた、というのが正解だろう。
しかし、憲兵隊は疑わしきはスパイと断定して、物語を作っている。国策防諜映画たるゆえんである。
さて、この映画、実はアメリカ人が7、8名出演している。アメリカの潜水艦が司令部なのだから当たり前とも言えるし、いや戦争中の日本映画にアメリカ人が出演するわけがないとも言える。しかし、アメリカ人が出演しているのである。
種明かしをすると、捕虜である。東京都大森の現在は平和島競艇のメインスタンドがあるところに、戦争中は大規模な捕虜収容所があった。アメリカ人だけでなく、イギリス人、カナダ人、オーストラリア人がいた。みな、港の荷役や延焼防止のための家屋取り壊しなどの肉体労働をしていて、食料が少なかったからやせ細ってはいたが、大男が多かった。
捕虜は数百名いたようだが、衣笠監督らによって人選がなされ、十数名が出演者に選ばれた。ちなみに、当初出演希望だった将校の数名がどたんばで出演を拒否したらしい。敵国の国策映画に出演することの危険性を考えたのだろう。中国風の言葉を使えば、漢奸のがれ、ということだ。
以下、「私の昭和映画史」を書いた広沢栄一氏の言葉を借りる。
引用開始
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「出演の俘虜達は、迎えのバスに乗り走り出すと、遠足の子供のようにはしゃいで歓声を上げた。つかのまの開放感にうきうきとなり、ひゅーひゅーと口笛を鳴らすものもいた。「鬼畜米英」というスローガンとは違って、どの顔も人なつこく、陽気な顔にあふれていた」
「世田谷区喜多見の東宝撮影所に到着したのはもう昼近い時刻だったと思う。俘虜達にはまず食事を供したと聞いている。丼に大盛りの銀しゃり飯にフライなどがついた当時としては上等のランチであったという。その食事が俘虜達へのギャラだったという。たしかにその当時のエキストラ料は1円30銭から1円80銭くらいが相場だったが、俘虜の身の彼らがそんな金をもらっても仕方がない。そこで警備の兵や俘虜達と話し合ってこういう食事をすることになった。外人だからパンを用意しようかと言ったら、いやライスの方がいいという希望だったという」
「そのランチタイムが終わると、俘虜達は衣裳部へ案内される。そこで衣裳部が用意した新品のアメリカ海軍の軍服を着る。そして床屋できれいに散髪し、髪をとかしてポマードを塗る。立派な髭の持ち主はそのまま生かして手入れする。私も立ち会っていたが、みんなみるみるうちに別人のようになり、ハリウッドスターみたいになってきた」
「セットはその日から数日続いたが、俘虜達はまるで水を得た魚のようにいきいきしていた。「テスト」「アクション」「カット」「オーケー」などの映画用語は、もともとハリウッドから伝来した英語なのだから彼らはすぐ理解することができたし、また思わぬところで母国語を聞いたので、みんなうれしそうに顔をほころばせていた。もとより潜水艦乗りの経験者など一人もいなかったが、かなり心得顔で伝声管に向かって「ダイブ、ハリーアップ、ワンハンドレッドフィート」などと、渋い声で言う」
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引用終わり
なかなかに意外なエピソードではある。
この映画「間諜 海の薔薇」は、現在存在しない。敗戦直後、東宝が戦犯として追求されるのを怖れて、ネガフィルムごと焼却処分してしまったからである。銀シャリ飯をたらふく食った捕虜達も、出演の証拠がなくなったことで、漢奸のそしりを受けることなく楽しい思い出とすることができたわけだ。
いずれにせよ、この映画を映画館で実際に見た方々の声はいつしか届かなくなる。そしていくつかの絶版本にひっそりと情報が眠るだけ・・・、というのは、とても残念なことである。
参考
「私の昭和映画史」広沢栄一
「日本映画の時代」広沢栄一
「大東亜戦争と日本映画」桜本富雄
「帝国の銀幕」ピーター B ハーイ
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コメント
duchamp様
劉吶鴎の語りを使って松崎が推測したもの(「上海人文記 4」→https://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/4_6032.html
の一番最後の方で引用)に、ピンルーは、地下工作の仲間から彼女が蒋介石側に立つ人間だという証拠のために維新政府側要人の暗殺の手引きを強いられた・・・、彼女をおとりにして丁黙邨をおびき出そうとする・・・、などとあります。私はこれが動機としては最も予断と偏見ないものかと思います。丁度日本人とつき合っているのでは?と問い詰められていた後で、また文隆と噂になっていた後の頃ですから、余計に蒋介石側に立つと証明せねばならなかったかと。
そして、その維新政府側要人としてのターゲットが丁黙邨になったのだと思います。民光中学では師弟関係になく、知り合いではなかった二人ですから、知り合う方法として紹介されねばなりません。それは「日中戦のはざまで 鄭蘋如の悲劇 後編」の冒頭付近に書きましたが、https://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_8b67.html
蔡徳金の著書「汪偽特工総部口述秘史」にある、「ピンルーの監視担当憲兵、藤野の紹介だという説」、が信憑性が高いかと思います。
偶然を装ってという晴氣の説ですが、丁黙邨は変装していたとはいえ、ガーデンブリッジにほど近い人目につきやすいバンドのど真ん中で、無防備に洋車に乗る丁黙邨に出会えるということはあり得ないでしょうし、民光中学では知り合いではなかったのですから「丁さん、しばらく」などという会話は成り立たないことになります。成仏とピンルーが手書きした名刺の話も含め、晴氣の文章はその後のピンルーが登場する日本の小説等に多大な誤解を与えていると思います。
私もまだ確信できるわけではなく、周辺史料を引き続き当たっています。この辺はピンルーの事件にとって大切なところなので、慎重が求められますね。
投稿: bikoran | 2010年1月26日 (火) 10時26分
「冬眠」ですか。なるほど。
しかし、ショックを受けていたとしても、松崎の記述に間違いがなければ、6月以前には、丁黙邨とともに錦江飯店で松崎らのまえに姿を現していた。つまり、丁との疑似恋愛が始まっていたということですね。
もう一点、お考えをお聞かせください。丁黙邨と鄭蘋茹の出会いについてですが、「晴気」本によると、偶然の出会いを偽装し、「足を洗」ったとして近づき、暗殺未遂後、背広のポケットに「成仏」と書いた名刺が入っていた、という話はいったいどこから出てきたのでしょう。
名刺と電話は作り話としても、出会いについての情報は、淵源はあるのでしょうか?
投稿: duchamp | 2010年1月25日 (月) 23時43分
ducahmp様
一点、松崎も劉吶鴎もロシアレストランArcadiaでひそひそ話をしている4人のうち一人をピンルーの恋人と推測していますが、これは王漢勲でなく、地下工作員の上司にあたる嵇希宗でしょう。嵇希宗は恋人ではないですね。彼はピンルーが日本人と親しいことを利用して情報を取ってくるように指示を出したり、ついには丁黙邨暗殺のためのおびき出しの役割を与えたと見られています。
許洪新氏は、1939年5月以降のピンルー情報がほとんどないことから、冬眠と表現しています。彼女は自分と一緒に和平活動をしていた文隆、早水、花野らが、一斉にいなくなり、しかもその原因の一端が自分とのつきあいにもあったことでショックを受けていたと思いますね。
投稿: bikoran | 2010年1月25日 (月) 00時16分
なるほど。だとすると劉の聞いた「最近日本人とつき合っているって噂」は本当か、と詰問され、「あたし、明日、殺されるかも」の発言は整合性を持ちます。「日本人」は近衛文隆と考えられるし、「一生逢わないわ」も理解できます。ありがとうございました。近衛の帰国が5月頃だとのことですか、この会話に時期と被っています。日中の関係も緊迫しつつ、テンピンルーの状況も、さまざまな関係が、たしかに「精神が分裂」するほど、一時期が集中していますね。
投稿: duchamp | 2010年1月24日 (日) 21時48分
duchamp様
ここはかなり難しい推測になりますが、おそらく王漢勲だと思います。許洪新氏によれば彼は重慶に逃げたわけではなく、1937年8月の上海事変では空軍中隊長として活躍し、その後成都空軍基地など各地を転戦していました。彼は家族公認の仲だったようですが、1939年春にピンルーに手紙を書いて結婚の申し込みをしたところピンルーは決断を保留したようです。
投稿: bikoran | 2010年1月24日 (日) 09時36分
黒沢明「わが青春に悔いなし」は、是非一度ご覧ください。黒沢映画のシリーズでDVDがリリースされています。大きめのヴィデオ店でレンタルが可能かと思います。辻久一ら映画人から見れば変人?との指摘もある松崎啓次ですが、清々しい彼の姿勢が感じられる一編です。
一点ご教示ください。「上海人文記」で1939年の冬、「アルケデイア」で松崎が素知らぬ振りをする戴小姐に遭遇し、その場で劉から聞いた話として「パラマウント」の件の記載があります。そこで「蒋介石と一緒に逃げ」て1か月前に帰ってきた恋人らしき人物とのもつれ、が出てきます。これは誰のことですか?陳恭樹のことでしょうか?
その次の錦江飯店の場面(6月)では、すでに憑と一緒になっているのですが。
投稿: duchamp | 2010年1月23日 (土) 22時57分
duchamp様
「上海人文記」は決して日記文学ではないですが、なんともいえぬ味わいのある読み物でした。十分今でも映画の素材になりますね。徐小姐への愛情は、「間諜 海の薔薇」のヒロインへの愛情にも繋がっているようにも思いました。今度、「わが青春に悔い無し」も見れるものなら見てみたいものです。
花野吉平がピンルーのことが好きだったというのは妹の天如さんが読売の番組で言っていましたね。こちらの記事の真ん中あたりに書きました→https://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_49db.html
花野は「歴史の証言」で確かに一枚のピンルーの写真を掲げていました。画像を手軽にコピー&ペーストできる時代ではないですから、彼は原本をピンルーからもらっていたということですね。
彼女の日中混血という立場は、日本軍が少しでも早く撤兵してほしいという欲求になって、松崎啓次にカフェデーデーで、つらく当たる例の発言に結びついていました。花野による日本軍の撤兵の主張はピンルーには頼もしく映ったはずです。
そこへ、近衛文隆が現れた。空軍では今も王漢勲が頑張っている。丁黙邨との暗黒の関係。松崎が「精神が分裂してしまった」と書いていましたが、なかなか複雑だったと思います。
投稿: bikoran | 2010年1月23日 (土) 03時05分
「徐小姐のロケット」の章、興味深く拝見しました。私も「上海人文記」を初見した折、「徐」さんがテンピンルーかと推測しました。松崎啓次が帰国後、「滝川事件」を扱っていることや表現に携わっている人特有のリベラルさが感じられたので、bikoranさんの当初の推測通り、検閲に配慮したとも思いました。しかし、ロケットそのもののくだりに至って、やはり実体験にもとずく、ある種の恋愛の記憶と思いなおした次第です。
松崎啓次「上海人文記」についで、花野吉平「歴史の証言」、「林秀澄談話記録3」を入手し、一応読了しました。
新官僚・「花野」の過激さには驚きました。bikoranさんが遺族の推測としてブログで書かれていた、テンピンルーが花野と親しく、花野が好意を持っていたとすれば、花野がテンピンルーを誘導していたこともありうるな、と思います。「歴史の証言」で彼女の写真のみを掲載し、ほとんど触れていない点も気になりました。特別扱いをしたかったのでしょうね。
投稿: duchamp | 2010年1月22日 (金) 23時31分