上海防空戦 5
(写真は、日本海軍、台北松山飛行場)
台北憲兵分隊長、林秀澄は、日がとっぷりと落ちた後も松山飛行場に残っていた。護衛の戦闘機はいらないと言った新田少佐はまだ帰ってこない。夜の9時も近づいてきた頃、ようやく北の空から爆音が聞こえてきた。
「無事に帰って来た!」
林はほっとして外に出る。真っ暗な空を見上げても何も見えないのだが、音だけは近づいてくる。ただ、編隊を組んで堂々と飛んでくるものとばかり思っていたのが、一機ずつバラバラに帰ってくるのを感じ、林は少し妙に思った。
「これはだいぶやられたな・・・・」
一番先頭で帰ってきた飛行機は無事に着陸した。誘導路へ入り、次の機のために滑走路をあけ、エプロンに綺麗に駐機させた。
二番機が着陸態勢に入る。
接地した。
「ガリガリガリガリ」
林の耳に、とんでもない音が聞こえてきた。大きな声で号令がかかった。強力なサーチライトが煌々と照らされた。林も目をこらしてライトの先を見つめる。すると、向こう向きに着陸したはずの飛行機が、こちらを向いているではないか。
林は驚いた。着陸しそこねてでんぐり返ったのか。エプロンで待機していた救急車が出ていく。林はそれに飛び乗った。飛行機に近づいてみて初めて分かった。もう機体は穴だらけである。機内には重傷者もいる。左の主脚のタイヤが敵弾に打ち抜かれてパンクしていた。飛行機が着陸後に後ろ向きになったわけは、左側だけパンクしていたために、抵抗になって、機体がくるりと左回りに回ってしまったのだ。
救護隊に聞いてみると、機長は大串曹長だという。つい4時間ほど前、新ホークの高志航機と撃ち合いになった、あの大串機だったのだ。大串機は、高志航の放った弾丸が左エンジンに二発当たり、エンジン停止になっていた。右側エンジンだけでなんとか台北までたどり着いたのだ。96式中攻の主脚は、エンジンのすぐ後部に格納するように出来ている。高志航が左エンジンを狙った弾は、左タイヤも破壊していたのだ。
二番機が滑走路で事故を起こしたため、滑走路は一時的に使えなくなった。上空には着陸許可を待つ数機の96式中攻が低いエンジン音を響かせながら周回を重ねている。その機はどんどん増えていく。
しばらくすると、林は司令部に呼び出された。
「林君、いま無線が入った。燃料のなくなった一機が基隆(きりゅう)港外の社尞島の近くに不時着水する。基隆に連絡して、なんとか救援体勢を取ってくれ」
(写真は、当時社尞島と呼ばれた和平島からみた小川一空曹機の不時着水付近。手前は砲台跡)
広徳爆撃からの帰途、小川一空曹機は、鄭少愚分隊長の新ホークに出くわして銃撃を食い、燃料タンクに穴があいていた。ふらふらしながらもなんとか台北の近くまで飛行機を持ってきたが、やはり燃料がもたなかったのである。
「はい。すぐに手配します」
林は基隆要塞の海軍だけでなく、何隻かの商船にも連絡した。基隆港に出入りする商船は通常は無線閉鎖せねばらない。しかし林は、何人かの船長、通信員に話しをつけて、無線閉鎖の取り締まりをゆるくしてやる代わりに、ラジオを通じて得られる国内情報を持ってこさせていた。彼は台湾勤務が終わったら東京勤務に出世できると踏んでいた。国内の最新情報を頭に入れておくことは彼にとって重要だったのだ。こうして培っていた商船との関係が役に立ち、小川空曹の機体は水中に没したものの、全員が救助された。
「18機出て行って、2機がつぶれてしまった。しかもまだ2機が戻らない・・・・」
林はいよいよ心配になってきた。
夜11時を回ってきた。林はぶしつけとは思いながら、司令に聞いてみた。
「無事ではないのかもしれませんね・・・」
司令は毅然と言う。
「燃料のあるうちは待っておらなくてはいかん」
林はずっと司令部に残ることにした。
12時を過ぎた頃だった。突如、サーチライトが二本、飛行場の上空にすーと立ち上がった。漆黒の闇に、真っ白い光の筋が伸びる。目印だ。地上でできるせめてもの援護である。「帰ってきてくれ!」という思いと共に、二本の光の筋は何時間も立ち続けた。
「味方にも目立つが、敵にも目立つ。お返しに台北飛行場も爆撃されるのじゃないか」
心配性の林はぶつぶつとつぶやく。
午前3時。司令は判断した。
「もはや燃料は無し」
サーチライトが消され、辺りは再び真っ暗闇に包まれた。林は帰ってこない2機のことを案じた。ひょっとしたらどこかに不時着しているのじゃあるまいかなどとも考えたが、明日に備えるため帰宅することにした。
「俺はそろそろ帰る。明日も海軍航空隊の出撃があるかもしれん。そしたら連絡をくれたま
え」
林は、部下にそう言うと憲兵分隊宿舎に帰って行った。
午前3時半頃、分隊に着くと、当直員が林に得意げに言う。
「分隊長殿、支那のラジオを聞いておりましたところ、すごい情報を入手しました」
「なんだ?言って見ろ」
林は眠気もあって、ぶっきらぼうに言った。
「はい!支那側が杭州と広徳を爆撃されたニュースを放送しておりました」
「それで、なんと言っておった」
「はい!それによりますと、昨日、中国時間午後4時(注:日本時間午後6時)頃、杭州の飛行場で日本の爆撃機2機が撃墜されておるようです。それがニュースになって流れておりました!」
「なんだと。こちらは何も知らんで、3時まで待っておったんだ」
「はいっ」
「お前、聞いたらすぐ松山飛行場に電話せんか」
「申し訳ございません」
「そんなことじゃ、お前は憲兵としてつとまらん!」
「申し訳ございません」
この帰らぬ2機は、桃崎三空曹機、三井一空曹機である。高志航率いる中国空軍第4大隊の新ホークに杭州筧橋飛行場上空で撃墜されていたのでである。
そうこうしているうちに、飛行場に残った憲兵から、林あてに電話が入る。電話に出るなり部下が言う。
「分隊長殿!」
「なんだ」
「海軍は午前5時を期して出撃するそうです」
「なに?もう一度言ってみろ」
「海軍は、 午前5時を期して、 出撃するそうです」
「もうか」
「はい、もうでございます」
林は頭がくらくらしてきた。運転手をすぐに呼び戻す。
「松山飛行場へ行ってくれ」
「また、でございますか」
「そうだ。まただ」
林秀澄は、後部座席でつかの間の睡眠をむさぼりつつ、ふたたび松山飛行場へと向かっていった。
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(余話)
この1937年8月14日の中国空軍と日本海軍96式中型陸上攻撃機の間の空中戦は、当時の中国(大陸の中華民国)では、自軍の被撃墜無し、日本軍の被撃墜6機と報道された。現在もネット上に「八一四空戦大勝 0:6」などと、当時の報道のまま書かれているサイトが多い。
実際の日本側の損害は、上の記事に書いた通り、被撃墜2機、不時着1機、飛行場での着陸時大破1機である。また、中華民国側には、戦闘機2機の不時着がある。飛行場へ帰還したかどうかを基準とすると、「0:6」ではなく、「2:3」となろう。いずれにせよ、日本側にしてみたら、初の渡洋爆撃は損失のほうが大きかったことは確かだ。
また、中華民国側から見ても、これが「大勝」なのかどうか、現在の台湾の歴史家には疑問を呈する人達も出てきている。しかし台湾では、今でも「814空軍記念日」として松山飛行場で式典が毎年華々しく開催されている。
参考
「支那事変史」皇徳奉賛会
China Journal September 1937
「上海時代」松本重治
「林秀澄談話速記録Ⅱ」
「一个女間諜」許洪新
「中国的天空」中山雅洋
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