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2010年5月16日 (日)

暗殺未遂事件の新聞記事 2

昨日、国会図書館関西館で、複写を頼んでおいた記事が届いた。ここに保管されている中国発行の新聞は、基本的に原紙、つまり当時の本物が保管されている。1930年代上海の大手新聞「申報」などは、影印といって、複写製本したものが保管されている。

原紙の新聞は、セルフの複写が禁じられている。紙が劣化していてすぐに破けたり、端が欠けてしまう。そこで、図書館の専門の人に頼んで複写、後日送付となる。これは永田町の国会図書館も同じシステムだ。ちなみに我々が普段使う西洋紙は、百年近くも経つと劣化が激しい。いずれ崩壊するそうだ。それに比べて和紙はいつまでも保つ。こと、保存性に関しては和紙の優秀性を改めて思う。



さて、今回届いた記事は、「新聞報」という新聞からのものだ。下記に掲載する。

中華民国28年(1939年)12月22日

原文

昨晩静安寺路

有人鎗撃汽車

経西副探長聞警迎撃

開鎗人及汽車均逃去

昨晩六時二十五分、有黒牌汽車一輌、内載華人三名、行経静安寺路一一四零弄附近時、詎路畔有人出鎗向該車轟撃、時適有捕房一三零号西副探長Bickser駕脚踏車巡邏、適経該処、突聞鎗声即向前迎撃、結果汽車及開鎗者均逃去、事後捕房會派大批探捕、在該処偵査、並無所獲、迄記記者屬稿時、亦未有汽車主人向捕房声明伝、


訳文

昨夜六時二十五分、一台の黒い車に三名の中国人が乗って、静安寺路の1140番小路附近を走行中に、なぜか道ばたから出てきてこの車を銃撃する者があった。その時、たまたま130号警察の西副署長Bickser氏が、自転車が引く人力車で巡邏中で、その近くを通りかかろうとしていた。彼は突然銃声を聞いたため現場に迎撃に向かった。ところが、その車も銃撃手も逃げ去った後だった。事件後、警察は大捜査を行い、銃撃地点を調べたものの、何も証拠を得ることができなかった。記者が原稿を書く時点で、未だにこの車の所有者から警察への連絡は無い。

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コメント

この記事も、「申報」と同じく事件翌日のものである。「申報」は三日連続で記事を書いたが、「新聞報」は、この記事のみで続報はない。しかし、この記事には「申報」に無い注目すべき点がある。「銃撃されたときに、車には三名の中国人が乗っていた」、と書かれているのだ。

繰り返すが、定説では、丁黙邨と鄭蘋如(テンピンルー)の二人が運転手を残して車を降り、連れだって道路向かいのシベリア毛皮店に入り、丁黙邨だけが脱兎のごとく店を走り出て車に戻り、銃撃を受けながら逃げたことになっている。テンピンルーは現場に残され一人で自宅に帰ったことになっている。


私は、この定説が徐々に疑わしいものに思えてきた。これまで見た記事のうち、内部の事情を知る者からのリークと思われる「大公報」以外は、走行中の車を銃撃しているとしか書かれていないのだ。これは目撃者談なのだろう。そして今回の「新聞報」の、「三名が乗っていた車が銃撃された」という記事。


もしかしたら、丁黙邨も、ピンルーも車を一歩も降りていなかったのではないだろうか?



私がかねがね疑問に思っていたのは、銃を持つ暗殺者二名がなぜ降車後に歩行中の丁黙邨を撃てなかったのか、撃てなかったのならなぜ、店に入った丁黙邨を撃てなかったのか、また店を駆け出て来た時に、いくら油断していたからとは言え、車に乗るまでに一発も撃てなかったのか、ということ。暗殺者は、丁黙邨が乗車した後にこの防弾車を撃っている。彼らは当然、丁黙邨の乗る車が防弾車だと知っていただろう。意味がないと知りながら防弾車に向けて銃弾を発射している。


そして、これら記事を読んでみて、新たに浮かび上がった疑問。それは、銃撃後のピンルーの所在である。彼女は店に一人取り残されたはずだ。彼女は警察に、第一証拠人として拘束されなかった。警察は少なくともシベリア毛皮店には事情聴取したはずだ。しかし、店からは証言を得られなかったようである。


ということは、ピンルーは店に入らなかったのではないだろうか。あるいは、やはり車さえも降りていなかったのではないだろうか。


運転手、丁黙邨、そしてピンルーの三名が乗る車が静安寺路1140番地、これはシベリア毛皮店の向かい側の住所であるが、ここに差し掛かりスピードを落とした。丁黙邨とピンルーが降りる間もなく、銃撃手はこの防弾車に向かって銃を発射したのではないか。車はあわてて加速、現場を逃げ去ったのではないか。


ジェスフィールド76号内における丁黙邨のライバル、李士群によるリーク記事と思われる「大公報」では、丁黙邨がピンルーにクリスマスプレゼントを渡すまさにその時に銃撃があり、丁黙邨が重傷を負ったとある。重傷を負ったのならその後の六三花園での忘年会にのこのこと出かけるだろうか。病院に行くかジェスフィールド76号に戻って治療をするだろう。しかし丁黙邨は無傷で忘年会に出席、9時半頃に帰宅している。この「大公報」の記事は信用できない。この記事だけが、なぜか香港配信となり、しかも事件の10日後の記事である。


先日のブログ記事で、この「大公報」のリークの目的は、丁黙邨の実名を出し、彼が女友達にうつつを抜かしている最中に、愛国志士の銃撃にあった、ということにして丁黙邨の恥をさらすことであろうと書いた。


一方「申報」、「新聞報」の翌日記事から読み取れる事は、丁黙邨とピンルーを乗せたままの防弾車に対して、銃撃が行われたのでは?ということだ。もしそうであれば、銃撃手は、最初から丁黙邨を殺そうとしていなかったのではないかということが導き出される。単に、ピンルーと一緒にいる丁黙邨を銃撃事件に巻き込むだけでよかったのだ。それさえ行えば、後はリークによって如何様にも「ストーリー」は作れる。


この仮説に立つと、ピンルーは「その時」、丁黙邨と一緒にいるだけで良かったことになる。李士群は、それだけで、丁黙邨を殺さずして76号から追い落とすためのストーリーを完成させることができるのだ。彼女は、丁黙邨をおびき出したつもりだったのが、実は李士群のストーリーの中の悲劇のヒロインになっていたのだ。

私は、「申報」「新聞報」に、丁黙邨が連れていた女性、ピンルーのことだが、の存在についてまったく記載が無いのを不思議に感じている。租界警察は目撃者情報を集めるために、まずは周辺店舗に聞き込み調査をするだろう。特に銃撃のあった真向かいの店であるシベリア毛皮店には必ず聞き込みをするだろう。しかし女性に言及が無いということは、上でも書いたが、ピンルーは車を実は降りていなかったということがまず考えられる。

次に考えられるのは、定説通りピンルーが丁黙邨とシベリア毛皮店に入ったものの、シベリア毛皮店が暗殺者側から事前に口止めをされていて、租界警察の聞き込みに目撃談を話さなかったことが考えられる。

前回ブログ記事で、銃撃側のCC団には当然に口止め理由があることは書いた。あたりまえだろう。暗殺なのだから。今回、李士群にも口止めのメリットが有る可能性を下記にあげてみたい。


それは、もしピンルーが暗殺未遂の共犯として租界警察に逮捕された場合、日本陸軍上海憲兵隊は正当な理由なくして身柄を移させることができなくなるからだ。ここからは私の大胆な推測である。李士群と組む上海憲兵隊特高課は、とにかく上海第二特区主席検察官の鄭鉞(ていえつ)を親日側に引き込むことに躍起となっていた。彼は言うまでもなく鄭蘋如(テンピンルー)の父親である。


憲兵隊特高課は考えた。ピンルーを暗殺未遂事件の共犯者とすれば身柄拘束できる。そして父親に娘の釈放をエサに親日側へ転向する取引をしよう。それには、租界警察ではなく、自分らがピンルーの身柄を拘束する必要がある。租界警察に捕まっては元も子もなくなるのだ。

そのために、シベリア毛皮店にはピンルーの目撃証言をさせなかった。そのために租界警察はこの丁黙邨の連れていた若い女性、テンピンルーの存在を掴むことができなかった。租界警察の公式発表を記事にした「申報」「新聞報」にはしたがって、銃撃のターゲットとなった男性の連れていた女性のことやシベリア毛皮店に二人連れだって来たことは記載されていないのだ。

ところが、12月30日の香港電、李士群によるリークと思われる「大公報」には丁黙邨の実名と女友達という表現がなされた。なぜか。すでのこの時点で、上海憲兵隊特高課にピンルーの身柄が拘束されていた、あるいは拘束同然となっていたのではないだろうか。ここで女友達と書いてしまうと、租界警察にとって重要参考人になり、当然捜査対象となるだろう。場合によっては租界警察に拘束されてしまう。その怖れがなくなってからのタイミングでリークしたと考えられる。つまり、林秀澄が語った年が明けてからのピンルーの自首と憲兵隊による拘束は、実は12月30日より前だった可能性が高くなろう。


以上、五つの記事から浮かび上がることを、私の大胆な推測を交えながら書かせて頂いた。






















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コメント

中文の特工部を熟度したつもりでいたのに、そこまで思いいたりませんでした。

投稿: しまざき | 2022年4月25日 (月) 23時17分

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