上海より 9
前回記事「上海より 8」←クリック からの続きです。
これが「それらしき記事」かどうかは、読者の皆様にお任せする。上海図書館で、当時の上海で発行されていた朝刊紙、「新華日報」1940年1月31日版 4ページ目の署名記事を、日本語に訳して引用した。
引用開始
「父の祖国に捧ぐ一人の青年」 雷石楡
頑丈そうな身体。深い色をたたえた瞳が輝いている。彼を一目見ただけで熱帯地方で生まれ育った人だとわかる。私は一人の青年を皆さんに紹介したい。彼の高貴な心を理解していただけば、なかなか他には居ない人だと分かる。
彼の父は広東省汕頭(さんとう)の出身であるが、彼の姓名を知っている親しい友人はいない。そこで私は彼を仮にS君とする。
S君は23才。母親はタイ人で家族でタイに住んでいる。弟、妹、母親は中国に来たことがないので、中国の印象はほとんどなく、「中国」という言葉だけを知っている。
ところがS君は違った。彼は父親の愛する祖国、中国を学ぼうとした。学生時代、彼は中国語を勉強し、流ちょうな北京語を話せるようになった。
抗戦中国の国体を守るため、彼は活発に活動した。同胞を助けるため抗戦組織の仲間を集め大きな力量を見せた。日本が設置した特務機関やタイを苦しめる日本商品扱い店に対抗した。
タイ政府は日本軍と協力関係にあった。S君らに残酷な仕打ちが迫った。彼は幾人かの仲間が拘禁されたり暗殺され、また罪に問われたのを知った。
「彼らは真偽を確かめもせず、やみくもに私の仲間を拘束し、追放しました。仕事と財産も没収されました。たとえ追放されなくても困難は変わりません。高額の税を取られ、華僑の学校は再開が許されず、タイで中国語を学ぶことは一種の犯罪となりました。4つ新聞社が閉鎖され、1紙だけがなんとか存続しました。小さな新聞を発行していますが、日常のニュースを報道することしか許されていません」
「私は祖国を渇望しています。家族全員がそろって静かに祖国の懐に抱かれていたい。祖国が偉大な革命的力量を発揮してほしいです」
彼の身体に流れる血は、明らかに我々中華民族に泉源があると感じる。彼の血は、私の血に正義の炎を燃やす。彼の心は一人の中国人の心と何ら変わりない。
人類の進歩は、科学的な知識を持って自分の頭で考えるところにある。そして実行することで現実の明と暗がはっきりする。理想が自分を光明遠大に導く。
S君は頭脳明晰な青年だ。それに加えて情熱的な心を持ち、父親の祖国を愛し、理想の新世界を夢見ている。彼は家庭を犠牲にすることを惜しまず、気力とその思いで、中華民族の困難を分かち合おうとしている。S君は我々の最も敬重する人物の一人であり、まさに我々の「強心剤」と言えよう。
引用終わり
この記事の主人公は、中国人の父とタイ人の母を持つハーフの男性だ。仲間を拘禁、暗殺で失いながらも、抗戦組織で活動することで、父の国、中国への愛情を表現した。記事ではその彼をこの上なくたたえている。
アジアの数少ない独立国として日本と親密な関係にあったタイ政府は、日本の傀儡政権である中国維新政府、そして上海市を中心に権力を持ち始めた次期政権、汪精衛の中国政府とかぶる。
S君も混血。家族では彼だけが活発に動き、S君の母、弟、妹は静かに暮らしている。ピンルーの置かれた立場と重ならなくはない。
さてどうだろか。
上海まで行った私としては、なにかしら成果がほしい。その心理が私の想像をかき立てた。
・・・・・・・・・・尾崎秀実は、上海特派員時代のツテを頼り、新華日報記者の雷石楡に記事を書いてもらうことになった。雷記者は、実在にせよ想像の産物にせよ、S君なる混血青年への短いインタビュー記事を書いた。S君は、とりもなおさず鄭蘋如の暗喩である。S君をたたえることで、日本人との混血でありながら純粋な中国人の心を持つ人物として鄭蘋如に思い致らせる・・・・・・・・・
当初、私はピンルーの釈放には、彼女を拘束しているのが日本傀儡政権であることから、日系の新聞に出した方が効果的とも思った。しかし当時の新聞検閲体制からすると、政権側に反する意見の記事掲載は不可能だろう。新華日報は周恩来が肩入れした共産党系の大手新聞である。
実際にはテンピンルーは1939年の12月末から1940年1月初旬にかけて拘束された。そして上の記事の出た翌月2月の半ばに、いくばくかの助命嘆願があった中、処刑された。
今回、直接的な史料を得ることはできなかった。永松浅造によって書かれた尾崎秀実によるピンルー釈放の動きは証明できなかった。今後発見される可能性はゼロではないが、私個人としてはやり尽くし感がある。この件につき、終了としたい。
2012年7月1日追記
当ブログ読者である蓮氏より頂いた情報によると、上記投稿記事の筆者である雷石楡氏は、1911年生まれの実在の人物で、1933年に日本に留学、1939年まで日本に滞在していたようだ。中国左翼作家連盟東京分盟に所属し、日本語の詩集を出版するなどしながら、日本文芸界に交流を持つに至ったようである。雷氏が尾崎秀実の人脈、もしくは尾崎本人と関係を持っていた可能性が出てきた。
2012年7月7日追記
再び蓮氏より情報を頂いた。尾崎秀実は、1931年に魯迅の小説集としてはじめて日本語で出版された「支那小説集 阿Q正伝」の翻訳をしていた(山上正義との共同翻訳)。その前書きには、「中国左翼文芸戦線の現状を語る」というタイトルの緒言を、白川次郎のペンネームで書いている。
尾崎秀実が魯迅と出会ったきっかけは、1930年に上海で結成された「中国左翼作家連盟」。尾崎の帰国は1932年、その翌年1933年に日本に留学し、「中国左翼作家連盟東京分盟」に所属することになる詩人「雷石楡」と交流を持つことは、至極自然なことと言えよう。
付記:京都の国立国会図書館関西館では、大美晩報、大晩報、華美報、大美報、申報、新申報、新聞報、民国晩報を見ることができた。上海図書館では、新華日報、中央日報、大公報、抗敵報を調べた。小さな新聞社を含めるとこれら以外に数十の新聞が上海では発行されていたようである。
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