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2013年2月の3件の記事

2013年2月18日 (月)

ポイントオブノーリターン3

前回の記事では、クラーク・カー大使の中国赴任に関する記事と、写真を掲載した。それによると、彼の中国赴任は1938年1月早々のことと思われたが、実際には2月半ばのことのようである。

このほど、クラーク・カー大使の伝記を入手することができた("RADICAL DIPLOMAT" The Life of Archibald Clark Kerr Lord Inverchapel, 1882-1951 Donald Gillees 著)。当時の新聞記事だけでなく、この伝記を見ることによって、本当に重慶の蒋介石との直接和平交渉の道を開くために、クラーク・カー大使が近衛文隆を重慶へ連れていこうとしたのか、そのヒントが得られたらと思う。

まず、クラーク・カー大使の中国赴任の時期の確認の前に、彼の前任大使に対する銃撃事件に触れる必要がある。クラーク・カー大使の前任者たる中華英国大使は、ナッチブル・ヒューゲッセン大使であるが、ヒューゲッセン大使の退任は、突然訪れた。それは、日本海軍機による銃撃がもととなっていた。

1937年8月26日の午後、ヒューゲッセン大使を乗せた車両は、南京を出て戦火にある上海へ向かっていた。彼の車両の屋根には大きなユニオンジャックが描かれていた。ところが、その車両へこともあろうに、日本海軍機が機銃掃射したのだ。日本側は誤射を主張したが、ことの真相は不明である。

ヒューゲッセン大使は、腹に銃弾を受け、緊急手術で背骨付近から銃弾を摘出することとなった。幸い命には別状がなかったが、英国へ帰国せざるを得なくなった。このとき、まずいことに、日本海軍や日本政府は、面子にこだわり最後まで正式な謝罪をせず、むしろ事件のねつ造を訴える方途に出てしまった。

中国を巡るイギリスの立場と日本の立場は、1931年9月18日の満州事変のころより、既得権益を奪われるイギリス、奪う日本という相反するもので、もともと対日感情の悪いところに、これはイギリス人の反日感情にさらに追い打ちをかける事件となった。

そんな中での1937年12月にクラーク・カー大使の赴任決定である。彼が日中の戦争において、中国側に付くのは自然のことだろう。彼は中国での赴任の間、一貫して本国政府に対して、蒋介石中国政府への支援を訴え続けた。

目を日本の駐日英国大使に向けてみると、当時はクレイギーという大使が東京駐在だった。このクレイギー大使は、親日派であり、中国におけるイギリスの権益は日本との協調によって維持される、という自説を持っていた。このクレイギー大使とクラーク・カー大使はその後の対中国政策でことごとくぶつかることになる。

1938年の1月、クラーク・カー大使は、さまざまな中国専門家からレクチャーを受けた末、妻のTita(ティータ)とともにロンドンを出航、2月17日に香港に到着した。

前回の記事で、1938年2月8日東京電のオーストラリア カルガリー新聞記事が、「新しく赴任した駐華英国大使のクラーク・カー大使が、中国の面子を潰さず、同時に日本の権益も認めてくれるのでは」と日本側が期待している、と書いていたのを紹介したが、まだこの時点では、クラーク・カー大使夫妻は船の中、ようやく10日後に香港に到着するという時間軸だったことがわかる。つまり、日本はそれほどせっぱ詰まっており、洋上にいる新任大使に、和平の期待を抱いていたとも言えよう。

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2013年2月10日 (日)

ポイントオブノーリターン2

引き続き、アーチバルド・クラーク・カー大使というイギリス人大使による日中の和平仲介の動きがあったのでは?という仮説を検証してみる。1938年から1939年のことだ。

オーストラリア発行の新聞記事がネット上にアーカイブされていたので、そこから検証してみる。



まずはこの1938年2月9日の記事から。オーストラリア西部のカルガリーマイナーという新聞の記事だ。1938年2月というと、前年の12月に日本軍が南京を陥落させ、ようやく落ちついてきた頃で、1月には近衛文麿首相が、「今後、蒋介石を相手とせず」という傲慢な声明を発した頃のことである。

Britain_mediator

日本語訳

仲介者としてのイギリス
日本ストーリー
東京 2月8日
香港にいる日本特派員の話によると、中国はイギリスに対し、日中和平の仲介役をしてもらおうと接近しているという。
この「日々新聞」特派員は、中国の首相Kung(注:孔祥熙。コウショウギ。蒋介石国民党政府の首相)は、最初の提案において蒋介石夫人を使っているという。「日々新聞」はまた、新しく赴任したクラーク・カー大使が、中国のメンツを潰さず、同時に極東における日本の立場を認めるなんらかの方策をもたらしてくれるだろう、と期待している。(この情報は、香港のいずれのイギリス情報筋でも確認されていない)

ロンドン 2月9日
在ロンドン中国大使は、イギリスに対する和平仲介依頼の話は確認されていないと述べた。

以上引用終わり


次に、翌日の2月10日、キャンベラタイムスの記事である。

Mediation19380210

日本語訳

和平仲介 最新のうわさ 

中国は日本の謀略だと言う

 

香港 水曜日

 

漢口と東京による否定にもかかわらず、中国におけるイギリスの和平仲介のうわさはさらに広がっている。これはクン首相(孔祥熙。コウショウギ)が、香港のイギリス総領事と夕食を共にした事実に端を発している。

 

中国当局は、このうわさは中国国内の分裂を目的とした日本の謀略だ、と発表した。

中国は続ける

ロンドン 水曜日

デイリーテレグラフ上海特派員は、オーストラリア人で蒋介石の相談役であるW.H.ドナルド氏の話として、「報道されているような、蒋介石夫人や親族関係者によるいかなる和平の動きも全くない」と語った。

「中国はやめない」、と彼は続けた。「新しい部隊がルンハイの前線に派遣され、ウーフーと漢口では反撃に出ている。広東では日本の南方への進出を食い止めており、反撃の準備が続けられている」とした。

引用終わり

中国側は、イギリスの仲介による和平の動きを完全否定している。この二つの記事から真実かどうかはわからない。日本側には、現状を追認した和平への期待があるようである。

ちなみに、クラーク・カー大使の中国赴任は、1938年1月初頭だと思われる(注:その後の調べで1938年2月中旬と判明)。下の写真では「このほど中国への新しい英国大使としてアーチバルド・ジョン・クラーク・カーが指名された」と、1937年12月28日付けのクレジット文が添付されている。写真は彼の就任披露のセレモニーだろう。彼の赴任後一ヶ月で、上記のような日中和平の仲介のうわさが広がったことになる。前任地はイラクで、中国の次に駐ソ連大使となり、戦後はヨーロッパ復興のための米国による援助計画「マーシャルプラン」のきっかけを作った人物だ。

Kerr1937  

アーチバルド・クラーク・カー駐華英国大使

Credit_of_photo_of_kerr

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2013年2月 5日 (火)

ポイントオブノーリターン

アーチバルド・クラーク・カー大使(Ambassador Archibald Clark Kerr)というイギリス人が、1938年から1942年の間、上海にいた。 駐華英国大使である。

カー大使というと、テンピンルーに詳しい方は思い付く人もいるだろう。


カー大使の名前は一冊の日本の文献に出てくる。「近衛文隆追悼集」がそれだ。現在は国会図書館でしか閲覧できないと思う。シベリア抑留で亡くなった近衛文隆の生前中の知人や恩師が彼について語った本だ。その本の中で、元満州の建国大学教授中山優氏と、近衛文麿前首相が和平のための密使として上海に送り込んだ早水親重の二人がカー大使に言及している。



まず中山優氏の方であるが、近衛文隆が父近衛文麿の名代として中国戦線慰問に訪れる際に、近衛公から息子の案内役に指名されたのが中山優教授だ。1938年10月のことで、約1ヶ月にわたり、満州から内モンゴル、南京、漢口、そして上海と回った。


その中山優氏の書いた追悼文より、該当部分をそのまま引用する。

以下引用

 その頃(注:1938年10月頃)、英国の駐支大使はカーという人であった。これが日本の有力者に一度重慶(注:蒋介石国民党の本拠地)を見せたい。そうして、国民党政府の真剣な実状を見てもらいたい。生命の安全は英国が保証するということで、丁度その頃上海に来ていた毎日新聞の高石真五郎氏にこの話を持ち込んだ。高石氏は行けぬが、文隆氏はいかがだろうということを、高石氏の部下のものがすすめて来た。文隆君は

「捕虜になってもいいから行きましょう」

という。私も食指が動かぬわけではなかったが、父君の依託もあるので、強いて止めて上海をつれ出した。

引用終わり

また、ネット上に、「中山優選集」の抜粋が掲載されおり、「近衛家の悲劇」の章で、同じようにカー大使に触れていたので、該当部分のみを引用する。

以下引用

 はじめ別な世界の人のようにおもつていた近衛公とその一家の人たちは、きわめて自然な、癖のない高雅な人たちであつて私には親しまれた。旅行中、文隆君が上海で毎日の高石真五郎氏に出あったら、英国大使のカーが、

「誰か日本人の有力者に重慶をみせて、日本人の認識を改めたい、安全は英国々旗で保証するから行かぬか」

というが僕にはその勇気がない、文降さんが行かぬかとすすめられた。文隆君は捕虜になる覚悟で行こうと主張するのを、私は役目がら漸く引つばつて日本に帰った。公爵夫妻も私の案内役を喜ばれたが、あの時、もし文隆君の主張に従つて二人で重慶に赴いたら、日本の今日の運命と異ったものができたかも知れぬ。

引用終わり

次に、早水親重氏の追悼文の該当部分を引用する。

以下引用

 従って話は、打開の方途を考えようじゃないか、という事になって別れた。それを機会にたびたび会合する事になり、蒋介石氏と直接交渉を開く以外に方途無く、その方法等につき情報を持ち寄って協議したものであった。一方にはいわゆる影佐氏の梅機関等の汪精衛氏の活動も始まり、片や我らの動きもいつとはなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の彼に対するいたずら的謀略等もあった。

 また、当時英国の駐華大使たりし、パドリック・カー(注:原文のまま。本名はクラーク・カー)氏との会見で、「自分が斡旋するから直接交渉に重慶に行かれては」、との彼への示唆もあり、速やかに上京する事にした。

 五月下旬相次いで入京し、朝野に呼びかけ、当時参謀本部部員たりし、故秩父宮殿下にまで意見具申する等、共に情熱を傾け、一時好転の兆しも見えたが、かえって当局を刺激するところとなった。

 六月上旬、汪精衛氏等七人の要人が上京、直接陳情となって廟議(びょうぎ)は俄然その方向に傾き、六月五日のいわゆる対支処理要綱で直接交渉派の動きは一切まかりならぬ事とあいなり、万事休した。

 六月八日には近衛君は荻外荘(てきがいそう。近衛家の別荘)に軟禁、小生等二人(注:もう一人は武田信近。影佐機関と対立する小野寺機関所属)は東京より二十四時間以内に退去するようにと軍当局より命ぜられる事になった。小生の知る限り、近衛公に代わって直接交渉の道を開き、少しでも公の責任を軽くせしめんとした彼の雄図も、再び上海の土を踏めず破れ去ってしまった。

引用終わり

以上、二人の文章から読み取れることは、1938年10月頃に、クラーク・カー大使が日本人有力者を蒋介石のいる重慶に案内しようとし、たまたま上海にいた文隆に白羽の矢が立ったこと。そして半年後の1939年5月頃、今度はカー大使が近衛文隆氏を指名して、自らの斡旋により重慶へ案内し、蒋介石と直接交渉させようとしたことの2点だ。

そして、クラーク・カー大使の一連の動きからは、少なくとも1939年5月頃までは、イギリスには日中の和平を仲介しようという意図があったのかもしれない、とも類推される。


近日中に、当時の新聞記事から検証してみようと思う。

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