ポイントオブノーリターン3
前回の記事では、クラーク・カー大使の中国赴任に関する記事と、写真を掲載した。それによると、彼の中国赴任は1938年1月早々のことと思われたが、実際には2月半ばのことのようである。
このほど、クラーク・カー大使の伝記を入手することができた("RADICAL DIPLOMAT" The Life of Archibald Clark Kerr Lord Inverchapel, 1882-1951 Donald Gillees 著)。当時の新聞記事だけでなく、この伝記を見ることによって、本当に重慶の蒋介石との直接和平交渉の道を開くために、クラーク・カー大使が近衛文隆を重慶へ連れていこうとしたのか、そのヒントが得られたらと思う。
まず、クラーク・カー大使の中国赴任の時期の確認の前に、彼の前任大使に対する銃撃事件に触れる必要がある。クラーク・カー大使の前任者たる中華英国大使は、ナッチブル・ヒューゲッセン大使であるが、ヒューゲッセン大使の退任は、突然訪れた。それは、日本海軍機による銃撃がもととなっていた。
1937年8月26日の午後、ヒューゲッセン大使を乗せた車両は、南京を出て戦火にある上海へ向かっていた。彼の車両の屋根には大きなユニオンジャックが描かれていた。ところが、その車両へこともあろうに、日本海軍機が機銃掃射したのだ。日本側は誤射を主張したが、ことの真相は不明である。
ヒューゲッセン大使は、腹に銃弾を受け、緊急手術で背骨付近から銃弾を摘出することとなった。幸い命には別状がなかったが、英国へ帰国せざるを得なくなった。このとき、まずいことに、日本海軍や日本政府は、面子にこだわり最後まで正式な謝罪をせず、むしろ事件のねつ造を訴える方途に出てしまった。
中国を巡るイギリスの立場と日本の立場は、1931年9月18日の満州事変のころより、既得権益を奪われるイギリス、奪う日本という相反するもので、もともと対日感情の悪いところに、これはイギリス人の反日感情にさらに追い打ちをかける事件となった。
そんな中での1937年12月にクラーク・カー大使の赴任決定である。彼が日中の戦争において、中国側に付くのは自然のことだろう。彼は中国での赴任の間、一貫して本国政府に対して、蒋介石中国政府への支援を訴え続けた。
目を日本の駐日英国大使に向けてみると、当時はクレイギーという大使が東京駐在だった。このクレイギー大使は、親日派であり、中国におけるイギリスの権益は日本との協調によって維持される、という自説を持っていた。このクレイギー大使とクラーク・カー大使はその後の対中国政策でことごとくぶつかることになる。
1938年の1月、クラーク・カー大使は、さまざまな中国専門家からレクチャーを受けた末、妻のTita(ティータ)とともにロンドンを出航、2月17日に香港に到着した。
前回の記事で、1938年2月8日東京電のオーストラリア カルガリー新聞記事が、「新しく赴任した駐華英国大使のクラーク・カー大使が、中国の面子を潰さず、同時に日本の権益も認めてくれるのでは」と日本側が期待している、と書いていたのを紹介したが、まだこの時点では、クラーク・カー大使夫妻は船の中、ようやく10日後に香港に到着するという時間軸だったことがわかる。つまり、日本はそれほどせっぱ詰まっており、洋上にいる新任大使に、和平の期待を抱いていたとも言えよう。
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