ポイントオブノーリターン
アーチバルド・クラーク・カー大使(Ambassador Archibald Clark Kerr)というイギリス人が、1938年から1942年の間、上海にいた。 駐華英国大使である。
カー大使というと、テンピンルーに詳しい方は思い付く人もいるだろう。
カー大使の名前は一冊の日本の文献に出てくる。「近衛文隆追悼集」がそれだ。現在は国会図書館でしか閲覧できないと思う。シベリア抑留で亡くなった近衛文隆の生前中の知人や恩師が彼について語った本だ。その本の中で、元満州の建国大学教授中山優氏と、近衛文麿前首相が和平のための密使として上海に送り込んだ早水親重の二人がカー大使に言及している。
まず中山優氏の方であるが、近衛文隆が父近衛文麿の名代として中国戦線慰問に訪れる際に、近衛公から息子の案内役に指名されたのが中山優教授だ。1938年10月のことで、約1ヶ月にわたり、満州から内モンゴル、南京、漢口、そして上海と回った。
その中山優氏の書いた追悼文より、該当部分をそのまま引用する。
以下引用
その頃(注:1938年10月頃)、英国の駐支大使はカーという人であった。これが日本の有力者に一度重慶(注:蒋介石国民党の本拠地)を見せたい。そうして、国民党政府の真剣な実状を見てもらいたい。生命の安全は英国が保証するということで、丁度その頃上海に来ていた毎日新聞の高石真五郎氏にこの話を持ち込んだ。高石氏は行けぬが、文隆氏はいかがだろうということを、高石氏の部下のものがすすめて来た。文隆君は
「捕虜になってもいいから行きましょう」
という。私も食指が動かぬわけではなかったが、父君の依託もあるので、強いて止めて上海をつれ出した。
引用終わり
また、ネット上に、「中山優選集」の抜粋が掲載されおり、「近衛家の悲劇」の章で、同じようにカー大使に触れていたので、該当部分のみを引用する。
以下引用
はじめ別な世界の人のようにおもつていた近衛公とその一家の人たちは、きわめて自然な、癖のない高雅な人たちであつて私には親しまれた。旅行中、文隆君が上海で毎日の高石真五郎氏に出あったら、英国大使のカーが、
「誰か日本人の有力者に重慶をみせて、日本人の認識を改めたい、安全は英国々旗で保証するから行かぬか」
というが僕にはその勇気がない、文降さんが行かぬかとすすめられた。文隆君は捕虜になる覚悟で行こうと主張するのを、私は役目がら漸く引つばつて日本に帰った。公爵夫妻も私の案内役を喜ばれたが、あの時、もし文隆君の主張に従つて二人で重慶に赴いたら、日本の今日の運命と異ったものができたかも知れぬ。
引用終わり
次に、早水親重氏の追悼文の該当部分を引用する。
以下引用
従って話は、打開の方途を考えようじゃないか、という事になって別れた。それを機会にたびたび会合する事になり、蒋介石氏と直接交渉を開く以外に方途無く、その方法等につき情報を持ち寄って協議したものであった。一方にはいわゆる影佐氏の梅機関等の汪精衛氏の活動も始まり、片や我らの動きもいつとはなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の彼に対するいたずら的謀略等もあった。
また、当時英国の駐華大使たりし、パドリック・カー(注:原文のまま。本名はクラーク・カー)氏との会見で、「自分が斡旋するから直接交渉に重慶に行かれては」、との彼への示唆もあり、速やかに上京する事にした。
五月下旬相次いで入京し、朝野に呼びかけ、当時参謀本部部員たりし、故秩父宮殿下にまで意見具申する等、共に情熱を傾け、一時好転の兆しも見えたが、かえって当局を刺激するところとなった。
六月上旬、汪精衛氏等七人の要人が上京、直接陳情となって廟議(びょうぎ)は俄然その方向に傾き、六月五日のいわゆる対支処理要綱で直接交渉派の動きは一切まかりならぬ事とあいなり、万事休した。
六月八日には近衛君は荻外荘(てきがいそう。近衛家の別荘)に軟禁、小生等二人(注:もう一人は武田信近。影佐機関と対立する小野寺機関所属)は東京より二十四時間以内に退去するようにと軍当局より命ぜられる事になった。小生の知る限り、近衛公に代わって直接交渉の道を開き、少しでも公の責任を軽くせしめんとした彼の雄図も、再び上海の土を踏めず破れ去ってしまった。
引用終わり
以上、二人の文章から読み取れることは、1938年10月頃に、クラーク・カー大使が日本人有力者を蒋介石のいる重慶に案内しようとし、たまたま上海にいた文隆に白羽の矢が立ったこと。そして半年後の1939年5月頃、今度はカー大使が近衛文隆氏を指名して、自らの斡旋により重慶へ案内し、蒋介石と直接交渉させようとしたことの2点だ。
そして、クラーク・カー大使の一連の動きからは、少なくとも1939年5月頃までは、イギリスには日中の和平を仲介しようという意図があったのかもしれない、とも類推される。
近日中に、当時の新聞記事から検証してみようと思う。
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