ポイントオブノーリターン2
引き続き、アーチバルド・クラーク・カー大使というイギリス人大使による日中の和平仲介の動きがあったのでは?という仮説を検証してみる。1938年から1939年のことだ。
オーストラリア発行の新聞記事がネット上にアーカイブされていたので、そこから検証してみる。
まずはこの1938年2月9日の記事から。オーストラリア西部のカルガリーマイナーという新聞の記事だ。1938年2月というと、前年の12月に日本軍が南京を陥落させ、ようやく落ちついてきた頃で、1月には近衛文麿首相が、「今後、蒋介石を相手とせず」という傲慢な声明を発した頃のことである。
日本語訳
仲介者としてのイギリス
日本ストーリー
東京 2月8日
香港にいる日本特派員の話によると、中国はイギリスに対し、日中和平の仲介役をしてもらおうと接近しているという。
この「日々新聞」特派員は、中国の首相Kung(注:孔祥熙。コウショウギ。蒋介石国民党政府の首相)は、最初の提案において蒋介石夫人を使っているという。「日々新聞」はまた、新しく赴任したクラーク・カー大使が、中国のメンツを潰さず、同時に極東における日本の立場を認めるなんらかの方策をもたらしてくれるだろう、と期待している。(この情報は、香港のいずれのイギリス情報筋でも確認されていない)
ロンドン 2月9日
在ロンドン中国大使は、イギリスに対する和平仲介依頼の話は確認されていないと述べた。
以上引用終わり
次に、翌日の2月10日、キャンベラタイムスの記事である。
日本語訳
和平仲介 最新のうわさ
中国は日本の謀略だと言う
香港 水曜日
漢口と東京による否定にもかかわらず、中国におけるイギリスの和平仲介のうわさはさらに広がっている。これはクン首相(孔祥熙。コウショウギ)が、香港のイギリス総領事と夕食を共にした事実に端を発している。
中国当局は、このうわさは中国国内の分裂を目的とした日本の謀略だ、と発表した。
中国は続ける
ロンドン 水曜日
デイリーテレグラフ上海特派員は、オーストラリア人で蒋介石の相談役であるW.H.ドナルド氏の話として、「報道されているような、蒋介石夫人や親族関係者によるいかなる和平の動きも全くない」と語った。
「中国はやめない」、と彼は続けた。「新しい部隊がルンハイの前線に派遣され、ウーフーと漢口では反撃に出ている。広東では日本の南方への進出を食い止めており、反撃の準備が続けられている」とした。
引用終わり
中国側は、イギリスの仲介による和平の動きを完全否定している。この二つの記事から真実かどうかはわからない。日本側には、現状を追認した和平への期待があるようである。
ちなみに、クラーク・カー大使の中国赴任は、1938年1月初頭だと思われる(注:その後の調べで1938年2月中旬と判明)。下の写真では「このほど中国への新しい英国大使としてアーチバルド・ジョン・クラーク・カーが指名された」と、1937年12月28日付けのクレジット文が添付されている。写真は彼の就任披露のセレモニーだろう。彼の赴任後一ヶ月で、上記のような日中和平の仲介のうわさが広がったことになる。前任地はイラクで、中国の次に駐ソ連大使となり、戦後はヨーロッパ復興のための米国による援助計画「マーシャルプラン」のきっかけを作った人物だ。
アーチバルド・クラーク・カー駐華英国大使
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