この「蘇州の夜」、記事にするモチベーションがあまり沸かなかったのでほったらかしになっていた。「私の鶯」、「支那の夜」が私にとってそれなりのインパクトがあったのに比べ、この「蘇州の夜」はかなり淡泊な映画という印象を残した。
主題は、日本が、中国に対し医療分野に置いて大きな貢献をしている。日本人の真心を知った中国人は日本に感謝し共存共栄を求めていく。
という、典型的な国策映画だ。李香蘭演じる梅蘭(メイラン)と佐野周二演じる主人公の日本人医師、加納とのかなわぬ恋愛が絡んでくるのだが、当初日本人に反発していた梅蘭が、やがて目が覚めたように加納に恋をするという「支那の夜」と似た流れである。
国策映画も3つめとなるとさすがに食傷気味となる。こんな会話が交わされる。
加納:「なぜそんなに日本人が憎いんだい?よろしかったら聞かせてくれないか?」
梅蘭:「私たちの生活をめちゃめちゃにしたからです。戦争が始まると、乱暴な支那兵が乗り込んできて、掠奪、追放、一家はバラバラに。おじさん達や妹がどこへ逃げたか。いまだに・・・」
加納:「日本は中国を救うために、君たちを救うために力を貸したんだ。東洋の幸福は東洋人だけで守らねばいけないんだ」
実際、中国兵も日本兵と同じく、食料などの調達のために戦場近くの農民から掠奪まがいのことをしていたようであるが、この会話からは、それをやっているのは中国兵だけであるかのような印象を与える。
さて、加納ら日本人医師の行っていた活動の一端が少し映像でわかる。ワクチン注射による予防接種である。これは大陸に進出した日本人(日本軍、民間人)に現地の伝染病が移らないようにするためが第一義であったと思われる。
映画の中で面白い格好をしたクルマが映った。車体にはVACCINATION VAN(ヴァクシネイション ヴァン) と書いてある。VACCINはワクチンであるからして、これは「ワクチン接種車」ということだ。日本人進出地周辺各地を巡回していたのだろう。
参考までに、この「ワクチン接種車」はVACCINATION VANで検索すると下の写真が出てきた。イギリスの国内での予防接種の風景のようである。西洋医学の先進国ではこういった巡回予防接種が、1930年代ごろからすでに一般的になっていたようだ。
1924年、上海では民間日本人医師の有志によって福民病院(現在も上海市人民第四病院として存続)が設立され、日本人、中国人、その他外国人分け隔て無く医療行為を施した。鄭蘋如(テンピンルー)の姉、鄭真如は、残念ながら亡くなったがこの福民病院で心臓病の治療を受けている。魯迅も臨終の間際まで、通訳をつけながら日本人医師からの治療を受けていた。
テンピンルーの下の弟、鄭南陽は上海にある満鉄公館に花野吉平らとよく遊びに行っていたようだが、そのつてもあったのだろうか、奉天にある満鉄経営の満州医科大学病院で研修を受け、戦後は上海で内科医院を開業している。この満州医科大学病院には中国各地から優秀な中国人医師の卵が集まり、日本人医師から指導を受けていた。戦後は、中国医科大学病院となり、最新の設備を備えた総合病院として各国からの留学生を集めるまでになっている。
中国における日本人医師団による輝かしい功績と光。素晴らしいものがあるではないか!
ところが、この満州医科大学、当時中国人学生と日本人学生の間には厳然とした区別があった。中国人の教室は薄暗い半地下の部屋、食事は米は出さずコーリャン。日本人学生は明るい教室があてがわれ食事に米が出た。この区別、いやはっきり言うと差別、を知るにつけ、少し暗い影がさしてくる。
そして、この映画「蘇州の夜」では、加納医師とその部下の間でこんな会話が交わされる。
加納の部下:「こちらの人は注射となると、今にも死んでしまうと思っているのですね」
加納:「困ったものですね」
五味川純平の「戦争と人間」にもそんな文章があった。満州で勤務する日本人医師が、現地の中国人を集めて予防接種をしようとすると「殺される!」と騒いで皆逃げていってしまう、というのだ。なぜだろう。注射が嫌いなだけだろうか。
当時の日本人医師団の一部はさまざまな病原菌、毒物の注射などによって3000人とも言われる中国人とロシア人、捕虜となったアメリカ人を生体実験の末、殺していた。
私が「蘇州の夜」を見て思いが至ったのは、日本が大陸で行ってきた医療行為の光と影の両面である。
ドラマ「李香蘭」で、野際陽子演じる山口淑子が、ロシア人の親友リュバから、兄が731部隊(=関東軍防疫給水部隊、いわゆる石井部隊。当初は秘密を守るために石井の偽名である東郷を取って「東郷部隊」という暗号で呼ばれていた)に殺された話を聞く場面が出てきた。私は731部隊の生体実験の対象となったは中国人だけかと思っていたので、ロシア人と731部隊はなかなか結びつかず、この山口淑子氏の書いた731部隊のエピソードには唐突感があった。本心を言うと、信じたくない気持ちもあり、大変失礼ながら山口氏が作り話として挿入したのではないかとさえ思ったこともあった。
こちらのリンクを見ると 731部隊には中国人以外に、ハルピンなどに住んでいたロシア人、日本を空襲して撃墜された米軍捕虜も連れてこられていたことがわかる。
少し引用する。
問:はじめて解剖室に入ったときの死体、どんな人でしたか?
答:男性です。白系ロシア人です。ハルピンは白系ロシア人が多いんですわね。一見して色が白いんですね。28か30歳くらいでしたね。体格がええですわ。手なんかこんなに太くて毛が生えとるんですわね。胸毛もね。そりゃ男前でした。身長は1m80は楽にあったでしょうねえ。
(中略)
問:それで接種は誰がしたんですか?
答:そりゃもう解剖する先生です。
問:どういう風に接種されましたか?
答:えーとその時は静脈に。一番最初のはちょっと何の菌かわからんのですが。もちろん菌そのものはねばっこいから、薄めて。
問:そのときマルタのロシア人は抵抗しましたか?
答:抵抗しないような方法があるわけなんです。というのが「君はおとなしいから早く出してあげよう、それにあたっては予防接種しないといかんから」、と通訳がいうんですね。そすと喜んで手を出す。
問:しかし、おかしいと思いますよね?
答:そうですね、我々が出た後、きょろきょろしてますわね。
問:それで接種したあと外から観察するわけですね?
答:ええ。観察記録するノートがあるわけです。記録する科目がずーとあるわけです。それに何分になったらどういうようになって、何分になったらマルタが座り込んだと。で、何分で横になったと。
問:どういうふうに変化していったか覚えていますか?
答:うーん。打った菌を覚えてないからね。まず打ってから3、4時間後に顔の色がわるくなったね。それから座りこんだね、それでひざまづいて頭をかかえて、それが約30分くらい続きましたですね。それから横になって、背伸びして、またうつ伏になって、仰向けになったりして。早かったですね。
この続きのこちらのリンクで上海から連れてこられた23才の中国人女性が生体実験される直前の様子が証言されているので、また少し引用する。
問:女性の方もいましたか?
答:おります。中国人。そで私が聞いたのに、「ニーナーチュラマー、あんたどっからきたんか」。わたしゃ案外中国語できたから。少年隊のときに中国語も教えますからね。外出なんかしたときいりますから。
問:で、聞かれたと。何と答えましたか?
答:上海。そで、「ニーショウハイユーマー、あんたに子供さんがおられますか」。「メイユラ」、ということはいないということ。「フーチンムーチンユーラーマー、お父さんお母さんいますか」。「いる」、と。その程度の会話はできます。
問:どんなことを聞かれました?
答:「まだ結婚はしてない」と、「どうしてきたんか」。「何かわからんけど逮捕された」。
問:いくつくらいの人?
答:それは若かったね。23くらい。というのは「ニーデチイネントーザイス」、ちゅうのが「あんた今年でいくつになりますか」、「アルスウサン」、ちゅうことは「23」ですからね。私の記憶では23。仕事の事は聞かなかった。
問:隔離室で会ったわけですね。その女性の方も裸だったんですか?
答:う? 女性は服着てた。
問:男性は裸で、女性は服着ていた?
答:そうです。
問:どんな服着てました? 囚人服ですか?
答:いや、囚人服じゃない。中国服。自分の着てきた服や思います。それで手に鎖。手錠じゃなくて時代劇に出て来るような幅の広い鉄の。その間に30センチか40センチの鎖があって。
問:それで普通の服を着ていて?
答:マルタ小屋では裸なんですよ。それを隔離室につれてくるときに、他の人の手前もあるから釈放するからいうて服着せるんでしょうね。私物に着替えさせるんですね。
問:おびえてましたか?
答:いや、あんまりおびえてなかった。釈放されると思っていた。自分は本当に出してもらえるんだろうかいうて私に聞いた。というのは先生が来るまでに時間があったから。
問:それで何と答えたんですか?
答:それですぐ予防接種をして釈放するから。ほで、お金なんかはどうなるんじゃろうかいうて。汽車にのらないかんから。
問:それで釈放されると思って?
答:信じきっとった。
問:名前覚えてますか? 名前聞きましたか?
答:チン・・・ショウレイ。レイという字は美しいというあの字ですな。チンはこざとへんのあれですわね。ショウは、それが思い出さんのですわね。
問:マルタだから名前が書いてあるわけではないですよね。それはお聞きになったんですね?
答:そうです。「ニーショマミンズ」「あんたの名前は」て聞いてそういうたんです。
問:それでその方も観察室にいれて、やはり注射ですか。静脈注射?
答:先生によって違いますわね、その人の時は注射するまではいなかった。私は。
問:その後観察にいったりもしなかった?
答:それは私はしなかった。その女性の場合は。・・・とても綺麗な方でした。色の白いねえ。髪の毛は黒で長い、それを三つに編んでた。一本じゃなくて、二つに分けて。
問:今でも顔を思い出しますか?
答:思い出します。なぜ私がそれを覚えているかちゅうと、私の兄弟は女ばっかし。そで特に意識にのこるんです。
問:脊の高さは?
答:そう高くはなかったね、私よりは高かったけど。やせて。中国人のあれというのはたいがいが先生もお会いになったと思うけど、やせてスーとしてますわね。ああいう感じです。クーニャンて感じですわね。映画なんかで柳のしたで扇子なんかしてるようなね。
問:話しぶりからね、教養があるという感じでしたか?
答:ありました。満州では家のことをファンズというんです。ニイというのは貴方ということ。それでニイファンズナーベンちゅうと、あなたの家はどこですかとい
うことです。ところが中国大陸のほうになるとファンズじゃ通じないんです。ジャーなんです。ニイジャーナーリーとなるんです。
問:つまり最初の満州の言葉じゃ通じなかった、それで大陸の言葉では通じた?
答:ショマ、ショマいうて聞直すわね、向うがわからんと。何、何と。
問:それで上海ということとか判ったわけですね。しかし、本当はそういうこと聞いたらいかんのではないのですか?
答:いや、そりゃかまわんのです。そりゃもう許可なってますからね。落着かせるわけだからね。お前は殺されるいうわけじゃないんだから。イースーラなんていったらあんた殺されますよなんていったらそりゃ大変やろうけど。
問:まあ、そういうことも任務のうちだと?
答:いや誉めやせんけど禁じもしないという。
問:それで変なこと聞くようだけど、その若い女性見て、その時かわいそうだなとか思いましたか?
答:もちろんあります。これ何もわからんで、何時間後には解剖されるんやなあと、知らないということは恐ろしいことだなあ、と。
(引用終わり)
たどってみたら上のリンクの元記事はこちらのホームページからだった。 大分協和病院の内科医、山本氏のホームページである。彼の診ていた一人の患者さんが、731部隊の元少年隊員で、7時間ものインタビューをしていたのだ。このインタビューは1991年9月に行われている。
生体実験の対象となった人々は、「あなたはおとなしいから、釈放してあげる。その前に予防接種をする」と嘘を言われ、皆喜んで研究目的の致死量の病原菌の接種を受けたようだ。このような生体実験の対象は秘密保持のため、憲兵隊か特務機関が住民から集めるようなシステムになっていた。地下工作員の容疑などをかけて捕まえるのである。上に出てくる女性は「なんか分からんけど逮捕された」と言っている。工作員の容疑だったということだろう。23才、はるばる上海から連れてこられている。
日本陸軍と731部隊は、上に書いたような生体実験の結果をペスト菌散布という実戦に応用した。
このブログで以前「漁光曲」の記事 を書いた時、中国語歌詞の発音のフリガナを教えてくれた中国人留学生がいた。彼女の出身が上海の南に位置する寧波(ニンポー、ねいは)であった。ここではかつてペストが流行ったことはなかったが、1940年のある日、日本軍機が飛び去った後、急にペストが流行った。以下は、細菌戦裁判の寧波の部の引用である。
第7 細菌戦による寧波のペスト被害
1 衢州、義烏(市街地)、同農村部及び東陽市と広がるペスト流行の原因
となった衢州への細菌攻撃と同じころ、同じく浙江省の港湾都市、寧波に対してもペスト感染ノミが投下された。このため、寧波には突発的なペスト流行が起
こったが、これ以前、寧波でペストが発生した歴史事実はない。
1940年10月下旬、日本軍機は寧波市(旧称朶県)開明街上空に飛来し、小麦などとともにペスト感染ノミを投下した。飛行機が飛び去ったあと開明街一
帯の商店の庭、屋根、水瓶、路上には小麦などが散乱し、生きている多量のノミも住民によって目撃された。
10月29日、最初の患者が出た。開明街の入り口の滋泉豆汁店や、隣家の王順興大餅店、胡元興骨牌店及び中山東路(旧東大路)の元泰酒店、宝昌祥西服店、さらに東後街一帯で死者が相次いだ。
2 患者及び死者は日本軍機がノミ等を投下した地域の住民に限られていた。汚染区の地域は、北は中山東路に沿って224番地から268番地、西は開明街に
沿って64番地から98番地まで、南は開明巷に沿い、東は東後街から北太平巷に接して中山東路224号へ続く一帯である。汚染区内商店43戸、住宅69
戸、僧庵1戸の計113戸、人口591人であった。
(後略 引用終わり)
下に掲げた3連の書類写真は寧波でペストが蔓延したときに杭州日本領事館が中支警務部長事務代理をしていた上海総領事経由で松岡外務大臣に宛てた報告文書である。日本軍の非占領地にペストが発生したことを強調している。つまり自然発生のペストに見せかけた文書である。しかも支那側と協力して防疫活動をしているということだ。自分でペストを流行らせ自分で防疫する。なかなか興味深いマッチポンプの一例である。(クリックすると拡大します)
二枚目の最後のほうには、満州の大連からペストワクチン500人分を持ってくるようなことが書いてある。おそらくハルビン近郊にあった731部隊でペストワクチンが大量生産され、満鉄経由で大連に送られてきていたのだろう。
私に「漁光曲」の歌詞の発音を教えてくれたこの若き中国人女性。日本が大好きな人である。彼女は自分の故郷に日本軍がペスト菌をばらまいたことを知っていたのだろうか、知らなかったのだろうか・・・。私には聞く勇気がまだない。ただ、私が「日中の戦争中の歴史を学んでブログに書いている」と言ったときに、彼女はすこし表情が固まり、無言になった。
暗い影の歴史を知る行為は常に未来のためにあるべきである。
これは私が歴史を調べ書くときの信念です。
731部隊で活動していた日本人医師の多くが戦後、731部隊の研究成果を引き渡すことを取引条件としたアメリカ当局によって罰から逃れることができた。こうして731部隊を生み出した我々日本人に無反省が許された。その延長線上に、1980年代の薬害エイズ患者の発生があるのではないか。
731部隊長石井四郎の側近であった内藤良一の設立したミドリ十字社による、HIV汚染血液を使った、悪影響があると分かっていながらの輸血。それはまさに731部隊で病原菌を注射され、どうやって死んでいくか、その様を裸でガラス張りの部屋の中で観察された生体実験者「マルタ」を想起させはしないだろうか。
731部隊のことを語るのは「自虐史観」というのだそうである。過去の失敗を学び未来に活かす、それのどこが自虐なのだろうか。自虐上等、私にとってそれは自愛以外の何ものでもない。
2010年2月7日追記
1937年9月23日、上海北部の揚子江を上陸してきた日本陸軍の田上部隊に対して、中国軍はホスゲンガス弾(窒息性毒ガス弾)を実戦使用しています。以下、下記のような従軍記者の記事を見つけましたので引用します。
----------------------
上海九月二十三日発 読売特派員 牧 信
中略
田上部隊本部付近でボスンという聞き慣れぬ砲弾の炸裂する音が鼓膜をふるわせた。「変な音だなあ」と並み居る兵達が顔を見合わせて怪訝な胸を波打たせた時、プーンとガスの匂いが鼻をついて来た。「毒瓦斯だっ」。一時にわが戦線はどよめき立ったがこの匂いは間もなく消えた。するとまたボスーンと中空に炸裂の音がしてプーンと不気味なガスの匂いが戦線を這った。いよいよ敵が毒瓦斯弾を使いはじめたのだ。ホスゲン瓦斯弾である。我が軍を窒息せしめようという人道上許すべからざる手段に訴えて態勢の挽回を図ろうとしたものらしい。だが、敵はこの毒瓦斯もその使い方を知らず遂に効力を発揮せずに我が軍はマスクを用いるまでもなかったが、化学戦の幕はここに切って落とされた。
後略
----------------------
「支那事変戦史」皇徳奉徳会編 昭和12年12月15日印刷 674ページより
この記事を読むと、中国軍は毒ガスを使う意志があった。そして実際に日本軍より早い時期に使った、ということです。私は、中国軍も日本軍も、戦況と準備の具合によっては、同じような行動を取るのかもしれない・・・、中国軍が日本人に対して細菌戦を行っていた可能性もある・・・、それが戦争というものなのか・・・、と感じました。また中国空軍が1937年の段階で日本本土空襲を企図していたことも知ると、単にその時の戦力のバランスによって加害者と被害者が変わるだけなのか、とも感じました。
最近のコメント