上戸彩主演ドラマ「李香蘭」

2009年12月 6日 (日)

100記事目

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このブログも100記事目になりました。しばらく重い記事が続きましたので、今回は上戸彩さんが「李香蘭」の中でにこやかに歌っている写真を先頭にもってきました。

さて2007年の7月に3人の女性が歌う「夜来香」のミックスを作り試聴ができる記事 を書きました。そのころはココログも音楽ファイルを置けたので、MP3ファイルを今でも置いてあってダウンロードできるようにしています。

そして、どなたかが、私のアップしたその音源をダウンロードして上戸彩さんの「李香蘭」シーンと合体させた動画が作られていて、Youtubeにアップされていました。

作成者の方はYoutubeのプロフィールを見たらハワイに住んでいる日本人の男性みたい。知らない間に私との共同作業になってもう一つの作品?が出来てたって感じです。こんなのもありなのかなと。

動画はこちらです

他人の作った動画に私が解説を入れるのもなんですが、このミックスで「夜来香」を歌っている順番は次の通り。

1.華楽三姉妹 

2.Wei Wei Wuu 

3.上戸彩(日本語の「夜来香」のサビと  「蘇州夜曲」)

4.姜小青(ジャンシャオチン)の中国語の「蘇州夜曲」です。

ちなみに、グーグルで、「夜来香 試聴」で引くとこのブログが先頭に来るようになりました。

あと「テンピンルー」とか「上戸彩 李香蘭」とかもここのブログが先頭に来るようになりました。皆様にアクセスして頂いたお陰です。なんかちょっとうれしかったりして。

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2009年6月10日 (水)

夜来香3年目

210523 上戸彩「李香蘭」とは切っても切れない縁のある花、夜来香(イエライシャン)。正確に言うと、月下香とも言うチューベローズがドラマで使われました。2007年1月のプレス発表の席でも、李香蘭こと山口淑子氏が上戸彩さんにチューベローズの花束を渡しています。歌の「夜来香」では歌詞の中に、「白い花」と出てきます。学術名の夜来香をたどると黄色い花になってしまうので、以下、夜来香=白い花のチューベローズ、ということにします。(上の写真は今年5月5日に植えた夜来香の芽です。5月23日撮影)



初めて夜来香を植えたのは2年前。植えるのが遅かったのですが、なんとか花が咲くまでいって、素晴らしい香りをかぐことができました。夜来香の過去の記事はこちら

で、その後は、ずぼらな私はかわいそうなことに、咲き終えた夜来香を放置してしまいました。本当は、堀上げ、といって球根を掘り出して保管しておくらしいのですが、10月に咲いた後、そのまま枯れるにまかせて、ベランダに置きっぱなし。土も乾ききってしまいました。

ところが、生物ってすごい生命力ですね。翌年の梅雨時のある日、集中豪雨があって、横殴りの雨でベランダの奥の方まで雨水が届き、鉢にも水が来たのです。その一週間後くらいに、緑色をした小さな芽がいくつか乾いた土から出てきたのです。

驚いて、そらからは水やりをしっかりして、太陽にもよく当てるようにしました。すると数多くの芽がどんどん出てきました。鉢の大きさと、土の栄養からいって、5本くらいの芽を残してあとは芽かきをしないといけないので、大きいのだけ残して、次から次に出てくる芽を毎日毎日取り除きはじめました。栄養を集中させないと花を咲かせるエネルギーが足りなくなるからです。

ところが、生物の生命力に負けました。止めどなく出てくる芽に、芽かきがとても追いつかず、もう自然に任せることにしました。というか、一つ一つの芽が、「私を刈り取らずに育ててください!」と言っているようで、だんだんと芽かきができなくなったのです。もういいや、全部育ってしまえ、と思って水と肥料を与え続け、太陽にいっぱいあてて、秋になりました。夜来香の花の咲く季節です。

結果は、予想通りでした。芽かきしなかった芽はそれぞれ勝手に育ち、乱雑に葉を出しまくりました。栄養を与えたつもりでしたが、足りませんでした。葉を出しただけで、9月になり10月になり、11月になっても茎が出て来なかったのです。一本も。

12月になりました。寒風が葉っぱだけの夜来香を冷たくさせていきました。2年目の夜来香は花を咲かせることもなく、茎すらも出さず、枯れてゆきました。


でも、私には希望が残っていました。この年に得た栄養は絶対来年に活かされるはずだと。Photo 今年の5月になって、おそるおそる、鉢の土を出して、球根を取り出してみました。驚きました。すごい数の球根です。元々の一つの球根に10個くらいの子供の球根がくっついていました。すごいプレゼントです。(上の写真)

その中から大きい順に5個を自分用に確保。もう5個を実家の両親にプレゼントしました。そして去年よりも一回り大きい鉢を買って土も新しく買っていっぱい入れ、5月5日こどもの日に植え付けました。

210531 2年前に通販で買ったときの最初の球根より一回りから二回り大きな球根です。きっと今年はりっぱな花が咲くと期待しています。写真は芽が出て1週間目くらいの夜来香。かなり元気です。

※ご報告

結果的に、この3年目のチューベローズは開花しませんでした。このまま葉ばかり出して茎は気配すら出ませんでした。秋になり枯れていきました。この鉢に入れた球根は大きい方から五つをピックアップしたのですが、それでも小さすぎて話になりませんでした。

つまり、2年目のチューベローズを芽欠きせず、間引きもせずに放置したため、乱雑に球根の数が増えすぎたのです。上の写真にあるとおりです。この状態では栄養が分散しています。

実際は、すぐ上の写真にある3年目のチューベローズ5本を、葉だけではあったものの育てあげ、次の4年目の球根が取れましたが、それは一株に一個だけの大きな球根でした。

その巨大な球根を4年目としてやはり五つ鉢に植えたところ、全ての株がとてもエネルギッシュに育ち、白い可憐な花をつけ、香りを楽しむことができました。

芽欠き、間引きはとても重要です!






























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2009年2月21日 (土)

「蘇州の夜」を見て 植民地医療の光と影

Photo この「蘇州の夜」、記事にするモチベーションがあまり沸かなかったのでほったらかしになっていた。「私の鶯」、「支那の夜」が私にとってそれなりのインパクトがあったのに比べ、この「蘇州の夜」はかなり淡泊な映画という印象を残した。

主題は、日本が、中国に対し医療分野に置いて大きな貢献をしている。日本人の真心を知った中国人は日本に感謝し共存共栄を求めていく。

という、典型的な国策映画だ。李香蘭演じる梅蘭(メイラン)と佐野周二演じる主人公の日本人医師、加納とのかなわぬ恋愛が絡んでくるのだが、当初日本人に反発していた梅蘭が、やがて目が覚めたように加納に恋をするという「支那の夜」と似た流れである。

Photo_8 国策映画も3つめとなるとさすがに食傷気味となる。こんな会話が交わされる。

加納:「なぜそんなに日本人が憎いんだい?よろしかったら聞かせてくれないか?」

梅蘭:「私たちの生活をめちゃめちゃにしたからです。戦争が始まると、乱暴な支那兵が乗り込んできて、掠奪、追放、一家はバラバラに。おじさん達や妹がどこへ逃げたか。いまだに・・・」

加納:「日本は中国を救うために、君たちを救うために力を貸したんだ。東洋の幸福は東洋人だけで守らねばいけないんだ」


実際、中国兵も日本兵と同じく、食料などの調達のために戦場近くの農民から掠奪まがいのことをしていたようであるが、この会話からは、それをやっているのは中国兵だけであるかのような印象を与える。

さて、加納ら日本人医師の行っていた活動の一端が少し映像でわかる。ワクチン注射による予防接種である。これは大陸に進出した日本人(日本軍、民間人)に現地の伝染病が移らないようにするためが第一義であったと思われる。

Photo_2 映画の中で面白い格好をしたクルマが映った。車体にはVACCINATION VAN(ヴァクシネイション ヴァン) と書いてある。VACCINはワクチンであるからして、これは「ワクチン接種車」ということだ。日本人進出地周辺各地を巡回していたのだろう。Photo_6

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参考までに、この「ワクチン接種車」はVACCINATION VANで検索すると下の写真が出てきた。イギリスの国内での予防接種の風景のようである。西洋医学の先進国ではこういった巡回予防接種が、1930年代ごろからすでに一般的になっていたようだ。

Vaccination_in_uk_2

1924年、上海では民間日本人医師の有志によって福民病院(現在も上海市人民第四病院として存続)が設立され、日本人、中国人、その他外国人分け隔て無く医療行為を施した。鄭蘋如(テンピンルー)の姉、鄭真如は、残念ながら亡くなったがこの福民病院で心臓病の治療を受けている。魯迅も臨終の間際まで、通訳をつけながら日本人医師からの治療を受けていた。

テンピンルーの下の弟、鄭南陽は上海にある満鉄公館に花野吉平らとよく遊びに行っていたようだが、そのつてもあったのだろうか、奉天にある満鉄経営の満州医科大学病院で研修を受け、戦後は上海で内科医院を開業している。この満州医科大学病院には中国各地から優秀な中国人医師の卵が集まり、日本人医師から指導を受けていた。戦後は、中国医科大学病院となり、最新の設備を備えた総合病院として各国からの留学生を集めるまでになっている。 Photo_9

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中国における日本人医師団による輝かしい功績と光。素晴らしいものがあるではないか!




ところが、この満州医科大学、当時中国人学生と日本人学生の間には厳然とした区別があった。中国人の教室は薄暗い半地下の部屋、食事は米は出さずコーリャン。日本人学生は明るい教室があてがわれ食事に米が出た。この区別、いやはっきり言うと差別、を知るにつけ、少し暗い影がさしてくる。

そして、この映画「蘇州の夜」では、加納医師とその部下の間でこんな会話が交わされる。

加納の部下:「こちらの人は注射となると、今にも死んでしまうと思っているのですね」

加納:「困ったものですね」

五味川純平の「戦争と人間」にもそんな文章があった。満州で勤務する日本人医師が、現地の中国人を集めて予防接種をしようとすると「殺される!」と騒いで皆逃げていってしまう、というのだ。なぜだろう。注射が嫌いなだけだろうか。

当時の日本人医師団の一部はさまざまな病原菌、毒物の注射などによって3000人とも言われる中国人とロシア人、捕虜となったアメリカ人を生体実験の末、殺していた。

私が「蘇州の夜」を見て思いが至ったのは、日本が大陸で行ってきた医療行為の光と影の両面である。

ドラマ「李香蘭」で、野際陽子演じる山口淑子が、ロシア人の親友リュバから、兄が731部隊(=関東軍防疫給水部隊、いわゆる石井部隊。当初は秘密を守るために石井の偽名である東郷を取って「東郷部隊」という暗号で呼ばれていた)に殺された話を聞く場面が出てきた。私は731部隊の生体実験の対象となったは中国人だけかと思っていたので、ロシア人と731部隊はなかなか結びつかず、この山口淑子氏の書いた731部隊のエピソードには唐突感があった。本心を言うと、信じたくない気持ちもあり、大変失礼ながら山口氏が作り話として挿入したのではないかとさえ思ったこともあった。 Photo_12

こちらのリンクを見ると 731部隊には中国人以外に、ハルピンなどに住んでいたロシア人、日本を空襲して撃墜された米軍捕虜も連れてこられていたことがわかる。

少し引用する。

問:はじめて解剖室に入ったときの死体、どんな人でしたか?

答:男性です。白系ロシア人です。ハルピンは白系ロシア人が多いんですわね。一見して色が白いんですね。28か30歳くらいでしたね。体格がええですわ。手なんかこんなに太くて毛が生えとるんですわね。胸毛もね。そりゃ男前でした。身長は1m80は楽にあったでしょうねえ。

(中略)

問:それで接種は誰がしたんですか?

答:そりゃもう解剖する先生です。

問:どういう風に接種されましたか?

答:えーとその時は静脈に。一番最初のはちょっと何の菌かわからんのですが。もちろん菌そのものはねばっこいから、薄めて。

問:そのときマルタのロシア人は抵抗しましたか?

答:抵抗しないような方法があるわけなんです。というのが「君はおとなしいから早く出してあげよう、それにあたっては予防接種しないといかんから」、と通訳がいうんですね。そすと喜んで手を出す。

問:しかし、おかしいと思いますよね?

答:そうですね、我々が出た後、きょろきょろしてますわね。

問:それで接種したあと外から観察するわけですね?

答:ええ。観察記録するノートがあるわけです。記録する科目がずーとあるわけです。それに何分になったらどういうようになって、何分になったらマルタが座り込んだと。で、何分で横になったと。

問:どういうふうに変化していったか覚えていますか?

答:うーん。打った菌を覚えてないからね。まず打ってから3、4時間後に顔の色がわるくなったね。それから座りこんだね、それでひざまづいて頭をかかえて、それが約30分くらい続きましたですね。それから横になって、背伸びして、またうつ伏になって、仰向けになったりして。早かったですね。731

この続きのこちらのリンクで上海から連れてこられた23才の中国人女性が生体実験される直前の様子が証言されているので、また少し引用する。

問:女性の方もいましたか?

答:おります。中国人。そで私が聞いたのに、「ニーナーチュラマー、あんたどっからきたんか」。わたしゃ案外中国語できたから。少年隊のときに中国語も教えますからね。外出なんかしたときいりますから。

問:で、聞かれたと。何と答えましたか?

答:上海。そで、「ニーショウハイユーマー、あんたに子供さんがおられますか」。「メイユラ」、ということはいないということ。「フーチンムーチンユーラーマー、お父さんお母さんいますか」。「いる」、と。その程度の会話はできます。

問:どんなことを聞かれました?

答:「まだ結婚はしてない」と、「どうしてきたんか」。「何かわからんけど逮捕された」。

問:いくつくらいの人?

答:それは若かったね。23くらい。というのは「ニーデチイネントーザイス」、ちゅうのが「あんた今年でいくつになりますか」、「アルスウサン」、ちゅうことは「23」ですからね。私の記憶では23。仕事の事は聞かなかった。

問:隔離室で会ったわけですね。その女性の方も裸だったんですか?

答:う? 女性は服着てた。

問:男性は裸で、女性は服着ていた?

答:そうです。

問:どんな服着てました? 囚人服ですか?

答:いや、囚人服じゃない。中国服。自分の着てきた服や思います。それで手に鎖。手錠じゃなくて時代劇に出て来るような幅の広い鉄の。その間に30センチか40センチの鎖があって。

問:それで普通の服を着ていて?

答:マルタ小屋では裸なんですよ。それを隔離室につれてくるときに、他の人の手前もあるから釈放するからいうて服着せるんでしょうね。私物に着替えさせるんですね。

問:おびえてましたか?

答:いや、あんまりおびえてなかった。釈放されると思っていた。自分は本当に出してもらえるんだろうかいうて私に聞いた。というのは先生が来るまでに時間があったから。

問:それで何と答えたんですか?

答:それですぐ予防接種をして釈放するから。ほで、お金なんかはどうなるんじゃろうかいうて。汽車にのらないかんから。

問:それで釈放されると思って?

答:信じきっとった。

問:名前覚えてますか? 名前聞きましたか?

答:チン・・・ショウレイ。レイという字は美しいというあの字ですな。チンはこざとへんのあれですわね。ショウは、それが思い出さんのですわね。

問:マルタだから名前が書いてあるわけではないですよね。それはお聞きになったんですね?

答:そうです。「ニーショマミンズ」「あんたの名前は」て聞いてそういうたんです。

問:それでその方も観察室にいれて、やはり注射ですか。静脈注射?

答:先生によって違いますわね、その人の時は注射するまではいなかった。私は。

問:その後観察にいったりもしなかった?

答:それは私はしなかった。その女性の場合は。・・・とても綺麗な方でした。色の白いねえ。髪の毛は黒で長い、それを三つに編んでた。一本じゃなくて、二つに分けて。

問:今でも顔を思い出しますか?

答:思い出します。なぜ私がそれを覚えているかちゅうと、私の兄弟は女ばっかし。そで特に意識にのこるんです。

問:脊の高さは?

答:そう高くはなかったね、私よりは高かったけど。やせて。中国人のあれというのはたいがいが先生もお会いになったと思うけど、やせてスーとしてますわね。ああいう感じです。クーニャンて感じですわね。映画なんかで柳のしたで扇子なんかしてるようなね。

問:話しぶりからね、教養があるという感じでしたか?

答:ありました。満州では家のことをファンズというんです。ニイというのは貴方ということ。それでニイファンズナーベンちゅうと、あなたの家はどこですかとい うことです。ところが中国大陸のほうになるとファンズじゃ通じないんです。ジャーなんです。ニイジャーナーリーとなるんです。

問:つまり最初の満州の言葉じゃ通じなかった、それで大陸の言葉では通じた?

答:ショマ、ショマいうて聞直すわね、向うがわからんと。何、何と。

問:それで上海ということとか判ったわけですね。しかし、本当はそういうこと聞いたらいかんのではないのですか?

答:いや、そりゃかまわんのです。そりゃもう許可なってますからね。落着かせるわけだからね。お前は殺されるいうわけじゃないんだから。イースーラなんていったらあんた殺されますよなんていったらそりゃ大変やろうけど。

問:まあ、そういうことも任務のうちだと?

答:いや誉めやせんけど禁じもしないという。

問:それで変なこと聞くようだけど、その若い女性見て、その時かわいそうだなとか思いましたか?

答:もちろんあります。これ何もわからんで、何時間後には解剖されるんやなあと、知らないということは恐ろしいことだなあ、と。

(引用終わり)

たどってみたら上のリンクの元記事はこちらのホームページからだった。 大分協和病院の内科医、山本氏のホームページである。彼の診ていた一人の患者さんが、731部隊の元少年隊員で、7時間ものインタビューをしていたのだ。このインタビューは1991年9月に行われている。

生体実験の対象となった人々は、「あなたはおとなしいから、釈放してあげる。その前に予防接種をする」と嘘を言われ、皆喜んで研究目的の致死量の病原菌の接種を受けたようだ。このような生体実験の対象は秘密保持のため、憲兵隊か特務機関が住民から集めるようなシステムになっていた。地下工作員の容疑などをかけて捕まえるのである。上に出てくる女性は「なんか分からんけど逮捕された」と言っている。工作員の容疑だったということだろう。23才、はるばる上海から連れてこられている。

日本陸軍と731部隊は、上に書いたような生体実験の結果をペスト菌散布という実戦に応用した。

このブログで以前「漁光曲」の記事 を書いた時、中国語歌詞の発音のフリガナを教えてくれた中国人留学生がいた。彼女の出身が上海の南に位置する寧波(ニンポー、ねいは)であった。ここではかつてペストが流行ったことはなかったが、1940年のある日、日本軍機が飛び去った後、急にペストが流行った。以下は、細菌戦裁判の寧波の部の引用である。



第7 細菌戦による寧波のペスト被害

1 衢州、義烏(市街地)、同農村部及び東陽市と広がるペスト流行の原因 となった衢州への細菌攻撃と同じころ、同じく浙江省の港湾都市、寧波に対してもペスト感染ノミが投下された。このため、寧波には突発的なペスト流行が起 こったが、これ以前、寧波でペストが発生した歴史事実はない。
 1940年10月下旬、日本軍機は寧波市(旧称朶県)開明街上空に飛来し、小麦などとともにペスト感染ノミを投下した。飛行機が飛び去ったあと開明街一 帯の商店の庭、屋根、水瓶、路上には小麦などが散乱し、生きている多量のノミも住民によって目撃された。

10月29日、最初の患者が出た。開明街の入り口の滋泉豆汁店や、隣家の王順興大餅店、胡元興骨牌店及び中山東路(旧東大路)の元泰酒店、宝昌祥西服店、さらに東後街一帯で死者が相次いだ。

2 患者及び死者は日本軍機がノミ等を投下した地域の住民に限られていた。汚染区の地域は、北は中山東路に沿って224番地から268番地、西は開明街に 沿って64番地から98番地まで、南は開明巷に沿い、東は東後街から北太平巷に接して中山東路224号へ続く一帯である。汚染区内商店43戸、住宅69 戸、僧庵1戸の計113戸、人口591人であった。  (後略 引用終わり)


下に掲げた3連の書類写真は寧波でペストが蔓延したときに杭州日本領事館が中支警務部長事務代理をしていた上海総領事経由で松岡外務大臣に宛てた報告文書である。日本軍の非占領地にペストが発生したことを強調している。つまり自然発生のペストに見せかけた文書である。しかも支那側と協力して防疫活動をしているということだ。自分でペストを流行らせ自分で防疫する。なかなか興味深いマッチポンプの一例である。(クリックすると拡大します)

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二枚目の最後のほうには、満州の大連からペストワクチン500人分を持ってくるようなことが書いてある。おそらくハルビン近郊にあった731部隊でペストワクチンが大量生産され、満鉄経由で大連に送られてきていたのだろう。

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私に「漁光曲」の歌詞の発音を教えてくれたこの若き中国人女性。日本が大好きな人である。彼女は自分の故郷に日本軍がペスト菌をばらまいたことを知っていたのだろうか、知らなかったのだろうか・・・。私には聞く勇気がまだない。ただ、私が「日中の戦争中の歴史を学んでブログに書いている」と言ったときに、彼女はすこし表情が固まり、無言になった。

暗い影の歴史を知る行為は常に未来のためにあるべきである。


これは私が歴史を調べ書くときの信念です。


731部隊で活動していた日本人医師の多くが戦後、731部隊の研究成果を引き渡すことを取引条件としたアメリカ当局によって罰から逃れることができた。こうして731部隊を生み出した我々日本人に無反省が許された。その延長線上に、1980年代の薬害エイズ患者の発生があるのではないか。

731部隊長石井四郎の側近であった内藤良一の設立したミドリ十字社による、HIV汚染血液を使った、悪影響があると分かっていながらの輸血。それはまさに731部隊で病原菌を注射され、どうやって死んでいくか、その様を裸でガラス張りの部屋の中で観察された生体実験者「マルタ」を想起させはしないだろうか。

731部隊のことを語るのは「自虐史観」というのだそうである。過去の失敗を学び未来に活かす、それのどこが自虐なのだろうか。自虐上等、私にとってそれは自愛以外の何ものでもない。


2010年2月7日追記

1937年9月23日、上海北部の揚子江を上陸してきた日本陸軍の田上部隊に対して、中国軍はホスゲンガス弾(窒息性毒ガス弾)を実戦使用しています。以下、下記のような従軍記者の記事を見つけましたので引用します。

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上海九月二十三日発 読売特派員 牧 信

中略

田上部隊本部付近でボスンという聞き慣れぬ砲弾の炸裂する音が鼓膜をふるわせた。「変な音だなあ」と並み居る兵達が顔を見合わせて怪訝な胸を波打たせた時、プーンとガスの匂いが鼻をついて来た。「毒瓦斯だっ」。一時にわが戦線はどよめき立ったがこの匂いは間もなく消えた。するとまたボスーンと中空に炸裂の音がしてプーンと不気味なガスの匂いが戦線を這った。いよいよ敵が毒瓦斯弾を使いはじめたのだ。ホスゲン瓦斯弾である。我が軍を窒息せしめようという人道上許すべからざる手段に訴えて態勢の挽回を図ろうとしたものらしい。だが、敵はこの毒瓦斯もその使い方を知らず遂に効力を発揮せずに我が軍はマスクを用いるまでもなかったが、化学戦の幕はここに切って落とされた。

後略

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「支那事変戦史」皇徳奉徳会編 昭和12年12月15日印刷 674ページより

この記事を読むと、中国軍は毒ガスを使う意志があった。そして実際に日本軍より早い時期に使った、ということです。私は、中国軍も日本軍も、戦況と準備の具合によっては、同じような行動を取るのかもしれない・・・、中国軍が日本人に対して細菌戦を行っていた可能性もある・・・、それが戦争というものなのか・・・、と感じました。また中国空軍が1937年の段階で日本本土空襲を企図していたことも知ると、単にその時の戦力のバランスによって加害者と被害者が変わるだけなのか、とも感じました。

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2009年2月 6日 (金)

「支那の夜」と「ラスト コーション」の類似性。宝石店にて

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以前「テンピンルーを最初に演じた女優、それは」という記事を書かせてもらった。2008年8月2日、愛知大学での研究発表を聴講してきたときのことである。その時に、関西学院大学の西村准教授が鄭蘋如(テンピンルー)の研究発表を行い、その発表の中で「支那の夜」の一部を上映した。私はその映像を見て、瞬間的に既視感に襲われた。これは映画「ラスト コーション」のシーンそのものではないかと。

1940年封切りの映画「支那の夜」(現在のタイトルは「蘇州夜曲」)。そして2007年ベネチア映画祭で金獅子賞を取った「ラスト コーション」。その両映画の宝石店でのシーンが私の中でぴったりと重なったのだ。

それをもう一度確かめたかったのだが「支那の夜」はビデオが絶版になっている。確認のしようが無かった。ところが、今こうして自分の部屋のテレビで「支那の夜」が見れようとは。チャンネルNecoに感謝したい。

上の写真の通り、やはり私の既視感は間違いではなかった。

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Photo_3 「ラスト コーション」はご存じの通り、テンピンルーのかかわった丁黙邨暗殺未遂事件をモチーフに、張愛玲が書いた短編小説「色 戒」を原作とする。冒頭三連の写真は、そのストーリーの中でもクライマックスにあたる部分である。しかし日中のハーフであったテンピンルーが持っていたであろうアイデンティティの相克はこの小説「色 戒」、そして「ラスト コーション」には描かれてはいない。小説は張愛玲の個人的な背景がベースになっている。

一方「支那の夜」に原作があるわけではないが、丁黙邨暗殺未遂事件は1939年12月21日。まさに「支那の夜」のシナリオ作成が行われていた頃である。またテンピンルーを題材とした松崎啓次の「上海人文記」が出版されたのも1940年のことである。松崎啓次がシナリオ作成に協力したことは十分に考えられる。

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2007年秋、「ラスト コーション」が世に出たことで、テンピンルーの存在が一躍クローズアップされた。しかし、抗日と親日の間を揺れ動く、どちらに取ってよいのか最後までわからない桂欄を見るにつけ、むしろ「支那の夜」の方が、テンピンルーを象徴的に描いたと言ってよいのではないだろうか。そしてそれはとりもなおさず、テンピンルーを最初に演じた女優は李香蘭、こと山口淑子だった、ということである。 日中の狭間で揺さぶられたピンルー。李香蘭は自分がピンルーを演じたと認識していないかもしれない。しかし、ピンルーを演じるに最もふさわしかった女優、それは李香蘭を置いて他になかった、ということは確かであろう。

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2009年2月 5日 (木)

「私の鶯」を見て

チャンネルNECOでさっそく李香蘭「私の鶯(うぐいす)」を見てみた。

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当時のハルピンの街の映像がふんだんに出てきただけでなく、上海、北京、天津の街中の映像も出てきた。またハルピンの周辺の平原の映像もあり、当時の中国、特に満州が実際はどんなであったか、記録映像としても貴重な映画であった。


そして満映の李香蘭を初めて見た。


かわいらしい。


李香蘭の印象ががらりと変わった。背は思ったより小柄で、そして思ったよりふっくらしていて(失礼)、役柄もあったとは思うが、守ってあげたくなるタイプに描かれていた。これこそが、満映の李香蘭なのか?日本人が守るべき、愛すべき可憐な支那人女優!李香蘭。

この映画の中でもまさに地元日本民間人が李香蘭の演ずるマリコを守り、そして救世主のように危機に陥るハルピンを救いに日本軍の大部隊が楽団と共にやってくる。「日本軍の入城」と表現されている。ハルピンに住むロシア人も日本人も等しく大歓迎する。これでやっと中国人の「匪賊(ひぞく)」、つまり暴漢のゲリラの襲撃を防げると。しかしこの匪賊は、もともとそこに住んでいた中国人であったのだ。ある一面、武装盗賊団、別の一面、他国からやって来た侵入者から自分らの土地を取り戻そうとする愛国者、ということである。

匪賊は鉄道を爆破し、罪のない旅行者が足止めされる。様々に被害を与える暴漢という印象を与える。そしてなんと、「満州事変」と文字で大書きされ、この中国人匪賊、暴漢から罪のない日本人やロシア人を守る争いがしかたなく満州事変に繋がっていった、そういう印象を与えている。満州事変正当化映画でもある。

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満州事変とは、日本軍の一部の策略により、柳条湖(りゅうじょうこ)という場所で、中国人匪賊が爆破したということにして、日本軍が自分らの鉄道、満鉄の線路を爆破、中国人匪賊を撃退する口実を作り上げ日本軍の勢力範囲を広げたのが真相である。


山口淑子氏の「李香蘭を生きて」によれば、この映画の監督は戦争宣伝映画は作らなかった島津保次郎監督によるものだと書かれている。音楽映画、芸術映画なのだと。確かに、李香蘭の素晴らしソプラノが聴け、多くのオペラの場面が出てくる。ハルピンに素晴らしい劇団や楽団があったことがわかる映画でもある。

しかし、私はそのような先入観を持って無防備に見たからか、逆に明確な戦争宣伝国策映画というイメージを強く感じてしまった。これは検閲を通すための苦肉の策でもあったのだろう。


ところが、東宝はやはり検閲は通らないだろうとあきらめたのか、なにか他の理由で自主的に降ろしたのか、この「私の鶯」は劇場公開されずお蔵入りとなった。私は不思議でならない。これは謎である。私の印象は、「私の鶯」は日本の戦争宣伝国策映画そのものである。これが芸術映画というのなら、明日放送の「蘇州夜曲=支那の夜」がいったいどんな戦争宣伝国策映画なのか、すこし怖くもある。


私が想像するに、これは戦争宣伝が足りずに検閲が通らないとか、敵性音楽であるオペラばかり出てくるから検閲が通らないとかではない、と思う。

あるオペラシーンで、観客の中にボルシェビキ、つまりロシアの王制を倒し、のちのソ連共産党となる工作員が大勢まぎれ込んでいて、帝政ロシアおかかえだった歌劇団の演技にヤジを飛ばし、劇場全体を混乱させ、ついにはオペラの途中で閉幕に追い込むシーンがあった。

私は、このシーンが非常に引っかかっている。全体ストーリーにどんな役割があったのか。このシーンは、素晴らしいロシア歌劇団によるオペラを台無しにするシーンである。単に、現実にあった出来事をエピソードとして挿入したのだろうか。可哀相な旧帝政ロシア人たち。そのかわいそうな養父に養われるさらにかわいそうなマリコ(李香蘭)。そういうことを強調するためだったか?旧帝政ロシア人の悲劇を描きたかったのか?わからない。


私は、この映画のシナリオに、すこし政治的要素を感じた。この映画の作り手の政治的信条は私は知らない。ただ、ボルシェビキつまり、帝政ロシアの貴族階級に対抗する人々の中から生まれた活動員をこの映画で目立つように出した。このシナリオには、なんらかの意図があると感じた。

貴族社会、帝政による支配、これを打ち破る人々が遠く満州の地でこれだけ活動しているぞ!天皇制に抑圧された日本人達よ、君たちも頑張れ!天皇の軍隊のために命を無駄にするな。これはロシア人、いやソビエト人同志からのメッセージだ。というように、隠されたメッセージとして描き込んだ、とも取れる。

逆も考えられる。芸術にまったく理解を示さない心の貧しいボルシェビキ。帝政ロシアはとっくの昔に倒れている。それをいまさらなんだ。音楽は音楽。芸術は芸術。素晴らしいものは素晴らしい。政治や制度、体制と分けて受け入れることがなぜ出来ないのだ。悪しきもの、それはボルシェビキ、芸術を台無しにする共産党!ということを言いたかったかもしれない。



表のストーリー展開は、割とよくある養父母ものである。養父が手塩にかけて育て上げてきた娘の前に、本物の父親が現れる。さて、というものである。


この映画は表のストーリーよりも、裏のシナリオに興味のわく映画だった。明日はこれまた楽しみな「支那の夜」である。


















































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2009年2月 3日 (火)

テレビで蘇州夜曲

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遅い夕食を食べながら、何の気無しにテレビを付けたら「蘇州夜曲」が流れてきた。教育テレビの「中国語で話そう」という語学番組。

歌っていたのは、このブログでも前に記事にもしたけど、李広宏という蘇州出身の中国人男性歌手。

この方は、中国に居たときにラジオから日本語の「夏の思い出」が流れてきて、その美しさに惹かれたそうだ。テレビや映画ではいわゆる「抗日もの」ばかりのころで、日本=恐ろしい、という印象の頃。この歌を聴いて、本当の日本を知ってみたいと日本に渡ってきたそうだ。

それ以来、美しい日本の心を表す歌を中国語に翻訳して中国人に紹介しているということだ。上戸彩がドラマ「李香蘭」の上海ステージで歌っていた「蘇州夜曲」中国語版も、李広宏氏の翻訳バージョンだ。

「夏の思い出」と「ふるさと」が彼の心の支えだと言っていた。

「夏の思い出」
江間章子作詞 中田喜直作曲

夏が来れば 思い出す
遙かな尾瀬 遠い空
霧の中に 浮かび来る
優しい影 野の小道
水芭蕉の花が 咲いている
夢見て咲いている 水のほとり
石楠花(シャクナゲ)色に 黄昏(たそがれ)る
遙かな尾瀬 遠い空




彼は尾瀬に自分の故郷、水の都、蘇州を重ねたのだろう。
 

「ふるさと」
高野辰之作詞 岡野貞一作曲

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何に在(い)ます 父母
つつがなしや 友がき
雨に風につけても
思い出ずる 故郷(ふるさと)

志を果たして 
いつの日にか帰らん 
山は青き故郷
水は清き故郷


母親がたまに口ずさんでいたのを思い出す。


これらの詩を、意味を変えずに翻訳して中国人に紹介しているとのことだ。どんな訳になるのだろうか。蘇州夜曲の日本語版から中国語版への翻訳には素晴らしいものあった。まるで中国語版がオリジナルであるかの錯覚に陥ったほどだ。以前に書いた「蘇州夜曲」の記事を参照。彼はコンサートも行っているようである。李広宏氏のサイトはこちら

先日の韓国映画で出てきた「夜来香」といい、今日の「蘇州夜曲」といい、当時の作詞作曲家、歌った李香蘭、ともにこんな時代にまで歌い継がれることになるとは思っても見なかったのではないだろうか。

天職だと思うことを愚直に続ける、それができると何かを残せるのかもしれない。




 

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2009年2月 1日 (日)

韓国映画の夜来香

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前回の記事でCSチャンネルnecoが李香蘭特集をやると書いたが、さっそくスカパー!を通じてチャンネル登録を行った。で、録画テストをしようと思ってたまたま選んだのが、おととい放送された「ダンサーの純情」なる韓国映画。

私はこれまで韓国映画を見たことがなかったので最初はなんとなく抵抗があったのだが、すぐに映画の国籍は全く関係なくなった。


日本映画「Shall We Dance?」に大きくヒントを得た映画だなと感じた。すこしコメディタッチのある直球の純情映画だった。ここだけは変化球だろう、と予想した場面でも、やはり直球のようだと思い直したり頭の中が逆に混乱した。ラストが近づくにつれて、韓国映画はひょっとしてとんでもない悲劇で終わるのか?とも危惧したが、そんなことはなくほっとした。

韓国トップクラスの男性ダンサー(社交ダンス界の)が次回大会のパートナーとして中国から呼び寄せた相手女性ダンサーが事情で来れなくなり、依頼主に内緒でダンス素人の妹がやってきたところから始まる。

そしてしばらくこの映画を見ているとなんと突然、「夜来香」が流れてきた。クリスマスパーティのカラオケで主人公の女性が夜来香を歌い始めたのだ。これには驚いた。上のyoutubeを参照。

70年ほども前の李香蘭の歌が、現代の韓国映画から聞こえてくる。音楽は時代も国境も超越する。まさに永遠の共通語である。

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2008年12月31日 (水)

上戸彩「李香蘭」(再)を見て

上戸彩の「李香蘭」再放送を見た。2年も待ったので、なにか特別なものでも見るような感じがして、一人でちょっと緊張してしまった(苦笑)。

通しでこのドラマを見るのは、たぶん3回目だと思う。本放送、DVD購入時、そして今回。毎回感じ方は変わってくる。

ラストの野際陽子さんの李香蘭、北京の城壁の上で、

「平和を」

Photo_4 とひとこと言って終わる。私は今まで、この言葉を李香蘭こと山口淑子さんの言葉に感じていた。彼女の切なる思いだと。

今回は違った。鄭蘋如(テンピンルー)をはじめとする日中の狭間に否応なく放り込まれた人たち、近衛文隆や花野吉平ら命をかけて戦争回避に動いた若き反戦日本人たち、戦場にしなかったという意味ではつかの間の和平をもたらし、のちに漢奸と呼ばれ処刑された親日中国人たち、そして多くの戦争の犠牲者たち。これらの人々の心の叫びを、野際陽子の李香蘭が代表して言ったのだなと感じた。

平和をどうやって得るのか、保つのか。イスラエルとパレスチナ、アフガンと米軍、イラクと米軍を見ていると武力以外ではなんとかならないのか!?と思う。人間という野生動物にに課せられた永遠の課題である。

さて、話は変わるが、ドラマも映画も一定の時間内に収めねばならない。このドラマもかなりカットされているシーンがあると思う。最もそう思ったのが、李香蘭が東京で児玉さんに恋心を告白する前あたりである。というのも、李香蘭が児玉に対して「幸せにしてください!」と言う台詞が、少し唐突過ぎるからだ。おそらく本来前振りがあるはずである。

そこで、自分なりに付け足してみる。

Photo_3 児玉が、松岡に嫉妬しているのはドラマを見ての通り。かたや護衛役、かたや東大卒、外務大臣の息子である。児玉は李香蘭が好きで好きでしょうがないのだが、李香蘭が松岡に気があるのを知っている彼はおくびにも出さない。彼はメンツを重んじる日本男児。得意なことはやせがまん。李香蘭の護衛役として、「李香蘭の幸せ」を見届けてから安心して戦地に赴きたい。彼の考える李香蘭の幸せ、それは本心とは裏腹に松岡と李香蘭の結婚である。

(以下、類推シナリオ)

児玉は陸軍から召集令状「赤紙」が来たことを車の中で告げる。

そして李香蘭に、

「あなたが幸せになったのを見届けたら・・・・、

私も安心して戦地に行けます」

と言う(棒読み)。

「李香蘭には児玉が一番合っている・・・」

そう確信している付き人の厚見雅子は

「何が安心よ、はっきり言っちゃいなさいよ」

とけしかける。

車内にはしばし沈黙が流れる。

Photo_2 松岡とデートを重ねる李香蘭。いつかはっきりとプロポーズしてくれるに違いないと期待している。しかし、華族の令嬢との縁談など引く手あまたの松岡は煮え切らない。エリート家系の彼の両親や親族は、中国生まれの李香蘭との結婚には反対だったのだ。それが松岡の心を優柔不断にさせていた。

「僕は、今度お見合いをすることになってねえ」

松岡は少し酔っているようだった。

数週間前の熱い抱擁はなんだったのだろう。自分から返事をしろというのか。混乱する李香蘭。彼女は、なんでも気軽に話せる児玉に悩みを打ち明け、松岡からの手紙を見せて相談に乗ってもらうのだった。

「内地で生まれ育った日本女性だったら、どう返事するのかしら・・・」

「さあ、それは。日本人も中国人も関係ないでしょう。あなたの本心を伝えればいいだけです」

赤坂の料亭。松岡は自分が将校としてサイゴンの経理本部に赴任することを告げるため李香蘭を呼び出した。

「サイゴンに赴任することになりました」

李香蘭はうなずいて下を向く。

そして、少し微笑みながら言う。

「お見合いはどうだったのかしら」

2 松岡は真顔になって、

「ごめんなさい。大女優のあなたを、侮辱するつもりは全くなかった。遊びでお呼びしてるわけじゃない」

と弁解する。

李香蘭はきっぱりと言う。

「わたし、自分の気持ちがやっとわかりました」

「どういう?」

「私には大事な人がいたんです」

「・・・・」

「その人に赤紙が来ました」

「そうですか」

「フィリピンの最前線に出るそうです」

「それは大切な時にお呼びしてすまなかった」

李香蘭は付き人の厚見雅子を先に帰し、児玉が運転席で待っている車に息せき切って駆け寄る。いつもは後部座席に乗る李香蘭が、助手席に乗り込む。

児玉は李香蘭が一人なのに気づく。

「厚見さんは?」

「先に帰ったわ」

ややあって、エンジンをかける児玉。

李香蘭はさきほどまでとはうってかわって、

晴れ晴れした表情である。

「うれしくないの?」

「・・・・・・」

予想外の展開に驚く児玉。

「そうだわたし、日本語の本がほしいの。児玉さん、くださらない?」

「ほ 本ならいっぱいあります」

いっぱいいっぱいの児玉。

Photo 児玉は車のギアをローに入れ、赤坂の料亭街の道を駆け登り乃木坂を左折する。歩兵第一連隊と第三連隊の広大な敷地の間を都電沿いに抜け、六本木交差点を渡ると自分のアパートのある麻布狸穴町が近づいてくる。いつもは李香蘭のアパートまで送るのに、今日は逆である。心臓が破裂しそうな児玉。

児玉はアパート前に車を止め助手席のドアを開ける。

「どうぞ。こちらです」

降り立った李香蘭を案内する。部屋のドアの前までついていく李香蘭。二人はドアの前で立ち止まる。いまだかつて女性を部屋に入れたことがない児玉の部屋は、至る所に本が積んであり、空の酒瓶が所在なげに並ぶ。

李香蘭を中に入れようか、本だけ渡そうか一瞬迷う児玉。

「寒いわ。早く開けて」

あわてて鍵をまわし、ドアを開ける児玉。

李香蘭は少しだけ身震いした。

それをさとられまいと手に息を吹きかけながら部屋に入る李香蘭。

(以降ドラマに続く)

山口淑子著の「李香蘭を生きて」によると、実際には赤坂から乃木坂、そして麻布狸穴町まで二人並んで歩いたようだ。そして、李香蘭が児玉の本心を知ったのは戦後のこと。児玉がフィリピン戦線で戦っていた当時のマニラにいた作家、今日出海(こんひでみ)氏から、児玉の最後を聞いた時。アメリカ軍の攻撃に対し、在留邦人を避難させた後、李香蘭の写真の入ったロケットを胸に突撃をして戦死した、という話を聞いた時のことだ。李香蘭は号泣したらしい。

こういうこともあって、ドラマの中で「・・・・人の気持ちが全然見えない、大根女優なんだわ・・・・」という台詞が使われたのだろう。

この作品は角川映画が制作に入っていたことから、映画としての発表も考えられていたのではないか。しかし映画を意図するとさらに半分の時間に収めないといけない。上戸彩の歌う李香蘭の歌もいくつかも削られ、エピソードもほとんど描ききれないあらすじ、となっていたかもしれない。やはり二日に渡る時間は必要だったのだろう。

2009年1月12日追記

Cosmopolitanさんからコメント頂き、上記のシーンにぴったりの李香蘭の歌を紹介頂きました。こちらのリンクからその歌の歌詞と解説を見ることができます。Cosmopolitanさんご紹介の歌のページ 国策とは無関係なこういう歌を聴くと、中国人の純粋な李香蘭ファンが大勢いたというのも納得がいきます。

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2008年12月19日 (金)

鳳陽歌の歌詞 ドラマ「李香蘭」より

ドラマ「李香蘭」の中で上戸彩が歌った中国語曲で、日本人にとってもっとも無名の曲、「鳳陽歌(ほうようか ホワンヤングァ)」。ドラマの中では李香蘭が満映に行く途中の列車の中で、同席した老人の二胡に合わせて歌われている。

Photo_4

この歌は別に「鳳陽花鼓」とも呼ばれており、こちらの方が一般的には使われているようだ。英語だと Feng Yang Flower Drum というようである。youtubeのコメントを通じアメリカに移住した73才の中国人のおじいちゃんに教えてもらった。そのコメントを引用する。

C.Y. Lee's name in Chinese is 黎錦扬. The song,鳳陽花鼓, as you mentioned, should be familiar to all Chinese of my age. I learned it when I was a little boy in China. The song tells of the horrible conditions in which the poor had to sell their children. The melody and the lyrics are hard to forget. It brings tears to my eyes when I hear the song.

この方が小さい頃、まだ中国に住んでいたとき、よく耳にしたらしい。その頃の中国人なら誰でも知っているだろうということだ。子供を売らなければならないほどのひどい状況が歌われている。この曲のメロディと歌詞を耳にするたびに涙するそうである。

この方が言うには、李香蘭のために夜来香を作った黎錦光(れいきんこう)の弟、黎錦揚(れいきんよう アメリカ名:C.Y.Lee)と言う人が、「鳳楊花鼓」のブロードウエイ版の原作を書いたとのことだ。李香蘭とも浅からぬ縁がある曲だと言える。

もともと1300年代の中国安微省の鳳陽県に伝わる民謡である。明の初代皇帝朱元璋の世の中になったら、飢饉が起こったり、無理な首都建設で農民の生活が苦しくなった。洪水で追い出された避難民は売る物も無く、花鼓を叩き、歌い、大道芸をして生活をせざるを得なかった。という歌である。

そしてドラマ「李香蘭」でもまさにそういう台詞があったのだが、朱皇帝とは日本軍のこととして当時の民衆の間で流行ったのである。日本軍が来て以来、中国は荒れ放題なんだと。

中国には故事を使って現在を表す隠喩(いんゆ)の手法がよく使われる。李香蘭の出演した映画「萬世流芳」も、アヘンを持ち込んだイギリスに対抗する中国人という故事にまつわる話だが、イギリスを日本軍と見立てて民衆はこの映画を見たのだ。プロデューサーの川喜多長政は、予算は日本側から出させ、内容は中国人に受ける映画とする見事な手法で制作を進めたわけだ。

さて、この曲は歌詞をずっと探していてなかなか入手することができなかったのだが、こちらのサイト(加藤徹様のホームページ)に載っていた。600年以上の歴史の中ですこしずつ違う歌詞や旋律が出ているようである。このサイトによれば、「中国音楽詞典1985」の「鳳陽花鼓」に歌詞が掲載されているようである。また、「中国民間歌曲集成 安徽巻」p.639-640に載せる「新鳳陽歌」(1935年の抗日映画「大路」の挿入曲)の旋律とほぼ同じ。「新鳳陽歌」の歌詞は三番まである。

ということだ。どうやら抗日映画で「大路」というのがあり、公開が1935年ということなので年代的に判断して、上戸彩の「李香蘭」ではこれを採用したのだろう。

旧民謡  「鳳陽花鼓」(鳳陽歌)の歌詞

(赤い字がドラマで上戸彩さんの歌ったところ)

1.
説鳳陽、道鳳陽、
shuo feng yang   dao feng yang

鳳陽本是好地方。
feng yang ben si hao di fang

自従出了朱皇帝、
zi cong chu liao zhu huang di

十年倒有九年荒。
shi nian dao you jiu nian huang

2.
大戸人家    売騾馬
da hu ren jia   mai luo ma

小戸人家    売児郎
xiao hu ren jia  mai er lang

我家       没有児郎売
wo jia       mei you er lang mai


身背着花鼓       走四方
shen bei zhe hua gu   zou si fan

歌詞の意味

鳳陽は、鳳陽はね、
鳳陽は元々いいところ
明の朱皇帝出てからは、
十中九年は荒れ放題

大きなうちはロバを売り、
小さなうちは子供売る
うちには売れる子もいない
背負った鼓叩いて踊る

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2008年12月13日 (土)

さりげなく、上戸彩「李香蘭」再放送発表

上戸彩の「李香蘭」が再放送される。テレビ東京のホームページに発表があった。実にさりげない発表なので、こちらもさりげなくリンクを置いておく。2008年12月29日(月)30日(火)、午後1時〜3時25分、2日連続である。放送地域は東京、名古屋、大阪地区等のテレビ東京系列。

ドラマ「李香蘭」再放送

Photo


2007年の2月の本放送から約2年。

再放送の日までこのブログを続けようと思っていた。

上戸彩さんの李香蘭の歌を、やはり全部しっかりと聴きたい、その思いから。

Photo_2

再放送までは思ったより長かった。

そしてこのブログが、こういうブログになるとは思ってもみなかった。

勉強にもなったし、見識が広大に広がった。

Photo_3

全く知らなかったいろいろな歴史を知った。

このドラマがきっかけである。

感謝したい気持ちでいっぱいである。

2

今はこのブログをどうしようか考え中である。すこしやりかけの感じもする。鄭蘋如については特に。


撮影の合間
Photo

Photo_2

Photo_3

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